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週末のプロローグ『犬』

目の前から巨体が消えた次の瞬間、生温かくて生臭い風が頬を撫でた。釣られるように風が吹いた方を見れば、今さっき消えたはずの巨体が毛深い腕を振り上げた瞬間だった。


「えっ…『ハッハハハバァア』…と」


口から漏れた意味の無い声が俺の耳に届いた頃には笑い声にも似た不気味な鳴き声に上塗りされていた。ひゅ、っと小さな音。何の。何故。何が。理由を探す間もなく、気がついた時には俺の視界が暗転していた。


ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。


まるで暗闇の中を走るジェットコースターに乗っているかのような浮遊感と回転に意識が振り回される。気持ち悪ぃ。吐きそうだ。目が回る。



「っだぁ!?」


回転が止まると同時に痛みが走る。


どうやら俺はジェットコースターから振り落とされたらしい。

その証拠に勢いはそのままに地面に投げ出された身体がめっちゃ痛い。特に足だ。痛みで震えが止まらない。


「どう、なったんだ?」


分かってる。


ジェットコースターから落ちた訳ではない事くらい。

実際に落ちたことなんかないから事実は分からないけれど、もしそんな事になれば全身ボロボロに成り果てて、こうして言葉が出せるような状態じゃないはずだ。


確かに身体はあちこち痛いが、骨が折れている訳でもなく動かそうと思えば動かせる。だから、起き上がることも…あれ?だったらなんで俺は横になっているんだ?


目の前が真っ暗で何も見えないから、状況がよく分からない。



(困ったどうしたら…って、目を閉じてたら見える訳ないじゃん。はは……何、やってるんだよ俺は。はは……ははは…)


目を閉じたまま何かを見ようだなんて本当に何を考えているのやら。まるでこれじゃあ、見たく無いものを見ようとしない、目の前の出来事が実際に起きている事だと認めたくない、認めさえしなければ関わらなくて済むと思い込んでる子供のようじゃないか。



強く結ばれた瞼をゆっくり開ける。

隙間から覗いた景色は変わらず森の中だ。



違いがあるとすれば、視線が地面すれすれでかなり低い上に90度回転していることくらい。少し離れた所に2メートルを越える犬の魔物がいるのもさっきと変わらない。


不思議そうに自らの爪を眺めている様が実に滑稽だ。

今の今まで真横にいた癖にまた俺から離れて何をやっているんだか。ふざけてる。


「ははは、本当にふざけてる……本当に、ふざけた夢だ。」


こんな夢、今まで見たことない。


森の湿った空気、泥臭さ、肌を撫でる風、葉が揺れる音。

生臭い息に、くらくらする意識、身体中の痛み、背中に滲む冷や汗。


何もかもがこんなに現実に近い夢があるなんてびっくりだ。

起こした身体だって現実に自分の身体みたいに、指先の震えまで分かるんだから驚きだ。


動かす度に軋むように痛む関節、手にこびりついた泥の不快感や、濡れた服の冷たさまで再現するなんて芸が細かい。


「俺にこんなリアルな夢が見られる特技があったなんて。明日から自慢できるな。だから、もう十分ってことで。いい夢だった。本当にサイコーだった。これ以上の夢はない!だから……だから、もう……っ、早く起きろ。なぁ!早く!起きろ!起きてくれよっ!」



叫ぶ。他の誰でもない俺自身に。

願うように切実に。身体の痛みに祈るように。

この痛みが俺をこの世界から救いだしてくれる。


そうに違いない。

そうじゃなきゃ……


「なぁ……うっ……なん、で……だってここは夢で…有り得ないだろ」


気づいたらこんな森の中にいる訳がないじゃないか。

あんな犬の化け物に出くわす訳がないじゃないか。

人間がこんなに簡単には吹き飛ばされる訳がないじゃないか。


だからこれは全部、夢のはずだ。

もし夢じゃないというのなら。


『ハッ、ハッ、ハッ』

「ひぃ」


この恐怖が本物だって事になってしまうじゃないか。



「う、うわぁあぁあぁあ!?」

『ハッハハハバァッ』



血走った眼と目が合う。


その視線から逃げるように無様に立ち上がり、背中を向けて駆け出す。湿気でぬかるんだ地面が足を掬おうとする。スニーカーがあって良かった。なんてどうでもいい。


早く、早く


どうせ走りにくいことに変わらない。理不尽だ。腹が立って仕方がない。それなのに地面が柔らかいおかげでここまでに残してきた足跡が残っていることが一方で期待させてくる。こんな小さな痕跡にすがるしかない事にもイライラする。

