榮都屋敷のお糸様
「お糸はさる旗本の末娘でのう。この屋敷に来てからずっとこの様子で気の毒で気の毒でならんのじゃ」
忙しい明憲様は傍にいてあげられないことが多く、若いご側室が1人で苦しんでいるが辛いのだとおっしゃった。
私はせめてもの慰めに、と呼ばれたらしい。
「観れば病も軽くなるという鼓吹座、紅の舞じゃ。お糸の具合までが良くなるかは分からぬが、少なくとも気晴らしくらいにはなろう」
「はい……ありがとうございます、御前様」
お糸様はそう言って無理に笑顔を見せたが、明らかに苦しそうだった。
私の中で、モノノケが「寝かせたほうがいい」と言った。
「明憲様、ではさっそくお糸様に私の舞をご覧に入れましょう。ですがお糸様は明らかに立っているのもお辛いご様子、差し支えなければ……横になったままで観ていただいてもよろしいでしょうか?」
「なるほどのう。確かに、観ている間に倒れてもいかんし、お糸の部屋からは蓮や庭の花も綺麗に見えるのじゃ。そういう趣向も悪くはないであろうな」
屋敷の人たちが準備をし、私は部屋の中から明憲様とお糸様に舞を観てもらうように、庭で舞う事になった。
その間に鼓吹座には使いの者が向かい、浄瑠璃の承之助や笛太鼓の演奏者達もやって来た。
「紅、何だかとんでもねぇことになっちまったなぁ……俺達ぁ、お武家様のお屋敷で演ったことなんかねえよ」
「私だってないよ、承之助さん。それよりもしかしたら、これから前のお細さんの時みたいになるかもしれない」
承之助や黒梅をこっそり庭の蓮の葉の裏に呼んで、私はお糸様にモノノケが憑いているだろうと話した。
私の舞には神気と妖気の両方が混じる。
それに誘い出されてお糸様に憑いたモノノケが出てくるかもしれない。
私がそう話すと、この間の事を間近で見ていた承之助や笛太鼓の演奏者達は怖がっていた。
だが、黒梅は「やるしかないだろう」ときっぱり言った。
「受けた仕事は最後までこなすのが鼓吹座のつとめだ。それに、この舞が成功すれば、新地様が新しく紅のごひいきについてくれるかもしれないだろう?」
「そ、そうだけどよ座長! あの、でっけぇ声で怒鳴る魚みてぇな、またあんなのが出てくるんだろう?!」
「落ち着け、承之助。ここは武家屋敷だ。周りを見てみろ、いざとなれば刀を抜けるお方が何人もいる」
明憲様の護衛のため、周囲には常に養之助様や藩士のお侍が控えていて、明憲様自身も立派な大小を差しておられた。
刀はモノノケの天敵なのだ。
もし舞の最中に何かあれば、真っ先に動いてくれるだろう。
黒梅と私はそう期待していた。
「あまり長い舞だとお糸様が疲れてしまうだろうし……そうだな。紅、今日は『勝鬨』を舞え。病魔を斬るという剣舞だ。お前の言う通りお糸様にモノノケが憑いているというのなら、効果があるかもしれん」
そう言って黒梅が私に差し出したのは、一振りの刀だった。
刃渡りは2尺1寸ほど。
普通、舞や芝居には「竹光」という竹製の模造刀を使うが、持ってみるとそれにしてはかなり重かった。
黒梅に聞いてみると、あっさり本物の刀と認めた。
「先代の座長・速水梅山から受け継いだ打刀、『忍兼光』だ。心して使えよ?」
「いや待って座長! なんでこんなもん持ってんですか!!」
刀を持つのは武士の特権である。
だが当然、黒梅は鼓吹座というただの芝居小屋の長であって武士などではない。
忍兼光がどれほどの刀かは知らないが、これはヤバいのではないか。
私がそう思っていると、承之助が「良いんだよ」と言った。
「梅山さんは鼓吹座を立ち上げる時に、先の将軍様から苗字・帯刀を許され、この『忍兼光』を賜ったのさ。座長も先代さんの養子になってそれを継いでる」
「えっ、そうなの?」
「そうそう。今の将軍様はあまり芝居やなんかには興味をお持ちでないようだが、先の将軍様の頃にはそうやってひいきにされてた役者が何人もいたんだってよ」
有力な百姓、商人や人気役者などの中には、たまに藩主や将軍家などから苗字・帯刀を許される者がいるという。
先代の座長は先の将軍様の前で何度も芝居を披露し、「これからも精進し、子々孫々その技を受け継いで芸の道を究めるように」と速水姓を賜ったらしい。
普段、その証である「忍兼光」は大切にしまってあるが、ここぞという時には黒梅も差して歩くことがあるらしい。
「先代いわく、この『忍兼光』には芸事の神が宿るという。だから、特別な芝居や剣舞を演る時には竹光ではなくこれを使うのが鼓吹座の習わしなのさ」
「神様が?」
私は刀をじっくりと見た。
末摘花命とモノノケは「?」という反応であり、それらしいものがついているようにはみえない。
だが、黒梅や鼓吹座の者達はみんなそう信じているらしい。
「それに本物の刀には竹光にはない輝きがあるからな。今回の舞台は外だが、少々曇り気味だ。少々重かろうが、舞には映えるだろう」
「分かりました。まぁ、演ってみましょう」
私は黒梅に言われるまま、忍兼光を小道具として剣舞「勝鬨」を舞う事になった。
この舞は、戦に勝利した戦国武将・武枝深淵の戦勝を祝い、その愛妾であった舞の名手・お寿和がその刀を手に舞ったとされるものである。
武枝家に仕える武士たちが歌う「勝鬨の歌」を浄瑠璃で表現するため、今回の演目は承之助の唄い手としての実力が試される舞台でもあった。
「分かった。座長がこの『忍兼光』を出してくるくらいなら、俺も腹ぁくくんなきゃなんねぇな。鬼が出ようが蛇が出ようが、涼しい顔して最後まで唄ってやらぁ!」
自分の見せ場が大いにある演目になったせいもあるのだろう、承之助にも気合が入ったようだ。
すると、承之助を兄貴分と慕う笛太鼓の奏者たちも「兄さんが言うなら」と頷いた。
舞台の準備もすっかり整った。
私は化粧を整え、お糸様の部屋の前に立った。