070.媚薬のような香り
「――――あら、そろそろ時間ね」
アイさんの恐怖症悪化の原因は明確な結論が出ないことで棚上げし、ただのお茶会になってしまってから1時間。
すっかり弛んだ雰囲気の中クッキーを囲みながら談笑しているとふと時計に目をやったエレナが声を上げる。
「あ、ホントだ」
同じくアイさんも同意して二人して腰を上げる。
もしかして、何か用事でもあったのだろうか
「二人揃ってなにかあるの?」
「ええ。いい忘れてて悪いけど、これから仕事でまたCM撮影があるのよ。 残念ながらお茶会はここまでだわ」
その言葉を皮切りに手際よくテーブルの後片付けを始めてしまうアイさん。対してエレナはやはりここでも片付けることなくスマホを取り出して何やら操作をし始める。
突然の終了に驚いたが仕事があるのなら仕方ない。こう何度も関わっていると普通の少女だと勘違いしてしまいそうになるが、彼女たちは多忙の大人気アイドルなのだ。俺とは住む世界が違う。
「あっ、ねぇねぇアイ。これ見てくれない?」
「なぁに? ―――――これは……」
俺も素直に従ってアイさんとともに片付けを始めようとするとエレナが彼女を呼び、ともに一つのスマホを注視する。
お皿をシンクに移しながらチラリと見た二人は横顔をピッタリとくっつけながら会話していた。テーブルの向こうには美少女が二人、少し動けばキスをしそうな距離感の彼女らに思わず心臓が高鳴ってしまい、目を離せなくなってしまう。
「ねぇ、ちょっといい? …………? ねぇ、慎也!」
「!! あっうん、何?エレナ」
ボーッと二人の姿を眺めていたせいで俺を呼ぶ声に気づかなかった。
何度目かの呼びかけによって意識を取り戻すと二人は怪訝な顔でこちらを見つめていることに気付く。
慌てて彼女に返事をするとその表情もすぐに戻り、エレナは手招き、アイさんは片付けを再開していってしまう。
「どうかしたの?」
「えぇ、それがね…………って遠いわね。もっとこっち寄りなさい!!」
招かれるままソファーに一人分開けて座ったら怒られた。エレナももうちょっと警戒心持ったほうがいいんじゃない?
まぁ、さっきまでの不機嫌な車内に比べたらだいぶマシか。なんとなく麻痺している自分を、心のどこかで客観的に見つつ少しだけ距離を詰めると、「もっと!」と声がして気づけば彼女の身体がすぐ隣まで移動してきた。
その距離なんと肩同士がピッタリとひっつくレベル。その突飛な行動に俺は心の中で狼狽するも、彼女はスマホに夢中で全く意識していないようで更に上半身を俺の懐まで潜り込ませてしまう。
「ほら、これ見て。キミはどう?」
「え?うん。そうだね。 凄いと思うよ」
そのあまりにも近い距離のお陰で見せつけてくる画面に集中できない。
そういえば、シャンプーか柔軟剤でも変えたのだろうか。ふわりと香ってきた彼女の香りはいつもと違い、直ぐ側にある金髪から漂ってくる香りはほんのり甘みの感じる爽やかなものだった。
そのいつまでも嗅いでいられる香りについ顔を近づけそうになるも、すぐさま鋼の理性を発揮させて無意識の行動を締め付ける。
危ない危ない。危うくエレナの髪に顔を突っ込んでドン引きされるところだった。
「何言ってるの? ちゃんと見てないでしょ!ほら、これ!」
近い近い近い近い!!
