プロローグ
(次回、第一話からは主人公視点で書かせていただきます)
私達の世界によく似たとある世界――
これは当時の主だった国々より「耶汎」あるいは「慈班九」と呼ばれた地の物語である。
時は三代将軍金実満足の頃、榮都の市街地開発に伴い、取り壊されようとしている古い社があった。
祀られているのは赤い染料や薬の材料となる紅花を育てる人々より信仰され、「末摘花命」と呼ばれた神であった。
しかし榮都に幕府が置かれて以後、居住地を確保するために榮都周辺の農地は次々に買収され、農民たちは他方へ移り住んだり、あるいは榮都で新たに生計を立てる道を探す事を余儀なくされた。
末摘花命の社もこれにより人々に置き去りにされ、手入れもされぬまま何年も風雨にさらされ、今にも朽ち果てんばかりの有様になっていた。
そしてとうとう、社のある用地までもが武家の大屋敷の建設予定地になり、社は取り壊されることとなった。
信心深い者ならば「祟りがあるかもしれぬ」といって社を作り直し、屋敷の敷地の隅にでも祀りなおしたかもしれない。
だが、この屋敷を建てるのは出世欲の強いせっかちな男であった。
男は朽ちた社などさっさと片付けて早く屋敷を建て始めろと下の者達を急かし、社は5月の長雨が止み次第取り壊されることになった。
(なんとも侘しい最後だが……これも妾という神の運命なのだろう)
末摘花命には社を取り壊そうという人間達を祟る気はなかった。
社が取り壊されることは悲しかった。
だが社が壊されずとも、末摘花命はじきに消えゆく存在だったのだ。
(妾は紅花の神として祀られ、村人の信心を得てこうして形を得た。皆が安心して暮らせるよう、見守って来た。けれど、それを必要とする者がいなくなれば、寿命を迎えたという事だ)
この世界において「神」は人に必要とされて初めて形を得る存在であり、それがなくなれば力を失い、やがて消えゆく存在である。
末摘花命もこの世界に生まれ、神として自我を持った時からこの事を自覚していた。
自分にどれだけのご利益があったのかは今となってはよく分からないが、末摘花命は慈悲深く人々を見守って来た。
しかし、ここで最後に赤子が生まれたのを見たのは一体いつだったろうか。
老人の最後を看取ったのはいつだっただろうか。
最後の一人が背を向けて去っていくのを見たのはいつだったろうか――。
人々は去り、神として見守るべき者が誰一人としていなくなってしまった。
その寂しさを思い返すたびに、末摘花命は早く楽になりたいと心から思うのだった。
とある女が社の傍らで倒れたのは、ようやく長雨が止もうとしていたとある夜の事であった。
女は馴染みの客に請われ、昨年大商人の家に身請けされたばかりの元遊女であった。
その体は病に蝕まれ、命は今にも尽きそうになっていた。
そしてその着物は――べっとりと人間の赤い血で汚れていた。
「あの男……わっちが病持ちと分かった途端に犬猫みたいに扱いやがって……!」
女は血で真っ黒になった出刃包丁を震える手で地面に叩きつけた。
不治の病に冒された女は彼女を目の飛び出るような高値で身請けした男にとって、汚らわしく疎ましい存在以外の何物でもなくなっていた。
花街で「千年に一度」ともてはやされた美しさも色あせ、男たちを楽しませた巧みな話術や舞を披露する元気もない。
男は女に美しい着物を着せて連れ歩き、人々の羨望を浴びる事を何より楽しみにしていた。
誰もが欲しがった美しい女を毎夜独り占めし、男の欲望と優越感を満たす事を夢見ていた。
そのどちらもが叶わなくなった男の心にあったのは病に冒された女への憐みではなく、「騙された」という恨みばかりであった。
女は亭主と姑の手で屋敷の奥に押し込まれ、次第にもうこの世にはいない者にされた。
表では新しい嫁探しに話をしているのが聞こえてきた。
ついには水さえ差し入れられなくなった離れの部屋には黴が生え、ネズミが走り回った。
冷たい部屋で床に伏しながら、女は恨みを募らせた。
そして――女の心にはモノノケが住み着いた。
「お前様……これが今生の際のお願いでございます……お前様が好きだと言ってくだすったわっちの舞い……最後にもう一度見てやってくんなまし」
廓時代の金襴の着物に袖を通した女は、家の者たちが恐怖に顔を引きつらせる前で舞を舞った。
手には出刃包丁を2本、扇の代わりにひらりひらりと翻す。
三味線、笛太鼓の代わりに鳴り響くのは逃げ惑う者達の悲鳴に許しを請う叫び。