 

それでも助かるにはこの足跡を辿るしかない。


足跡の先にあるあの部屋まで逃げられれば。

あの部屋にさえ入ってしまえば助かる。


助かる、はずだ。

助かるはずに違いない、のに。


「なんでこんなに遠、いんだよ!」


ずっと先まで足跡は残ってる。

辿るべき道筋は確かにある。


なのにゴールが見えない。


(何が用心して歩いてるだよ!?いつの間にこんなに奥まで歩いて…)


『ハァア"ァ』

「うぁあ!?」


真後ろから不気味な鳴き声が聞こえた。

恐らく飛びかかられれば一瞬で詰められる距離は、最悪にも予想通り一瞬でなくなったのだろう。


途端に濃くなる獣の臭いに鼻が疼く。

嫌だ。死にたくな、い。


「はっ…くしゅっ!?」


この状況に相応しくないくしゃみにぬかるんだ地面に足が捕られ、身体がよろめく。すぐ頭上を風が抜ける。


『ア"ァ?』

「っ!?」


振り抜かれた腕をかわせたのは奇跡だった。

だから何度も起こるもんじゃない。

このままただ逃げていてもすぐに捕まってしまうだろう。


何か、何かしないとダメだ。

例え無駄だとしても。


「これで、も食らえっ!」


掬い上げた泥をコボルト目掛けて投げる。

悪あがきだと分かっていても他の手立てもない。

だが、一度起こった奇跡がもう一度起こってくれる奇跡を信じるしかない。


『ァ!?』

「おぃ、マジかっ!?」


まさかのクリーンヒット。

コボルトの顔面に泥がぶつかり、コボルトが怯んだ。


その隙によろけた身体を立て直し、慌てて走る。


「今の内にっ」


くしゃみでコボルトの一撃を避け、闇雲に投げた泥がそいつの顔面に命中する。正に奇跡だ。だから、同じことをやってまた上手くいく保証はない。


すぐに視力を回復させたコボルトに追い付かれる可能性の方がずっと高い。いくら、奇跡を起こせたとしても無事に生き残れなきゃ何の価値もない。


――何か他にも打開案が必要だ。


(これはどうだ?)


悩む暇はない。


止まりそうになる足を動かし一番、近くに生えていた木の陰に隠れる。そして、そのまた近くの木。更に次。次。


森の中を縫うように走る。


小細工に過ぎないのは分かっている。

こんな事をしても必死に逃げているせいで足音は消せていないし、息を潜めるでもないのだから自らの存在を隠せているはずがない。それでも、


(目が見えてないなら有効な、はず)


一時的とはいえコボルトは泥で視力を失っている。

俺の音や臭いは辿れても間を遮る障害物の存在には気づけない……かもしれない。


もしかしたら真っ直ぐにゴールまで最短を逃げた方が良かったのかもしれない。はたまた木陰に身を潜めて危機が過ぎ去るのを待った方が良かったのかもしれない。


頭を回すが、僅かな足跡を見逃すまいと必死に走る俺に画期的な案は浮かばない。何が正解なのか分からない。


(それでも悩んで何の行動も起こせないのが一番間違っていることくらいは分かる。だから、直感に従って動け。逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ)