返答を間違っていたのか彼女は一層言葉を強くしその小さな身体を動かして身長差を縮めさせてくる。
ソファーに座っている俺と視線を合わせるため彼女は中腰になりその支えとして背中を思い切り俺に押し付けてくる。
更に身長差が無くなったせいでその綺麗な金色の絹のような髪が目の前に。俺が少し顔を動かせばその小さな耳にキスできるくらいの距離感でも、彼女はスマホを見せようと目の高さまで持っていき俺と視界を共有しようとする。
「ほら、これで見えるでしょ!」
顔は見えないがその表情はきっとしてやったりといった顔だろう。
なんだか俺だけ意識しているのが悔しく思えてきた。いっそこのまま思い切り抱きしめてやろうか。
恥ずかしさと心地よい媚薬のような香りが段々と俺の意識を変えていき、一周回って冷静になってきた俺の脳はどう驚かせてやろうかという思考にシフトしてきていた。
きっとこのタイミングならいい声で驚いてくれるだろう。
俺は隙だらけの彼女から最もいいタイミングを見計らうためフリーの手をそっと持ち上げて何時でも抱きしめるように体勢を動かす。
……この感触は呼吸か。彼女は中腰で背中を押し付けているせいでゆっくりとした呼吸が背中伝いにこちらにも伝わっていることに気がついた。
なら息を吐く瞬間に思い切り抱きしめるのが一番いいだろう。
ゆっくりと呼吸をしているのを意識して…………。
1……2……1……2……今――――!!
「エレナ……慎也さん……何してるんですか…………?」
「「!?!?」」
今このタイミングでその手を動かして抱きしめようとした瞬間――――正面からもう一つの声が。
その者は言うまでもない。アイさんだ。
彼女は濡れた手をタオルで拭きながら不安そうな目で俺たちを見ている。
俺は突然呼ばれたことで慌てて浮かせた手を下ろし、全く気付く気配の無かったエレナは視線をスマホからアイさんに移して「聞いて!」と声を荒らげる。
「慎也ったらスマホ見せて説明してるのに全く聞いてくれないの!これからの予定のことなのに!」
「エレナ、それってそこまで近づいて話し合うこと…………?」
「へ…………?」
その間の抜けた声は今まで無意識で行動していたという証左だった。
彼女はゆっくりと首を動かして俺と目を合わせ、ようやく事態を把握したのか数度頷いてなんともぎこちない笑顔を向けてきた。
「え~、あ~、うん。 驚かせちゃったわね」
「いや……俺もすぐ言えばよかったよ……」
ただ俺が指摘すればよかったのになんで出来なかったのか。きっとその魅力的な香りが悪い。
お互いゆっくりと距離をとり、拳一つ分くらい離れた俺たちは互いに謝る。アイさんがいなければどうなっていたことか……後ろから無理やり抱きしめるなんてもはや絶交……むしろ通報されてもおかしくない。助かった。
「それで、スマホがなんだって?」
「え、えぇ。それなんだけど――――」
ようやく正気に戻った俺は今度こそエレナが言いたがっていたことを把握する。
それはこれからのCM撮影に俺も来ないかという神鳥さんからの打診だった。どうやら以前港で撮ったCMは素材が何らかの理由で使用禁止になったようで、撮り直しになったらしい。そこでたまたま家に俺がお邪魔していることを知った神鳥さんがまた見に来ないかと誘ってくれているようだった。
「うん。また三人の仕事ぶりを見てみたい。ついて行っていいかな?」
「もちろんよ。こちらから誘ってるんだもの。それじゃ丁度いいし、いつものタクシーで向かいましょうかね」
「よかったです……ゆっくり見ていってくださいね」
いつものタクシーとは来るときにも使ったあの人のことだろう。俺が帰らないから使えるということか。
それにアイさん。アイさんがそう笑顔で言ってくれるなら俺は何があろうと見ていきます。
「そういえばリオは?」
「リオは雑誌の取材かなにかで一足先に現場に向かっているわ。リーダー特権ですって」
悔しそうに身体を揺らしその悔いを露わにするエレナ。
どうやら彼女はリーダーの座を虎視眈々と狙っているようだ。人を引っ張るという意味では十分リーダーだと思うのだが、やはりダンスや歌での実力が判断基準なのだろうか。
「エレナ。そろそろ出ないと時間が……」
「そうね……片付けは……」
「終わってるよ」
「ありがと。 それじゃ、急いで行きましょうか。慎也もすぐ準備なさい!」
アイさん、片付けありがとうございます。
俺も荷物は一纏めにしていたし準備という準備はない。二人は大きめのエナメルバッグを持ち、準備完了と顔を見合わせた俺たちは現場に向かうため、揃ってアイさんの家を出るのであった――――




