夢の工房
「ふぅ~~~」
壁を睨み付け、深く息を吐く。
瞬きはせず、姿勢は仁王立ち&腕組みだ。
え?それで何をしているかって?
壁のシミの数を数えているんだよ。当たり前だろ。
(おかげで落ち着いた。落ち着いた気がする。)
ひとまずシミの数が500を越えた所でようやく他事を考えられる程度には理性を取り戻せたようだ。
ついさっき俺は奴隷の少女ナナイナと一線を越えかけた。
今だに彼女に体重を預けられた心地良さと温もりが身体に残っている気がする。
できることならあのままチョメチョメな関係になりたかったと切に思う。マジで。
(って、あかんあかん。何度やるのこの流れ。シミが521、522……)
だが、俺は冷静にならなければならない。
これからの事を考えればそれは越えてはいけない一線なんだ。
その越えていえない一線を容易に飛び越えさせてしまうだろう彼女はといえば、今は俺の後ろにあるソファに座っているはずだ。振り返れずにいるから実際どうか分からんけども。
……さすがにもう振り返っても平気だろうか。
どうだろ?そろそろ落ち着いた?変な気起こさない?俺、大丈夫?
アメンボ赤いなあいうえお
カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこぴょこ
うーみーはー広いなーおおーきいーなー
オーケー。オーケー。オールグリーン。
もう大丈夫だ。
「よし。ナナイナ。付いてきてほしい場所があるんだ。」
「それはいいけど、"ちょっと落ち着くから待って"って言ったまま、ずいぶん怖い顔でじーっとしてたけど……大丈夫?」
「ぶおっ!?」
予想していた声が予想もしない近距離から聞こえて変な声が出る。
「なななナナイナさん。ちょっと近いっす。」
「放っておいた上にそんなこと言う?コウメイ様は酷いんだ。もう。」
せっかく落ち着きつつあった欲情がぶり返しそうになるが、不機嫌そうにそっぽを向くナナイナに対する焦る気持ちが勝ってくれたようだ。
「いや、すまん。落ち着いた落ち着いたから。無視してすまんかった。」
というか、逆にナナイナはあんな事の後で、平然と俺と接することできるってどうよ。
何とも思ってないんですか?女子ってそういうもんなのっ!?
「ふーん。大丈夫ならいいんだけど。でも付いてきて欲しい場所って?コウメイ様のことを教えてくれるならここでもいいんじゃないの?」
"ここ"とは今、俺とナナイナがいるこの部屋のことだろう。
確かにお喋りするだけなら、そこのソファに肩を並べて座ってまったりするのもいい。ただ今から話したい事について言えば、それはちょっと難しい。
「口だけだと説明しにくいんだ。移動するって言っても下の階に行くだけだからさ。」
「下の階……そっか。じゃあ行こ!」
(ん?)
一瞬だけど、ナナイナがほっとしたような表情を浮かべた気がしたが……気のせいか?
既にこちらに背中を向けてしまった彼女の表情は伺い知れない。
「コウメイ様どうしたの?行かないの?」
振り返り「もうっ」と小さく声に出したナナイナの顔からは特に違和感を感じない。強いて言うなら口を尖らせた仕草が可愛いくらいか。
「コウメイ様?先に行っちゃうよ?」
「あ、いやすまん。行くかってちょっと待てい。階段危ないぞ。」
一歩踏み出したナナイナに慌てて駆け寄る。
左足が義足にも関わらず立ち上がるだけなら何の違和感もない程に上達した彼女でも油断は禁物だ。
俺は手を差し出す。
「ほら、掴まって。」
「ぁ………う、うん。」
俺の手をおずおずと握るナナイナの頬は赤くなっている。
ナナイナも全く平気って訳じゃなかったらしい。
お互いにさっきの出来事を思い出さずにはいられないよな。
………あかんあかん
冷静に。冷静になるんだ。
「じゃあ、階段を降りるから慎重にな。」
「歩く練習はたくさんしたからたぶん大丈夫だと思うんだけど」
「確かに上達ぶりには目を見張る。よし。万が一階段を踏み外しても俺が下敷きになるだけだから大丈夫だよ。ばっちこーい。」
「えっ!?それはダメ!落っこちないように頑張る!」
俺の手を握る彼女の手に力が入る。
本気で俺を怪我させることを心配してくれてるのだろう。
「そんなに緊張しなくていいって。それはそうと腕はどうだ?義足はともかく、義腕はまだ慣れないだろ?壁に手を付けるくらいはできそうか?」
「うん。細かい動きはまだ難しいけどそのくらいならできるよ。」
ナナイナは元々ある右手で俺の手を握り、空いた左側の義腕を壁に添える。俺は彼女の手を引きつつ、慎重に階段を先導する。
ゆっくりとゆっくりと。
ナナイナが焦らないように、時間をかけて階段を降りるにつれて下の部屋の様子が見えてきた。
そして1階に無事に降り立てそうな所で少し余裕が出たのか、ナナイナが疑問を口にした。
「あれ?一階が工房になってるって言ってたよね?えーと、ここがそうなの?」
もしかしたらナナイナは"工房"というくらいなのだから工具やら材料やらが所狭しと並んでいる光景を想像していたのかもしれない。
そう考えていたとしたら彼女がそんな疑問を口に出したのも頷ける。
なぜなら一階の部屋には何もないからだ。
(何も無い訳じゃないけどね)
正確には棚やら台やらが置かれている。
ただ、その棚の中にも台の上にも何も置かれていない。
だから、"何もない"という表現がしっくりくる。
「何にもないよ?」
やはりナナイナもそう思ったらしい。
「何にもないのはここが工房じゃないからだよ。まぁ、それはそれで問題なんだけど…あれ?でも、ナナイナさん?二階に上がる時に一応ここを通ったんですけど?一階がこんな風になってるって意外でした?」
「もうっ!!また意地悪言った!!来た時って私はそれどころじゃなかったじゃん!」
強い口調もそんなに目を泳がせて気恥ずかしそうにしてたら意味無いぜ?
