083.夢の世界の舞台裏
「――――あら、寝ちゃった?」
肩や背中が暖かな感触に包まれて、手探りでなんとかすぐ後ろに居る人物の髪を撫でていると、突然こちらに掛かる心地よい圧力が強まったような気がした。
何事かと首をひねってなんとか肩に乗っている様子を見ると、静かな寝息をたてながら穏やかに目を閉じて私に身体を預けてくれる彼の顔がそこにある。
…………まさかここで寝ちゃうとは。
もっとこう……いい雰囲気を作ったんだからそのままギュッとしてくれてもよかったのに。
でも、勢いでやってしまったが、もしここで彼が寝ずに本当にギュッとされたらどうなっていただろう。
拒否……はないけど驚いて何も動けなくなってしまったかもしれない。それを考えたら今寝てくれたのはベストだったかも。
「よっ……と。 とりあえずどうしようかしらね」
私は彼を起こさないよう慎重にその身体を支えながら立ち上がる。このまま放置したら頭から床に激突して怪我するし何らかの対策をしなきゃ。
持ち上げてすぐ近くのソファーに移動は…………ムリね。私一人じゃ男の人一人をどうこうするのは難しい。ならばこの場で寝てもらうしかない。
そう結論づけてから彼の向きのみを変え、テーブルに倒れ込むような形でそっとその頭を降ろさせる。多少身体に悪いけど、これなら落ちることもないし彼もある程度眠ることができるだろう。
「…………それじゃあ、おやすみなさい」
何も警戒心を見せない無防備な寝顔を晒しながらテーブルへ横向きに倒れ込んでいるその頬にそっと自らの顔を近づける。
その理由の一つは実験の為、もう一つは理性とは別のところにある感情がそう望んでいたため――――
そっと離した私の顔はきっと相当紅くなっているだろう。自らの体温でわかる。
更にテレビがついているはずなのにその音は全く耳に届くこと無くドクン、ドクンと私の心の音が感じる全ての音を支配していた。
まさか私がこんなことをするとは。それも寝ていて抵抗の出来ない人相手に。
反芻するように先程の行動を思い返すたび、心の音と顔の熱さはとどまるところを知らない。これはまるで2つの理由を裏付けしているかのようだった。
理性とは別にある心の叫びと、その正体は何なのかという実験……というより確かめ。
現にいくら熱くなっても、いくら煩くなってもその行動に後悔というのは一切湧き上がってこなかった。それどころか溢れるのは満ち足りた気持ちだけ。彼の体温に包まれ、その頬に触れたことで私の顔はどうしようもなくにやけているのが自分でも理解できた。
こんな表情、もし起きて見られたら泣くどころの騒ぎじゃない。
私はぱちんと自らの頬を叩いて顔を洗うため洗面所に足を伸ばした。
洗面所から戻ってきても彼は起きる気配はない。完全に寝入っているようだった。
顔を洗った私は、なんとかいつもの調子を取り戻すことができた。これならいつ起きられても対処は容易だろう。
「…………それにしても、いくら私しか居ないとはいえ家主が寝ちゃうなんて不用心ねぇ」
一つからかうように言葉を落としてから玄関まで向かって美代が出ていってからそのままの鍵をかける。
一応……一応ね!私が居るとはいえ誰かが入ってきたらどうしようもないし、もし私が寝ちゃったりでもしたら大変だし。決して二人きりだからってはしゃいでなんかない!
