悲しい過去
明憲様のご側室となったお糸様は、実は旗本の末娘などではなかった。
ご領地の千太刀藩の中でも最も山深い場所にある村に生まれた、身分の低い農民の娘であった。
お糸様と明憲様が出会ったのは、千太刀藩で天候不順による不作が続いた年の事だった。
藩の窮状を把握すべく、明憲様は家臣たちに領地内の各村の損害状況を調べさせていた。
するととある村が年貢の収益について明らかに不正に報告していることが分かった。
「わしが抜き打ちで村を訪れるまで、お糸の住む村の名主は不作な村から法外な年貢を取り立て、私腹を肥やしておった。そして、村の者達も皆、お糸の家族が飢えて死んでも見て見ぬふりをしておったのだ」
明憲様はその当時の事を苦々し気にそう語った。
山村と言ってもそこに住まう人々には格差がある。
大きな農地を持つ金持ちの農民もいれば、農地すら持たない小作農もいる。
真っ先に不作と名主の非道な仕打ちの犠牲になったのはそういった小作農の人々だった。
不作のために仕事はなくなり、しかし名主は年貢を納めろと急き立て、僅かに残していた米も奪い去った。
そして周囲の村人は誰も彼らを助けようとはしなかった。
自分達も生活が苦しかったし、年貢の払いが悪い者を助ければ名主に睨まれる恐れがあったのだ。
「わしはその場で名主を手打ちにした。藩では報告すれば年貢を免除していたのだ。あ奴が私腹を肥やさなければ……誰もあのような事には……!」
名主は明憲様の刀によりその場で首を刎ねられた。
そして、明憲様は朽ちかけた家で妹の骸に寄り添っていたお糸様を見つけ連れ帰った。
多くの小作農の家では真っ先に死んだのは子供だったといい、子供だけが生き残ったのはお糸様の家だけだった。
「わしは自分が領民に目を行き届かせていなかったことが恥ずかしかった……お糸を側室にしたのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりであった」
しかし側室にするにはお糸様は若すぎた上に、武家の正室やご側室には身に付けなければならない礼儀作法や教養が山ほどあった。
さらに明憲様は将来、ご側室には榮都屋敷の女主人として役目を果たしてもらいたいという希望があった。
明憲様は榮都とご領地とを1年ごとに行き来するため、1年間榮都の留守を守れる女でなければご側室にはなれなかったのである。
そのため一度お糸様はとある旗本の養女として養育され、礼儀作法や教養を身につけさせられ、10代後半の適齢期の娘に育ってから新地家に嫁いだのである。
旗本の養女となったことでお糸様は健康を取り戻した。
だが、本当の両親や妹が目の前で飢えて死に、自分も死にかけた事は傷となってずっと心の奥底に残っていた。
お糸様にとってそれは尽きぬことのない食への渇望――「食欲」であった。
「舞を観ていた時の事を、ぼんやりと覚えています。モノノケは私と一緒になって、食べても食べても空っぽだった私のお腹を満たしてくれたんです。ですからもう、ああなってしまう事はないでしょう」
そうお糸様が口にすると、明憲様はよかったよかったと言って泣いておられた。
モノノケが最後に天へ昇ったのは、仏壇のお下がりの饅頭をたらふく食べたかららしい。
新地家の守り本尊のご加護を得て、消えずに天へ昇ったのだという。
「モノノケってというのには、いろんなのがいるんだろうな。紅、お前はあの蛇が言った通りに、これからも人の子を救うのか?」
鼓吹座に戻った後で、黒梅が私にそう聞いてきた。
だが正直、私にはあのモノノケが言ったことにいまいちピンと来ていなかった。
ただこの鼓吹座の舞巫女でいたい。
私が思うのはその1つだけであった。
「モノノケが私に何を期待したか知りませんが、私はこの鼓吹座の舞巫女ですから。モノノケだの妖怪だのの退治屋になる気はありません。これからも舞台に上がって、舞を舞うだけです」
「……そうか」
「ですから座長、私に変な『副業』させようなんて思わないでくださいよ? 今だって忙しいんですから、これ以上の仕事は受けられません」
お客様の前へ出て、舞を舞う。
来てくれる人たちの期待に応える。
それだけに集中したいのだというと、黒梅はホッとしたような表情を見せた。
「お前がそう言ってくれるなら、俺もガンガン仕事をさせるだけだ。実は、古いごひいきの中から鼓吹座を改装してもっと大きくしてはどうかという話が出てるんだ」
「ここを?」
「ああ。新地様にもその話をしたところ、お糸様の身を救ってくれたお礼にと、榮都のいい場所に土地を持っていそうなお武家様に話を下さることになった」
明憲様はご縁のある方々に話をし、すぐに鼓吹座の移転先を見つけてくださった。
なんとそこは、道楽が過ぎたためにお取り潰しになったというある大名の屋敷だった。