『ギシ……ズン…』



その時、背後から何かが倒れるような大きな音が聞こえた。

つい、見れば俺の胴を余裕で上回る幹を有する樹木が1本倒れるのが見えた。


「嘘、だろ?」


倒れた樹木の根本には奴の腕を振り抜いた姿が見えた。


「あの野郎、障害物を切り倒しやがった。」


コボルトは恐らく視力は戻っていない。戻っているなら走って追いついてくるはずだ。


故にあの行動は視力以外の五感で以て俺を追跡したが、目に見えない障害物に妨害された。それを力ずくで取り除いた。そういうことだろう


なら、障害物がなくなった次は…


『ハッハァア"ァ』

「ッ!?」


すぐに進行方向に向き直り残る足跡を辿って走る。できるだけコボルトとの直線上に樹木が邪魔になるように立ち回る。


この作戦は有効だ。


その証拠に妨害しているであろう木が倒れる音が次から次へと後ろから響いてくる。樹木が倒れる衝撃が地面を這って足にも響く。


それは徐々に大きくなり、脅威の接近を教えてくれている。

死へのカウントダウンのように刻一刻と。




思えば、エルフのお姉さんがどうして出なかったのか。

あの時、あの瞬間に引き返していればこんな事にはならなかったはずだ。




そもそも、あんな部屋にさえ来なければこんな目に合っていなかった。夢が覚めない事を不審に考え、もっと真剣に考えていれば良かったんだ。それを、それを、俺は。


「こんな夢なんか見なければ良かっ……扉、あった!!」


後悔の念に押し潰されそうになる中、視線の向こうにようやく何の飾り気もない扉が見えた。


森の中にぽつん、と佇む不思議な扉だ。


(早く、早くっ!!)


さっきまでの小さな期待とは違う確かな希望が目の前にある。

限界が近かった身体に自然と力が戻る。


おかげで小指の先程の大きさしか見えなかった扉がぐんぐんと近づく。


火事場の馬鹿力、九死に一生、危機一髪、何でもいい。

全身全霊を込めた全速力。恐らく人生で最高速度。


(急げ、急げ!)


最後に一瞬見えたコボルトは犬には見慣れない2足歩行の姿勢を止め、前足を地面に付けた状態、つまりよく見慣れた4足歩行の姿勢に変わる瞬間だった。


それは本来の犬らしい姿に他ならない。

だったら最初から犬らしく登場しろよと文句の1つでも言いたいところだ。最後まで歩きにくい2足歩行を貫けよ。



後ろで奏でられる倒木の演奏がさっきよりも近い。

絶対にさっきよりも走る速度が早まってる。



それが分かったところで俺ができることは必死に足を動かすこと。バタバタと倒れる樹木が俺が走る進行方向に向かって倒れて来ないことを祈ること。


後は何でもいいから奇跡が起こることを期待すること。


それくらいだ。



「だから、頼む」



目の前の扉に辿り着かせてくれ。

鍵がかかってるなんか手間を取らせてくれるな。

そもそもあの扉が実は偽物とかいう嫌がらせもいらない。


ただ、この不気味な森からの唯一の非常口であってくれ。


あと、数歩。

ほんの数秒。



『バアァアァァアッ』



振り返ってる暇なんかない。 

(もつ)れそうになる足を必死に動かす。



「早くっ!!」



伸ばした腕がヒヤリと冷たい感覚を掴む。

手首を捻り扉にできた隙間に身体を押し込む。


押し戸で良かった。


1つの些細な、そして肝要な奇跡に一瞬気が緩む。



「早く閉め……んなッ!?」



足が何かに引っ掛かる感覚。そして引き戻される衝撃に転倒する。慌てて振り返れば、コボルトの伸ばした爪がスニーカーの踵に引っ掛かっている。


凶悪に嗤うコボルトの大きな口から涎が溢れる。

血走った目には怯えた無様な男が映り混んでいる。


「止めろ、離せっ!」


脱ごうにも絶妙にフィットしたスニーカーは脱げてくれない。

コボルトの爪を振り払おうにも深く食い込んだ爪が抜けない。


必死に扉に手をかけるが、ずるずる、ずるずると森に引き戻される。嫌だ、止めてくれ。せっかくここまで逃げて来たんだ。


最後の最後に捕まって終わりなんてあんまりだ。



「止めろつってるだろうが!俺なんか食っても旨くないぞ!だからどっかに行け!頼むから!」



嫌だ、こんな終わり方は。

あんなのに食われて終わりなんてあんまりだ。



どうせ犬なら俺なんかじゃなくて…



「っ!?なんだこれって考えてる暇なんかあるかぁあああ!!」



何の拍子かは分からないが、(おもむろ)に手の中に掴んだ物をコボルトを越えた森の中に力の限りぶん投げる。


白くて細長いそれは放物線を描きながら彼方へ落ちる。



『アハバァ………ゥ!?』

「あだっ!?」



途端に足のつっかえがなくなり、勢い余って扉の中へと転がり込む。回る視界の中、ゆっくり閉まる扉の隙間から森へと姿を消すコボルトの姿が見えた。





 パタン



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