「でも、やることはやらなきゃね」
そう誰も居ない廊下で零して、彼を起こさないようその場でスマホを取り出し電話アプリを立ち上げる。
選択するのはここ最近交換した番号。……出てくれてるといいんだけど。
『…………あら、エレナちゃんじゃない。おはよう……じゃなかったわね。そっちはこんばんはかな?」
数度のコール音の後聞こえてきたのは少し低めの女性の声。
よかった。出てくれた。
『はい。今は夜ですね。 もう着きましたか?』
『丁度さっきね~。今はタクシーで家に向かってるところ。こっちは朝でお腹すいたわぁ』
通話の相手は近くに居ない。時差の関係でこちらの夜が朝になるほど遠くの場所に居る。
彼女の嘆きの声と、少し遠くから聞こえる高い声に、二人は元気そうだと少し笑みが溢れる。
『電話くれたってことは、ウチの愚息は大丈夫みたいね?』
『はい。今は疲れたのかちょっと寝ちゃってますけど』
『あらっ!せっかくエレナちゃんが来てるのにだらしないわねぇ……今度帰ったらお説教しなきゃ』
『いえっ!私は全然構わないので気にしないでください!』
通話の相手…………彼のお母様は少し憤慨している様子だった。私は慌ててなだめて落ち着かせる。
……それにしても、この話し方疲れるわね。けどお母様相手だししっかりしなきゃ!
『アレが寝たってことは家なのよね……ホントにエレナちゃんが様子見てくれるなんて……ありがとね。祭りのときからいつもいつも……』
『私もやりたくてやってることなので……』
『そうだと嬉しいわ。 それで、アレはどうだった?やっぱり寂しがってた?』
『そんなことないですよ。とても元気そうでした』
私が今日、この家に来たのには2つある。
一つは慎也に頼まれたから。けれどそれは私にとってはたたのついでで、もう一つはお母様に頼まれていたから。
彼は、自他ともに認めるシスコン。
当然シスコンを把握しているお母様は帰る際、私に頼んだのだ。『紗也ちゃんも行っちゃって寂しがるだろうから様子見てあげて』と――――
そんな事もあって早速会うためにスケジュール調整していたらまさかの彼から会いたいという提案。美代さんも呼んだのはマイナスだがいい子だったし、友達にもなれたしプラスにしてあげてもいい。
そんなこんなで紗也ちゃんが居なくなって寂しがっているであろう彼を励ましていると寝てしまったというわけだ。
『それにしても慎也は幸せ者ねぇ。昨日もアイちゃんが来てくれたしね』
『…………アイが、ですか?』
ふと思い出すようなお母様の言葉に私の心の音は一度大きく飛び跳ねる。
そんなこと私聞いてない。
確かに昨日どこかに行っていたが、まさかこの家だったとは。
『えぇ、紗也を入れて三人でゲームしてたわ。聞いてなかった?』
『……いえ、すみません。そういえばそうでしたね。忘れてました』
適当にごまかすも私の心には妙なささくれが出来てしまった。
アイが……男性恐怖症なのにわざわざ……?リオみたいに昔なじみでもないし一体何のために……
『そう?まぁ、慎也は適当にベランダにでも捨て置いてくれたらいいわ。家も鍵さえ締めてくれるなら泊まっても帰ってもいいからね?あ、もし泊まるなら部屋好きに使っていいわ…………紗也の部屋以外だって』
『ありがとうございます。 さすがにベランダはちょっとアレですが……』
『まぁ、アレは好きにしちゃっていいからね。それじゃ、着いちゃったからこれくらいで』
お母様は無事家に着いたようでそこから二言三言交わしてから通話を切る。
さて、私はどうしようかしら。
このままタクシー呼んで帰るもよし、仕事は……明日遅いから泊まることも不可能ではない。
そういえばアイの件、あれは一体なんなのかしら。
確かに夏になってアイの外出が増えた気がする。でもそれはレッスンって聞いていた。しかしお母様が嘘をつく理由なんてない。アイは一体何を考えているの…………?
って、いけない。まずは目の前のことをなんとかしなくちゃ。
そうね……アイに電話してたらいつの間にか片付けもされちゃって不完全燃焼だし、どこか片付けでも…………ううん、そうだ。もっといい方法があるじゃない。サプライズ性があって、なおかつ恩返しになりうるものが。
私はこれからの予定を決めてリビングに戻るも、未だ彼は夢の世界だった。
もしかしたら朝まで起きないかもしれない。けれどそれは私の計画にとっては好都合。
一人部屋の中でニヤリと口元を歪ませてから、眠りやすいようテレビと部屋のライトを消し、その足で彼の部屋に向かっていった――――。




