098.幕間3
「ねぇ、ママ。どこかにお出かけするの?」
「…………えぇ、そうよ。ちょっと遠くにね。準備はできた?」
カーテンは閉じられ、電気も消え、ブレーカーも落ちている一軒家の玄関にて、二人の話し声が聞こえる。
そこには物音どころか機械の駆動音すら聞こえない。まるで海外にでも長期旅行しに行くような様相だ。
まだ20代に見える女性はひときわ大きなキャリーケースに私物全てを詰め込み、もう一人、その娘と見られる小学生の少女はお気に入りのオモチャを詰め込んだリュックサックを背負っている。
少女の顔はどこに行くことさえ知らされていないようで、小さな手で女性の服の端を摘みながら靴を履き終えるのを待っていた。
「――――よし。 ……またせたわね。それじゃ、行きましょうか」
「どこに?」
「ママのふるさとよ。ふるさとってわかる?昔住んでたところ」
「うん………………パパは……来ないよね?」
少女が両手で頭を抱え、顔を伏せるのを見て女性も暗い影を落とす。
昨晩のことが頭にこびり付いて離れないのだ。
その子が怖がっているのにつられて自分も思い出すも、暗い顔をしてはいけないと顔を振り、しゃがんで少女と目線を合わせる。
「えぇ。二人だけのおでかけよ」
「どのくらい?」
「長い時間よ。うんっと長い時間、ね。 ……寂しい?」
「ううん、全然。ボクは平気だよ」
頑張って微笑みかける少女の頭を優しく撫でると、少しだけ空元気を見せてくれたことに女性の心はズキンと痛む。
こんな小さな子が大人に気を使ってくれていると。少女自身のほうが心の傷は深いのに。
この子が「ボク」呼びになったのはいつからだったか――――確か女性があの人に手を挙げられるようになってしばらくしてから。
それは子供ながらになんとかしようと思った結果なのかもしれない。一人称を変え、格好をも男の子らしくなって自ら強くなろうとしたのだろう。
女性からしたらその一人称を聞くたび女性の心は複雑に揺れ動く。自分が至らないから。弱いからこの子にまで苦労を掛けてしまう、と。
けれどこんな思いは悟られまいと、女性は立ち上がって眉間に寄ったシワを見られないよう前を向いた。
「それじゃあ、行きましょうか――――――――愛惟」
「…………うんっ!」
――――あぁ、そうだ。
これはボク、江島 愛惟の記憶だ。
これは随分と昔。頭に浮かぶことさえ嫌悪するあの男の人が、お母さんに手を上げていた時代。
お母さんの患部は巧妙に服で隠されていて、きっと常に痛みを耐えているのだろう。
それをおくびにも出すことはなく優しい笑みを私に向けてくれている。
幼稚園の頃から行われていたお母さんへの暴行。それは始まった当初から知っていたがボク自身の弱さのせいで何もできずにいた。
小学生にもなっても続いた暴行が先日、ついにボクの目の前で始まってしまった。あの時の光景は今となっても忘れることが出来ない。
お母さんはそれが引き金になったのだ。
ボクへ被害が及びそうになった途端お母さんの行動に火が灯った。荷物を纏め、家を出ていく。ボクとしても積み重なるほど見てきたことで男性という者自体に恐怖感を持つようになったし、渡りに船だった。
そしてこの記憶は、家に緑の紙を置いて今まで住んでいた家からお母さんの田舎へ引っ越す日。
ここから全てが始まるんだ。秘密基地で愛玲菜と出会い、その数年後、璃穏にアイドルの道を提示されるのだ――――
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「私と――――アイドルやってみない!?」
「…………へ?」
璃穏の突拍子のない提案にボクも愛玲菜も同時に音を発してしまう。
そうそう。最初はなんてバカな事を言ってるんだろうって思ったんだっけ。
選ばれた理由も何度か付け回して決めただとか。全然気づかなかったよ。
「……なんで私達?付け回したのなら愛惟の状態は知ってるわよね?」
愛玲菜がボクに代わってその理由を聞いてくれる。この時はアイドルって男の人もターゲットだから難しいと思ってたんだけどね。
「それはもちろん。主導してくれるのは私の叔母さんで、恐怖症を考慮して一緒に仕事するのは女の人だけって取り付けたよ」
「…………ふぅん」
本当かどうかわからない対策を聞いた愛玲菜はどうにも懐疑的だ。突然こんな提案をされたら当然だよ。
それすらも予想の範疇だというように、璃穏も畳み掛けるように説得を続けていく。
後々聞けば、スタッフを女性のみにするなんて事はとんでもないことだったらしい。