屋敷が彼らの血で真っ赤に染めあがるまで、女の舞は終わらなかった。
亭主、姑、番頭、手代、新人りの奉公人、彼女の舞うのを見た者は1人も生きて屋敷を出る事は叶わなかった。
「あぁ……お社の女神様、わっちはこのまま地獄へ逝きます。『あれ』はわっちに最後にもう一度、舞う事を叶えてくれんした」
女は社の前に立つ末摘花命を見上げて辛そうにほほ笑んだ。
死にゆく者達に最後の抵抗されたのだろう。
着物を染め上げている真っ赤な血には、切り殺した者達ばかりでなく、自分の血も交じっているようであった。
「そなたには、妾が視えているのか……」
紅は女の傍らに膝をつき、血だらけの顔を拭ってやった。
そしてかすれた声で自分の行いを吐き出すのを聞いてやった。
モノノケが憑いたために人間であるこの女には見えないはずの末摘花命の事が見えるようになったのだろう。
こうして誰かと会話するのは、末摘花命にとって初めての事であった。
「神様……わっちはもう死にます。でも……わっちがいなくなったら……『アレ』はどうなるんでありんしょう……?」
女は荒く苦しそうに息をしながら言った。
「わっちが恨んだのはあの家の者達だけ……わっちが呼んじまったあのモノノケは……人を食う悪霊にでもなっちまうんでありんしょうか……?」
「安心するがよい。そなたの気が済んでいるのなら、もう他所で悪さをすることはない」
末摘花命は女とこうして会話できていることに妙な感動を覚えながらそう言ってやった。
この世界において「モノノケ」は人に憑き、その者の欲を食べて力を得る存在である。
何かを得たい、成したいという強い欲がモノノケの目に叶った時、人はモノノケ憑きとなるのだ。
憑いた人間の欲が尽きぬ限り、たとえその人間が死んだとしてもモノノケは生き続ける。
だが人の欲が尽きた時、モノノケはそれと同じくして寿命を迎えるのである。
「モノノケは、そなたと一緒になって、この晴れ着に袖を通せたのが嬉しかったようだな」
末摘花命は女の着物の裾に鮮やかな橙色の花が描かれているのを見た。
紅花――古来には末摘花とも呼ばれた花である。
「そなたと一緒に逝くと言っている。それで悔いはないようだ」
「……変なの。意味がわからない……」
「人の子にモノノケの心は分からぬものだ。けれど、案外そういうものなのかもしれぬよ。人も、モノノケも……それから神も」
女とモノノケは、命尽きてどこへ行くのか。
それは分からないが、自分も彼らについて行こうと末摘花命は思った。
旅は道連れ世は情け。
その方が寂しくないと思ったのだ。
「妾の社ももう直に取り壊される。妾もそなた達と一緒に逝ってやるとしよう」
「えっ……」
「腐っても神の端くれよ。きっと妾が一緒に逝けば、地獄の閻魔大王も少しはそなたの罪を軽くしてくれるであろう。さぁ……安心して眠るがよい」
末摘花命は女の苦痛を和らげてやろうとその髪を指先で透いた。
女の着物は青白く光を纏っている。
モノノケも紅と同じように、女を最後まで守ってやるつもりのようだ。
だが――女は末摘花命が消えてしまうと聞き、「ダメだ」と声を上げた。
「わっちは……わっちの我儘で屋敷の全員を殺した……神様が、そんなわっちと一緒に逝ったらいけません……モノノケだって」
女はそう言ってすすり泣いた。
「わっちを哀れに思って、力を貸してくれただけでありんす……! それなのに……!」
「泣くな。そなたは優しい子だ……だが、妾もモノノケもこのまま終わる運命にあるのだ」
末摘花命はそう言って女の手を握る。
その上に、目に見えない誰かの手の感触が重なった。
モノノケもきっと末摘花命と同じ気持ちなのだろう。
「きっと我らは、最後にこうして会えてよかったのだ。そうでなければ皆、1人で寂しく死を受け入れるしかなかったであろう。こうしてれば誰も、寂しくはない」
「だけど……だけど……」
「妾の社にはとうの昔からずっと詣でる者もなかった。神の役目である慈悲をかけてやる相手がいないのは、生きていても死んでいるのと同じだった……妾はそなたのために、最後の仕事ができるのが嬉しいのだ」
たとえそれが人の道から外れた大罪を犯した女であっても。
末摘花命は目の前の死にゆく女を生まれたばかりの清らかな赤子のように優しく抱いてやりたいと思っていた。
「だけど……神様が消えちまうなんて……」
