040.夏風邪
走る――――
ただひたすらに走る――――
天から水が降り注ぎ、地に溜まった水が跳ねるのを構うことなく。
いつだったか同じような事があった日を思い出す。あれは彼女と初めて会った時だったか。
しかし今回は雨から逃れる為家に向かって走っているわけではない。一刻も早く目的地にたどり着くために走っているのだ。
それもこれも、今朝来た一本の電話から始まった――――
『慎也さん! 今日何か用事ありますか!?』
朝食を終え、紗也とのんびりゲームでもして過ごそうかと思っていた頃、突然の着信に出ると真っ先にそんな言葉が飛び込んできた。
いつもの定型文すらない一方的な問いかけ。けれど誰が相手だとかそんな疑問は一切ない。表示されていた名前はもちろんのこと、電話越しでもこんな透き通るような声は一人しか心当たりはない。
『ありませんが……何か急ぎの用事です?アイさん』
平静を保ちながら答えるもここまで一方的な彼女も珍しい。
そんな事を思いながらベッドから立ち上がり、片手でクローゼットから適当な服を取り出していく。
『はいっ! エレナが風邪引いちゃいまして……』
『……エレナが?』
つい信じられずに聞き返すと肯定の返事が返ってきた。
エレナが風邪……バカは風邪引かないなんて事を言うつもりは無いが、あの元気と我が道を地で行く彼女が風邪を引く姿は全く想像ができない。もしかしたらドッキリかなにかかとも思ったが、この慌てようから察するにそれも違うようだ。
『随分と苦しそうで看病してあげたいのですが、私達はこれから揃って仕事で……』
『俺に来てほしいってことですよね?』
これまた肯定の返事が。
となると、紗也との遊びはナシだな。
『もちろんです。今すぐ向かえばいいですか?』
『ありがとうございます!今からなら合流して合鍵をお渡しできると思いますので!』
それから手短に駅で合流するよう打ち合わせをする。
電話をしながら準備を進めていた俺は、終わると否や大急ぎで部屋を飛び出した。
――――そうして無事合流して駅からマンションまで走っているのが現在。
ウチの最寄り駅では曇ってはいいたもののまだ雨は降りそうじゃなかったのに、ここへ来て本降りに。
こんなことならアイさんの乗っていった車に積んでもらって引き返して貰えばよかった……いや、そんなことしたら仕事に間に合わなくなるだろう。だからこれが正解なんだ。
しかし、ウチの近くで見舞いの品を買い忘れたからと、こちらの近くのスーパーで買い物は痛手だった。
ここらには高級志向のスーパーしか無いものだから中々余計な出費を喰らってしまった。後悔はないが懐が痛い。
「よし……たどり着いた……!」
もはや濡れていない箇所が無くなってしまったが、なんとか彼女たちの住むマンションにたどり着く。
オートロック式の自動ドアはアイさんに借りた鍵で…………無事空いてくれた。
幸い管理人の姿も見えず、そのままエレベーターに乗り込んだ俺は、スーパーで買ったタオルで全身を拭きながら到着を待つ。
エレベーターが着いた頃には全身を拭き終わる……こともなくまだまだ身体はしっとりと濡れていた。
今回ばかりは早いのが恨めしい。エレベーターから降りた俺は誰も来ることのない廊下で水気をある程度取ってからエレナの部屋に借りた鍵を使った。
カチャッと―――――
少しの電子音とともに鍵の開く音がする。よかった、もしかしたら違う鍵かもと頭をよぎったけど問題ないようだ。
「お邪魔しまー……うっ!」
起こしてしまっては悪いからゆっくりと扉を開け小さく声を出したが、目の前の光景に思わず顔をしかめてしまう。
玄関には靴がバラバラに散乱し、そこから続く廊下には服やら鞄やら様々なものが散らばっていた。以前来た時はすごい綺麗だったのに……ここまで廊下をグシャグシャにできるのか。
「エレ……ナ……?」
床にあるものを踏まないようゆっくりゆっくりと隙間を縫うように歩みを進めていく。
そして廊下を曲がって正面に見えるリビング――――その手前の扉が大きく開け放たれていた。
思わず目に入ったそこには綺麗に整理整頓され。モノクロの家具で構成された部屋と、その最奥にあるベッドからエレナの姿が。
「エレナ、大丈夫?」
「んん……」
恐る恐る部屋に入りながら様子を伺うと彼女は眠っているようだった。