アイドルという、ターゲットは男性も入りうるのに仕事場ですら排除するとは。しかしそれを実現するのはひとえにマネージャーが優秀だったからに他ならない。
『社長が寝る間を惜しんで全力で手を回さなければ3人が売れることなんて夢のまた夢だったわよ!あの人破天荒のくせにやる事なす事全部利益になるのが凄いわよねぇ。恋愛はダメダメだけど』
と言うのは古株の一人、受付の人の談。
発足当時はどこからか持ってきた案件を基に歌って踊ってるだけだったが、まさかそこまで頑張ってくれていたとは。
そんなこんなで時は戻り、一旦璃穏の話を持ち帰ったボク達は愛玲菜の家で話を整理する。
「……どう思う?」
「どう思うって……愛惟、断るに決まってるでしょう?何よアイドルって。そんなの興味ないわ」
「でも、あの切羽詰まった感じ…………何かあったのかな?」
「…………そうね」
璃穏と別れ際にアイドルを目指す理由を聞いたところ、気になる答えが帰ってきた。
「私は大人になるまでにトップアイドルにならなきゃならないの。それがある人との約束」と。
真意などわからない。けれどその表情は真剣そのもので、決して伊達や酔狂で提案していることではないことは理解できた。
「私は……あの子の力になってあげたいかな……」
「なっ……何言ってるのよ愛惟! そもそも愛惟には恐怖症があるでしょう!?そんなのでアイドルなんてできるわけないじゃない!!」
「そうだけどぉ……でも、対策はしてくれるって言うし……」
「いい?アイドルっていうのは大変なのよ?全力で笑いながらダンスもしなきゃいけないし、何より大勢の男の前で歌えるの?」
その言葉にボクは戸惑ってしまう。
そこまで頑張れる熱量があるのか。中途半端で終わったりはしないのか。そんな思いが頭の中を駆け巡る。けど、それでもボクにはさっきまで見ていた璃穏の顔が頭から離れなかった。
「……それでも、私はあの子を助けたい……かな。 そ、それにほら!私の恐怖症克服の一歩になるかもしれないし!!」
「愛惟…………」
「どう……かな……?」
「…………わかったわ。引っ込み思案の貴方がそこまで前向きなら私も付き合ってあげる。けど、それもお母さんが許したらね?」
「うんっ! ……ありがとね。愛玲菜」
膝の上に置かれたその小さな手をそっと握る。
ボクより小さく、細くて白い、愛おしい手。 キュッと握ると愛玲菜も少し照れくさそうにしながらも握り返してくれる。
こんな小さな子がボクよりも強い胆力を持ち、守ってくれているのだ。愛おしく、惚れないわけがない。
ボクたちはきっと永遠に、それこそおばあちゃんになっても一緒だろう。そんな視線を込めながら彼女の碧い目を見つめて微笑んだ。
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それからの話はトントン拍子に進んでいった。
両親への交渉も難なく終わり、璃穏の叔母さん……マネージャーと会ってからはひたすらレッスンの日々。
もはや時間の感覚がなくなるほど目まぐるしく動いて、レッスンも本番も区別がつかなくなるほどだった。
そんな忙しい日に追われて気がついた日にはボクたちもトップアイドルの仲間入り。
マネージャーが売上記録を片手に大手を振ってレッスン室に飛び込んできたのは今でも鮮明に思い出せる。それと同時に璃穏に流れた一筋の涙も。
結成当初から何かとトップにこだわっていた璃穏だ。人一倍思い入れがあったのは知っている。あの日は二人して璃穏を抱きしめ、マネージャーのおごりでとっておきのホテルで夕食を囲んだのはいい思い出だ。
そんなこんなで順風満帆に時も過ぎていったとある日、事件は起きた。
愛玲菜が……愛玲菜が帰ってこなくなったのだ。
正確には台風の影響で帰れなくなった。
ボクは酷く動揺したし、罰を命じたマネージャーにも詰め寄ったりした。けれど璃穏に窘められてからはひたすら無事を祈るしかなかった。
お腹空かせてないかとか、ちゃんと一人でホテル取れただろうかとか。家でひたすら愛玲菜の無事を祈っていた。
そして夜も更けてきた頃、愛玲菜から知り合いの家に泊めて貰うことになったと聞いた時にはホッとして涙しか出なかった。
身内は田舎にいるはずなのに知り合いとは……と引っかかったが、愛玲菜は人を見る目があるしきっと大丈夫だろう。ならば明日朝一でタクシーを借りて迎えに行こう。そう決めつけて夜を過ごすのだった。
そしてボクは出会うことになる。
愛玲菜を家に泊めたであろう彼と。
後に今まで出会った人の中で、誰よりも……愛玲菜よりも愛することになる彼と出会うことになるなんて、この夜は夢にも思わなかったのだ――――




