週末のプロローグ『現』
ブックマークだけでも有難いのにまたしても評価まで頂きましてありがとうございます。しかも高評価で恐縮です。励みになります。
不定期掲載とはなりますが、引き続き楽しんでもらえれば幸いです。
かちゃ
まるで行きがけの電車に乗る勢いで飛び込んだ扉が背後で閉まった気配がある。だが、それを確認する余力はない。人生初のヘッドスライディングで滑りながら仰向けに床に転がり、肩で息を切り必死に酸素を脳ミソに送る。
「ぜぇ、ぜぇぜぇ……た、助かった」
天を仰げば真っ白な天井と壁が見えた。見覚えのある景色だ。どうやら無事に【夢の部屋】まで戻って来られたらしい。
森の中を転げ回ったせいで擦りむいた身体の所々はズキズキ痛むし、走りまくった足はピクピクと痙攣が止まらないし、横っ腹は呼吸をする度に内側からボカスカ殴られてるみたいだ。
もう動けない。
動きたくない。
満身創痍だ。
もう無理だ。
「でも生きてるぞ。見たかバカヤローっ!!」
なけなしの体力で叫ぶ。
疲れ切ったと言っておきながらそんな事に無駄な体力を費やすなんて馬鹿だと思うが、深い森の中を必死に逃げ、異形の追跡者を命からがら撒いたのだ。
その喜びを噛み締めたいのも正直な気持ちだった。
昔は運動が得意だったな、なんて威張れる物が無い俺がこんだけ頑張ったんだから。
ただ、運動が得意でないにしても流石に今に比べればもう少しマシだった…気がする。こんなに体力か落ちてるとは思ってもみなかった。歳とは恐ろしい。明日からジムに通おう。
そう心に誓いつつ、呆けた悩みに頭を使ってる場合じゃないのだ。そんな現実に頭が痛む。
確かに生き残った。だが、生き残り"切れた"かといえば、そんなことはない。撒いた、とは所詮俺の願望に過ぎない。
鉛のように重い身体を引き摺りながら動かし、件の恐ろしい森と俺を隔てている扉を目指す。ほんの少しの距離ですら嫌に長く感じる。
息も絶え絶えに辿り着いた扉は予想通り閉まってくれていた。
その事に安堵しつつ、扉を背に体重を預け、座り込む。
(どうせなら鍵も締まってて欲しかった。何かないか…重たい物は)
背中の扉を見上げるが、入る時と同じくやはり鍵らしい物がついていない。自分が出入りする分には手間がなく便利だと感じたが、いざ侵入者を拒むとなればこれ程の不都合はない。
とりあえず自分の体重を鍵代わりにしてみたものの、その場しのぎにもならないのは明白だろう。
異形の追跡者である森の魔物には俺の身体をいとも簡単にぶっ飛ばした実績があるのだから俺が抑えた扉を開けることなど造作もないはずだ。
やっぱり、奴が来る前に扉を塞げる物を探す必要がある。
体力は使い切っていても、首を回すくらいはできそうだ。
ただ、それも身の周りに扉を目的の物が見当たらないのでは何の意味もない朗報だ。
そもそも仮に何かあったところで、それを移動できるかといえば…。
絶望感が増すだけの現実に視界が、歪むよう、だ。
「あ、れ?本当に、はは…マジか。明日からじゃ遅いってか?」
視界が歪む"ような"はどうやら勘違いだったらしい。
本当に視界の端から世界が歪み始めた。目に映る全ての境界が崩れ、次第に遠くの方から霞み始めた。
白い部屋の中にいるせいでまるで目の前に霧が立ち込め、その中に一人取り残されたかのような錯覚に陥る。覚束ない腕で霧を払おうとするが、もちろん払える訳もなく指先に探し物が触れる感覚もない。
確かに全力で走って逃げた。それこそ命がけで。
疲労困憊だ。疲弊しきっている。へとへとだ。
本当にもうこれ以上動けないと断言できる。