しかしその顔は紅く苦しそうでなにか無いかと見渡したところ、側にある棚にはアイさんが置いていったであろう冷却シートとペットボトルのドリンク、体温計が置かれていた。
「んっ……あ、アイ……? まだ、行って無かったの……? 遅れたら大変、よ……」
人の気配に気づいたエレナは目を開けることなく苦しそうにしながらもここには居ないアイさんへ向かって叱る。
彼女の綺麗な金髪は所々跳ねていて辛さの具合が見て取れた。それなのにアイさんの心配をするとは……
「江嶋さんじゃないよ。 俺、慎也だよ」
「慎……也……? あぁ、ついに風邪が幻覚を見せてきたのね……本物だったらどれだけ嬉しかったことか……」
幻覚であることを確かめるためか、彼女は震えながら手をゆっくりとこちらに動かしてきた。
しかしその手は突然力が抜け、空を切ったところで俺がその手を両手で受け止める。
「幻覚なんかじゃないよ。ほら、感触あるでしょ?」
「あっ……ホント…………えっ、えぇ!? な、なんで……!?」
来ることを全く予期していなかったのか、本当に居ると自覚してからの彼女は慌てて起き上がろうと試みる。
しかしその腕には全く力が入っておらず、起きようとしたもののすぐに肘を折ってベッドに倒れ込んでしまった。
「辛いんだから無理しないで! 来るって聞いてない?」
「そんなの聞いて……! いえ、もしかしたらボーッとしてるときに聞いたのかも……」
駅で会った彼女は伝えたと言っていたがどうやら伝達に不備が発生していたようだ。
しかし忙しいさなか、最低限のやり取りでこなすしかなかったことだし仕方ない。俺はその件を棚に上げて買ってきた品々を並べていく。
「色々と買ってきたから必要なものがあったから言って」
「ありがと……助かるわ……」
買ってきたものはスポーツドリンクにゼリー、のど飴にレトルトのお粥など。
とりあえずは一日これで持つだろう。持たなかったらまた買いに行けばいい。
「ねぇ……」
「ん?」
「ちょっとこっち……来て頂戴……」
「?」
なんだかよくわからないがとりあえず従うためにベッド横で跪き、顔を手招きしている彼女に近づける。
するとその行動が正解だったのか、紅く火照った彼女に笑みが浮かんで招いていた手をゆっくり俺の頭に乗せた。
「お姉ちゃんのピンチに駆けつけるなんて……流石は自慢の弟ね……」
「……はいはい。病気の姉はちゃんと休んでねー」
「…………」
「……? エレナ?」
適当に相槌をうったものの彼女はそのまま黙りこくってしまった。しかし手は動かしたまま。
妙だと思って彼女の名を呼ぶと、突然撫でていた手を頭の至るところに動かし初めて、ついには俺の服をギュッと握りしめる。
「えっと……なにかあった?」
「なんで、濡れてるの?」
「へ?」
「なんで髪も、それに服も……そんなに濡れてるの?」
そうか。この部屋は今隅で動いている空気清浄機以外静寂に包まれている。
窓もカーテンも締め切ってる上、防音性能も高いからここからだと雨が降っていることなど気づきようがないのか。
「ちょっと来るときに雨にね……」
「お風呂……入って行きなさい」
「そんなの平気だよ。 部活で濡れるのはいつものことだったし、これくらいすぐ乾くから」
「駄目よ。お姉ちゃん命令……だから、ちゃんと身体温めてきな……さい」
彼女は今度こそ震えながらなものの身体を持ち上げ正面切って俺と向き合う。
その眼は至って真剣だったが、思わず目に入ったのはその下で――――
「あっ、うん。わかった……すぐ入ってくる!!」
「? どうしたのかしら……素直なのはいいこと、だけど」
即、踵を返して部屋を出ていった途端、閉じた扉にボフンと何かがぶつかる音がする。
きっと直ぐ側にあった枕でも投げつけたのだろう。
戻るのが怖いが、まずは彼女に言われた通りお風呂入らないと許してもらえない。
俺はお風呂場の場所を確認するためにアイさんへメッセージを送る。
文面を打っている途中、頭の中で大半を占めている先程の光景を一旦忘れるため頭を振り払った。
彼女が起き上がって布団が捲れた時、パジャマが目に入った。それは白の生地にハートマークがあしらわれたもの。
しかし問題はその後。その服は前開きのもので、体温計を使うために開けたのか……上部のボタンが外され胸元まで大きく開かれていたのは、暫く忘れることができないだろう――――