今わの際にその強い恨みから解き放たれた女は、末摘花命が既に消える運命にあると言うといっそう悲し気に泣いた。
何とかならないのか。
そう、繰り返し問いかけた。
「わっちには……わっちにはずっと……優しくしてくれる人なんかいなかった……。わっちが身体を差し出さなきゃ、金を稼がなきゃ……笑ってもくれなかった……だけど神様、お前様は」
「ああ。聞いている。妾はそなたが眠るまでここにいてやろう。妾が望んでそうするのだ。気にすることはない」
「だけど人を殺したわっちを……こんなわっちを……こうして優しく抱いてくださる……そんな優しい神様が、消えちまうなんて……嫌で……ありんすよ」
女の声は擦れ、次第に聞き取れなくなっていた。
「いいのだ、神とは、人が創ってくれて初めて形になる。そして人に必要とされてこそ、人を守ってこそ、人に慈悲をかけてこそ、この世に在れるものだ。最後にそなたに会えて、妾は救われたのだ」
雨はもうじき止むだろう。
周囲の雨音が小さくなっていくのを聞きながら、末摘花命は自分と女の死を受け入れようとしていた。
だがその時、誰かの声が「待て」と紅を呼んだ。
女の着物に纏う青白い光が強くなっていた。
声の主は、女に憑いたモノノケだった。
(太夫は、新しい「欲」を得た。おかげで、私が一緒に逝けなくなった)
モノノケは人の欲を食って生きる。
女が家族を殺し、恨みを晴らしたことによりモノノケも消えるはずだった。
だがモノノケはそれができなくなったと言った。
(私は廓にいた頃からずっと、太夫が好きだった。この着物に憑いて、ずっと太夫を見守ってた。だけど私は何にもできなかった)
女が亭主や姑を殺したいと思った時、モノノケは初めて女に力を貸すことができた。
殺したいという強い欲――それがモノノケに力を与え、病に弱った女の身体を動かしてやることができたのだ。
モノノケはそれでいいと思った。
心優しい太夫だった女を狂わせたのは、ひどい扱いをした屋敷の人間達だ。
最後に彼らを懲らしめ、思いを果たした女と一緒に逝ってやれるなら、自分が生まれた意味があると思った。
(だけど太夫は、神様に消えて欲しくないと思っている。それが私に力を与える、太夫の新しい「欲」だ)
「なんということか……死ぬ間際のこの者にそこまで思わせてしまうとは」
末摘花命はため息をついた。
するとモノノケはこう言った。
(末摘花命、このままだと私だけが生き残ってしまう。だけど、自分だけ生きるのは嫌だ。私の言うとおりにすれば、太夫も神様も死なずに済むかもしれない。ちょっと私に任せてくれないか?)
それは人に憑き、欲を吸って生きるモノノケにしかできない事であった。
自分が末摘花命と女の魂――神と人という事なる魂の「繋ぎ」となり、新しい命としてよみがえらせるというのだ。
「我らが、3つで1つになるということか」
(簡単に言えばそうだ。やるなら急がないと、太夫の命がもう危ない)
「全く別の存在に生まれ変わる……まさかモノノケにそんな芸当ができるものがいようとは信じられぬな。だが、妾もこの者が人生をやりなおせるというのならばやぶさかでない。ここはひとつ……そなたに任せてみるとしようか」
紅がそう言うと、モノノケは意を決したようだった。
そして女も最後の力を振り絞り、こう口にした。
「わっちの……わっちの……この、汚れて弱った血肉でよければ……使ってくんなんし……命も魂も……全部、お前様たちに……任せるでありんすよ」
「妾も妾の全てをそなた達に預けよう。神の力も、知恵も、妾に残ってる全部を持ってゆくがよい」
女の手を握り、末摘花命もそう言った。
するとモノノケがこう2人に続けた。
(なら、私も私の全てを以って神様と太夫の魂を繋ごう。本来なら私みたいなチャチなモノノケが手を出していいような技じゃない……だけど、今ならなんだってできる気がするんだ)
最後に、モノノケはこう言って笑ったようだった。
(私も、神様と太夫に会えてよかった! 私を必要としてくれる仲間ができた……こんな嬉しいことはないさ!)
榮都の人々はそれを、古い社に特大の雷が落ちたのだと思ったようだ。
すさまじいエネルギーが青い光となって弾け、社は跡形もなく消し飛んでしまった。
だが、その話は特に噂話にもならずに忘れられてしまった。
世間は身請けされた太夫――かつての花街一の名妓「呉藍」が一家を惨殺して姿を消した事件の話でもちきりだったのである。
(第一話からは主人公視点で書かせていただきます)