(それにしたって情けなさ、すぎるだろ。走って逃げただけで、こんなに身体に力が入らなく、なるなんて)
次第に濃くなる霧は俺の意識が希薄になっているのを揶揄していた。
伸ばした腕は結局、何を掴むでもなく床に落ちる。
足は踏ん張るどころか指先にも力が入らない。
棒で静かに頭の中をぐるぐる掻き回されているような感覚が酷く気持ち悪い。身体の中が熱くて冷たくて自分の身体じゃないみたいだ。
「っ、う、はぁ」
それでも諦めずに目を凝らす。
ここで気を失えば確実に俺は命を落とすからだ。
せめて、この扉を塞がないことには死んでも死にきれない。
真っ白な視界の中、それに相応しい手頃な重たそうな物を探す。
「手頃な重たい物ってなんだよ……ぉぇ……気持ち悪ぃ」
阿呆だ。今の自分へのつっこみに最後の力を振り絞ったのか、一気に意識が遠退く。
鼻から口から入った霧に頭の中まで絡め取られる。
霧に占められる意識に先の事を考える余裕がなくなっていく。
身体が重い。床に吸い寄せられる。このまま横になりたい。
(ダメだ。気を失う、な、俺。扉を塞がないと、あいつが入ってくる)
もうほとんど見えなくなった目で扉を睨む。
壁に備え付けられておらず、床から生えるようにポツリとある扉は俺の事などお構い無しと言わんばかりに、変わらぬ様子でそこにある。
このドアノブさえ捻ればすんなり開く扉がどうして侵入者を拒んでくれるだろうか。果たしてこの扉の中に俺が消えるのを見ていた魔物は俺を追ってこないだろうか。
「そんな訳、ないだろ。何とか…何か…」
(たかだか扉が見下してんじゃねぇ。馬鹿にしや、がって)
無理やりに扉に怒りをぶつける。
実際は怒りなんかよりもこの状況への困惑の方が大きい。
そもそもあの魔物は何者なのか。俺の夢なのか。現実なのか
森は?扉は?この白い部屋は?もっと考えてから行動べきだった、と。
だが、今は悩むほど脳が働いてはくれなさそうなんだ。
だから、今はなんでもいい。意識さえ保てれば。
とにかく頭を働かせろ。
もし扉を塞げずにこのまま気絶したらどうなるかなんて考えたくもない。この部屋に入ってきた魔物にどんな目に合わされるかなんて。
だから、だから、だから……え?
その時、もうほとんど見えない視界の中に変化が起こった気がした。
「…………ぉぃ……嘘、だろ」
霞んでいた視界が急に晴れる。
正にそれは土壇場で俺の隠された能力が覚醒した瞬間だった。
『ハッ、ハッ、ハッ』
なら、どれほど良かったことか。
俺の目はぼやける背景の中に佇む犬の魔物の姿を鮮明に捉えていた。血走った眼と牙の生えた大きな口を持つ2メートルは優に越える犬の化物【コボルト】の姿だ。
何故このタイミングで見たくない物の姿だけがはっきり見えるのか。どうせ都合良く訳の分からない力に目覚めたというなら、他にいくらでも選択肢はあるだろうに。
全身が粟立つ感覚に震えが止まらない。
さっきまで指の一本すら動かすことも辛かったのに震えることはできるらしい。そんなことに体力を使うなら足や腕に力を回してくれたらいくらでもやりようがあるはずなのに。
(なんで)
もしかしたら今、生き残るために最も重要な仕事は"見ること"だと本能が勝手に判断したのかもしれない。敵を視認し、見逃さないようにと。
だとしたら、余計な真似を、としか言いようがない。
(どうして、奴がこの中にいるんだよ)
見えていなければこれ以上考える事は増えなかった。
(俺がこの部屋に来てすぐに扉は閉まった。それから開いていない。だから、入れる訳がない)
確実に俺の背中にずっと扉はある。
開いたのに気が付かない訳がない。