なんて言ったら流石に嫌われるかな?
「悪い悪い。」
ここに来た時とはつまり奴隷として初めて我が家に来た時のことだ。
その時の彼女はといえば生きることに絶望している真っ最中だった。とても部屋の様子を伺うような余裕はなかっただろう。
それを把握した上で、こうやって弄って冗談を言えているのだから、割りと俺の心は落ち着けているらしい。さっきから握られた手に心臓にあるみたいにドキドキしているのは気のせいだ。
「ここは店の在庫なんかを置く倉庫にしようかと思ってる部屋なんだ。まだここに置くほどの商品はないけどね…」
「それってお店として大丈夫なの?」
「まぁ、一応」
「私が言うのもあれだけど、コウメイ様はよく奴隷を買えたね。」
ナナイナの視線が痛い。
そりゃあ、今のところ俺ってば無職に見えますもんね。
でも、大丈夫。
ちゃんと君を養ってみせるからっ。
心の中で固く誓う俺を他所に、ナナイナが倉庫を見回す。
「でも、ここが倉庫なら……工房は…そっち?」
ナナイナが倉庫にあった1つの扉を指差す。
「いんや。その扉は売場側に入れる扉だよ。」
その扉は俺達がいる倉庫と商品を販売するための店舗部分を隔てている扉だ。残念。
「えっと、じゃあもしかして工房って外なの?」
そう言いつつナナイナは最後に残った扉を見る。
彼女がその扉を"外"と考えたのも仕方がない。
なぜなら扉の横にある窓からは日の光が差し込んでいて、扉の隙間からも同じように日光が漏れている。
故に彼女が言うようにその扉は明らかに外に通じている。
そして、この扉以外に他に倉庫から出る扉はないのだから、その扉が工房に通じている事になる。
「半分正解で半分ハズレ」
だが、残念ながらそれも不正解。
「ま、答えは見てのお楽しみってことで。」
俺がその扉のノブに手をかける。
「あっ!?待って!!外はちょっと……」
だが、扉を開けようとする俺の袖をナナイナが掴んで止める。
その手は小さく震えていた。
「もしかして外に出るの怖いか?」
「……うん。」
「……そっか。」
(これはちょっと考えが足らんかったな。やっぱりまだこの世界に馴染むのは難しい。)
彼女が外に出たがらない理由を考えてみれば、思い付くのは1つしかない。思い返せば、さっき外にでかけないと分かってほっとした表情をしていたのは、決して気のせいではなかったのかもしれない。
彼女は奴隷身分だ。
そんな彼女がこの世界でどのような扱いを受けるのかを俺は詳しくは知らない。だが、身分が低いだろうことは容易に予想がつく。
分からないのはそれがどの程度かという点だ。
彼女が外に出ることを躊躇うくらい、それこそ外を歩けないほど肩身が狭かったりするのかもしれない。
奴隷なんてものが身近に馴染みないせいで、どうも俺はその辺の対応に気が回らないらしい。こればっかりは慣れるしかないのかもしれない。だが……
「じゃあ、慣れるまで待つかと言えばそんなことはないんだなこれが。」
「え?」
時間のかかりそうな優先度の低い問題なんか後回しだ。
課題にはさせてもらうけど。
「この扉は外に繋がってない。ちゃんと俺の工房に繋がってるから安心して。」
「え、っと。そう、なんだ。」
これは全く信用されてないな。
まぁ、明らかに外へ出るための扉だもんな。
それを「工房に繋がってる」なんて言われてもだ。
むしろ完全に否定されなかっただけいくらか信用されてる証拠かもしれないと思うくらいだ。
だからと言って本当に嘘をついているわけでもない。
故にお喋りするよりも見てもらった方が早いだろう、というお話だ。
こいつを口で説明するのはどうしても難しい。
「さて、行きますか」
躊躇うナナイナの手を引き扉の前に立つ。
そのままドアノブに触れるとフワッと軽くなるような不思議な感覚が全身を包んだ。ナナイナにも同じ感覚が伝わったのか瞳が困惑に揺れた。
(あ、そういえばここに誰かを招待するのは初めてだった。変な物置きっぱにしてなかったかなぁ)
初めて恋人を自分の部屋に招くような不安と、彼女がどんな反応をしてくれるだろうかという期待を抱きながら、俺はゆっくりとドアノブを回した。
「ようこそ。俺の【夢の工房】に。」
◆◇◆◇◆
そこは感じたことがない程の明るさでいっぱいの部屋だった。
眩い白い光が天井から降り注ぎ、部屋全体を照らしているようだ。
天窓があるのかな?と天井を見上げるけど、太陽も青空も見えることはなく、そこにあるのは等間隔に並んだ細長くて白く光る物だった。
「眩しい」
「ん?あぁ、あれはLEDって言って電気を流すと光るんだよ。」
えるいーでぃー?
