余談「アリス、1人の時間にて」
同時刻、烏屋書店では。
カウンターの上に、山のように積まれた書類。それがアリスの視界を覆うほどの高さまでそびえたっており、カウンターの向こう側を見渡すことができない。
「はぁ……」
溜息を吐きながら、アリスの左手に握られたペンが、高速で書類の山を片付けていく。スラスラと撫でるように描かれた文字は、滲むことなく紙の上にまとまり、1ミリの狂いもなくもうひとつの書類の山へと乗せられていく。
「送り出したのは良いけど、なんだかんだお店に1人となると、寂しいものねえ……」
あっという間に山の半分を片付けると、背伸びをして椅子の背もたれに体重をかける。
ふと眺めた店の外は、主婦や年配の男女が行き交い、所々で楽し気な会話をしている。
「……ま、そのうち帰ってくるし、紅茶でも淹れてきましょ」
暖簾をくぐり、アリスは台所へ向かう。
やかんの煮沸音が、小気味よく響く。何の気なしに、鼻歌が流れた。
「……ふんふんふーん、ふーんふんふん……♪」
蓋がかたかたと踊り始めた頃、アリスはすっかり上機嫌になっており、歌詞もない歌を口ずさんでいた。食器棚からコップを取り出し、くるりと軽い足取りで1周したところで
「……あ」
いつの間にか帰ってきたらしい、真浩たちと目が合った。
「た、ただいま戻りました……」
気まずそうに苦笑するマチ子が、目も合わせずに廊下へ戻る。唐突な出来事に思考の追いついていないアリスは、引きつった頬で真浩へと視線を送るが、
「よう、お前その歌20年以上歌ってんな」
あっという間に崖から突き落とされていった。
四つん這いで項垂れるアリスを尻目に、真浩はカウンターに残された仕事に取り掛かる。
「何よ……せめておかえりとか、恥ずかしいとか、言わせる暇があっても良いじゃない……」
「あーそうだ。留守の間仕事さんきゅな。いつも助かってるぜ」
廊下の奥から、間の抜けた声が返ってくる。一見まるで気持ちのこもっていないような声。
しかし、その一言を聞いて、溜息と共にアリスの心の靄が晴れていく。
(我ながら単純ね)
ゆっくりと立ち上がり、食器棚からコップをもう2つ取り出す。
「マチ子ちゃん、真浩。何か飲む? 紅茶かコーヒーならあるわよ」
先程までとは違う歌を、アリスは再び口ずさみ始めた。