でも、目の前にコボルトがいる事実は揺るがない。
(扉が閉まる前の一瞬に侵入を許したのか?それとも他に扉があった?なんでその扉の存在と場所を知ってる?どうして正面玄関から来ないんだよ。そもそも何でそこまでして俺を追わなければならない。俺が何か悪いことをしたか?なら謝る。謝るからもう許してくれ。頼むから。)
ただでさえ、何が起こってるか分からない状況。
更にそこに理解しがたく、したくもない問題が降りかかれば
これ以上、もう…
「ぁ」
考えることを止めるしか方法は残されていなかった。
はたまた、いっそ殺されるならせめて意識を失くそうという自衛本能が働いたのかもしれない。
それは分からないし、今となってはどっちでもいい話だ。
無理矢理繋いでいた意識は、一瞬、手を緩めただけで簡単に手放されてしまう。
最後に聞いたのは自分の声。
「夢なら、覚めてく、れ」
あぁ、本当にそうだ。
俺もそう思う。
◇◆◇◆◇
「ん」
耳の奥に小鳥の囀りが聞こえた。
それを意識できれば、さっきまで完全に電源の落ちていた脳が起動し始める。瞼を抜けて眼球に浸透する日光がさらに覚醒を加速させる。
ゆっくり目を開けばカーテンの隙間から差し込んだ光が俺を照らしていたことが分かる。
身体はまだ重い。だけど不思議と不快感はなかった。起き上がるのは億劫だが、それは気持ちだけの話で、普段より睡眠時間を多くとれた身体は動き出したくてうずうずしている。
それはさっきまで身動きが取れなかった憂さを晴らすかのようで
「動けない?……あぁ。そういえば夢の中で、か。はは、可笑しい」
ついさっきまで見ていた夢がフラッシュバックする。
恐ろしい化け物に追われ、なんとか逃げ切ったはずが、再び追いつかれ、そこで体力が尽きる。そんな絶体絶命のピンチだった気がする。
「我ながらなんて子供っぽい夢を見てるんだか。」
ラノベの読みすぎで、異世界を文字通り夢見るなんて。
こりゃあ、誰にも話せない黒歴史決定だな。
まあ、どうせ週末の今日は誰に会うでもないのだから、いらない心配だけどな。こんな幼稚な夢をつい口走って馬鹿にされることもない。
まぁ、どうでもいっか。
さて、今週末は何をしてダラダラ過ごそうか。
「そうだよな、ポチ?ほらおいで。遊ぼうかあははうふふおほほ」
「おえ"んああ"あっ!?」
意識と身体が飛び上がる。
トンカチで殴られたような、高い所から落っこちたような最悪の目覚めだ。
何かが突然、上に乗かったのだ。
内臓が押しつぶされ息が盛大に零れる。
耐え切れずに目をかっ開けばそれを引き起こしたであろう相手。
俺の体に馬乗りになっていたコボルトと目が合い、一斉に血の気がどっかに引いていく。
「ひゅっうぎゃあああ。どっかいっけえぇ」
一瞬で自分が気を失う前の出来事が思い出される。
突如、白い部屋の中に現れたコボルトを前にして俺の頭脳が職務放棄をした事が。
恐らくそうして、気を失っていたのは一瞬だったのだろう。
そうでなければ未だに俺が無事な訳がない。
気絶していた俺を正に今、コボルトが襲うところで目が覚めたのだ。
それはお互いにとって運が悪い出来事と言える。
獲物が目覚めた向こうにとっても、安らかに逝けた可能性が消えた俺にとっても。
最悪だ。そうせ死ぬなら気絶している最中がよかった。
意識を保ったまま巨大な犬に食べられながら死ぬなんて想像するのも恐ろしい
(くぅっ!?何とかもう一度気絶できないか!?なんなら壁に頭でもなんでもぶつけてやらぁ)
必死に逃れるために身体を捻るが、体に乗った巨体を振り落とすには無駄な抵抗に過ぎない訳で…
「あれ?」
コロンと普通に寝返りがうてた。