「へぇ……そうなんだ。光る物なのね?」
コウメイ様が説明してくれたけど光る物ということしか分からなかった。
それが灯りなのはなんとなく分かるけど、松明やランプとは明らかに違う光だ。光が揺れることもないし、明るさもずっと同じままだ。何よりもびっくりするくらい白くて強い光だ。
気になるといえば壁と床もおかしい。
木でできているとは思うんだけど、全体的につるんとしていて光沢がある。見るからに高級品だ。
でも、いくら高級品でも少しの傷もないものだろうか。どんなに目を凝らしてみてもかすり傷の1つも見当たらない。
「神様の部屋みたい。」
もちろん実際に見たことはない。
だけど、もしあるとしたら神様はきっとこんな理解の範疇を越えた神秘的な部屋に住んでいるのだろう。
ただ、
(神様の部屋にあんな物はなさそう)
この部屋に来てから一番気になっていた正面に据えられた物を見る。
それは人の形をしていた。
だけど、それは人間ではない。おそらく作り物なはずだ。
なぜならその人物には頭はあるんだけど、目や口、鼻がないのだ。本来それらがあるはずの場所はツルッとしていて何もない。なんなら髪もないから、頭もつるつる。
更に言えば、その人には在るべき物が無いのだ。
それは左腕と左足。
自ずと私の視線はある場所に向かう。
「コウメイ様?あの人形の腕と足ってもしかして?」
「そっ。あの人形の腕と足をナナイナの義腕と義足にしたんだ。」
やっぱり。
「ここがコウメイ様の工房なんだね。不思議な物がいっぱい。」
「俺のいる日本ではどれも普通だよ。LED照明やフローリングもね。まぁ、そこの人形はちょっと違うけど。まぁ、俺からしたらナナイナのいる世界にも不思議な物がたくさんあるけど。」
俺のいる世界。
私のいる世界。
「まるでコウメイ様と私が違う世界にいるみたい」
「その通り」
「え、っと、どういうこと?」
「この【夢の工房】は俺の夢が作りあげた空間なんだ。ナナイナも寝てる間に夢を見ることあるだろ。日本にいる俺も今は夢を見てる。1LDKの自分の部屋でぐっすり寝ながらね。」
可笑しいだろ?
と、笑いながら両手を広げるコウメイ様の言っている意味がさっぱり分からない。
夢ってどういうこと?
ニホン?今も寝てる?
頭の中が疑問でいっぱいだ。
どんなに理解しようとしても満足できる答えは見つからない。
『パチンっ』
小さな音が聞こえた。
コウメイ様を見ると指を鳴らしたんだと分かった。
「あんまり悩むのも良くない。ちょうどおやつ時だし座って話そう。疲れた頭には糖分が最適って古くから決まってる。」
瞬間、ふっと甘い匂いが漂う。
その方向を見れば、さっきまで何もなかった空間に丸い机と可愛らしい椅子があった。机の上にはお皿と何かよく分かんない物がたくさん。ヘンテコな形の物とかヘンテコな色をした物とか。
どうやらこの甘い香りはそのヘンテコから漂ってくるらしい。
なんだか、とっても美味しそうだ。ヘンテコな癖に。
「ここは俺の夢。俺の世界。なんでも自由な【夢の工房】。机も椅子もケーキだって好きなだけ。さぁ、お嬢様は紅茶は飲めますか?」
パチンっとコウメイ様がまた指を鳴らすと机の上に綺麗なコップがぽんっと現れ、満たされた黄金色の液体がゆっくりと湯気を上げていた。