理由は簡単。
さっきまであった身体に乗った重しが突如消えたからだ。
身体をゆっくり起こして、重りの正体、コボルトを探すがどこにもいない。
「いや、いたわ。なんであんなところに」
部屋の隅にようやく見つけた毛むくじゃらはお座りの姿勢で座っていた。それはまさに「待て」と命ぜられた忠犬のようだ。
血走った眼とだらだら垂れる涎は忠犬とは程遠い姿ですが。
暫し、その様子に警戒していたが特に動く気配がない。
「何がどうなってる?」
さっきまで俺を食う気満々だった奴が大人しくなった理由が分からない。理由があるとすれば俺が気絶している間に何かがあったのだろうけど、寝ていた俺がそれを知る方法はない。教えてくれる人もいない。じゃあ、これからどうしたら…
(……とりあえず水が飲みたい)
「えぇ?」
そう思った瞬間に目の前にふよふよとコップが浮いた状態で現れた。揺れる度に中でぽちゃぽちゃと水が波立つ音がする。
「水、出る、のかよ」
何もない空間から水が入ったコップが出現し、空中に浮く。
そんな摩訶不思議な現象は本来であれば信じがたい光景なのだが、ここが夢の中なら納得できる。
だから水が出たのも何ら不思議じゃない。
と、森へと続く扉をくぐる前の俺だったら考えただろう。
ここがただの夢の出来事だと信じていた頃の俺なら。
空中に浮かぶコップを手に取り、水を飲む。冷たい。
「こくっごくっ……ぷは。上手い。少なくとも今は思い通りになるのか。じゃあ、何でさっき森のでは思い通りにならなかったんだ?」
今は部屋の隅で大人しくしている犬の魔物コボルトは森の中ではとてもとても俺の思い通り、という態度ではなかった。確実に俺を殺そうとする敵意剥き出しの姿は、現実に存在してはいけない恐ろしい風体だった。
夢。そう。それさえ無ければ夢の続きと思えたかもしれない。
異世界に行ってみたいという俺の妄想を夢という形で見ているのだと。
だが、違った。
夢の主人公のはずの俺はコボルトを前に何もできない無力以外の何者でもなかった。
ここが夢だというのなら異世界でチートな能力で活躍する英雄になれるはずなのに。それが夢のはずだ。俺はそれを望んでいたから。
だから、思い通りにいかない理由が分からない。
「いや」
考えられる可能性はある。
考えたくないだけで。
.........
.....
...
.
「夢じゃない、のか。この部屋が特別なだけ、なのか」
夢のように何でもできたのはこの白い部屋が特別だっただけ。
そして扉の外は違う。夢のような現実の世界に俺はいるのではないだろうか。
立ち上がる。
確認しない訳にはいかない。
(来い)
『ハッ、ハッ、ハッ』
想像する。
部屋の隅にいたコボルトがのそっと立ち上がり、屈む姿勢で身構える。
想像する。
遥か彼方で溜めた力を爆発させるように跳ねたコボルトの姿が掻き消える。
想像する。
コボルトが駆け、足を着陸させた床が爆ぜ、その音だけがコボルトの接近を知らせる。
想像する。
コボルトの姿が目と鼻の先に突如現れ、一歩遅れて床の悲鳴が俺の耳に届いた。
『ガアアアアアアっ!!!』
「お座りっ!!」
ビタッとコボルトがその場で座り込んだ。
「3回、回って!!!」
コボルトが立ち上がりくるくるとその場で華麗なターンを披露する。
そして、
「『ワンダフル!』」
俺の声に重ってコボルトが喋ったのだった。
「ナナイナさん最近、出番がなくて申し訳ないです」
「コウメイ様のお話だから大事でしょ?別にいいよー。そういえば『現』ってなんて読むの?」
「『うつつ』。カッコいいじゃろ?」
「え?なんで?」




