037.乙女のヒミツ
バシャバシャと――――
水の跳ねる音が室内に響く。
偶に水が大きく跳ねたと思ったらタンッ――と、壁を蹴る音の後にほんの少しの静寂が訪れた。
夏。猛暑……もはや酷暑。
連日30度を超えるという、ここ暫くの暑さに耐えられなくなった俺は一人学校へと足を運んでいた。
目的地は体育教員室、そして昔散々お世話になった古巣だ。
全ては気温とともに増す不快感を癒やしにプールで泳ぐために。
中学時代ずっと水泳部だった俺は当然部活のある日も熟知している。
だから今日は誰もプールを使う予定が無いのはお見通しだ。
そうして俺は使用予定の無いプールを独り占めして水の享受にあやかっていた。
25メートル、50メートル、75メートル…………
何度も何度もターンをしてただただノンビリと水を掻き続ける。
適当にアップのつもりで泳ぎだしたが止め時を見失ってしまい、いつの間にかただ黙々と泳ぎ続けるだけになってしまった。
もう1000メートルは過ぎたはずだ。だいぶリフレッシュも出来たし、このくらいにしておこう。
「ぷはっ!」
正確にどれくらい泳いだかはわからないが時計を見ると昼12時。泳ぎ始めたのは11時だから1時間もひたすら泳いでいたみたいだ。
気づけばお腹も鳴っている。早いところ上がってどこかお昼でも食べに行こうと予定を立てて、スタート台に手をかけた。
「お疲れ様。 はい、タオル」
「おっ、ありがと」
勢いをつけてプールサイドへと上がり、差し出されたタオルを受け取る。 セームタオルじゃないのは残念だが、もうプールに入らないし別にいいだろう。
受け取ったフェイスタオルを一度大きく広げて髪や顔に付いた水滴を拭き取っていった。
「泳ぎ、かっこよかった」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。 偶には泳ぐのもいいもんだね」
ここまで思い切り泳いだのは久方ぶりだ。
自分でも思った以上に気持ちがスッキリしてる。 今なら大抵のことは許せるくらいに――――
「…………ん?」
何故だろう。
なんだか妙な違和感を感じて更衣室まで伸ばそうとしていた足を止まらせる。
このタオルは何だ?
誰に貰った?
誰が話しかけてきた?
完全に油断していた頭を働かせ慌てて振り返ると、そこには一人の少女がちょこんとウチの制服姿で立っていた。
「やっ。 水もしたたるいい男だね」
「リオ…………」
俺についてくるように歩いていた少女――――リオはなんてことの無いように片手を上げて挨拶をしてくる。
その表情は普段どおりの眠そうな半目をしており、その制服も相まってか全く違和感も感じさせずに学校に入り込んでいた。
「なんでここに……」
「そりゃあ、慎也クンに会いに?」
何を当たり前の事を――――そんな様子で疑問符をつけてくるリオ。
いや、そうじゃなくって!
「なんでここに俺が居るってわかったの?」
「そりゃあ、お――――」
お…………?
「――――いや、乙女のヒミツだよ。 それより、泳ぎ上手かったんだねぇ」
「まぁ、元水泳部だからね……」
もはや彼女だから仕方ない。そんな思考が頭の隅にあってサプライズにも関わらずいたって冷静な頭は会話を続ける。
元……。あのときは随分と頑張ったものだ。 頑張りすぎたせいで俺の髪は茶色くなってしまったが。
「辞めちゃったんだ?」
「まぁ……」
彼女の視線が射抜くように見つめて来るのを目を逸して誤魔化す。
別に辞めたことに後悔は1つもない。それは何びとにも驚かれたし、何びとにも理由を聞かれたからそのたびきちんと説明もした。
ただ、そう言って『もったいない』の言葉の後に『逃げたんだ』というような目をされるのが怖かった。
今まで何度もそういった目をされてきた。言葉にはしないが、勘違いかもしれないが、あの目が恐ろしかった。だから今回も彼女の顔を見ることが出来ず視線を合わすことができなかった。
「ふぅん……。 む……」
「? リオ……?」
俺が目をそらしているとスッと彼女は懐に潜り込み、身体を上から下までジロジロと見つめてくる。 それはもう足の先から頭まで、余すことが無いほど真剣に見つめてきていた。
今、水着姿なんだけど……
「ふむ。 中々いい体しておりまする」
「ちょっ……! リオ!!」
その謎行動に困惑し、恥ずかしくなっていると突然、彼女が俺の腹筋を触ったりつついたりするものだから反射的に後ろに後ずさりして回避する。
いきなり俺が後ろに下がるものだから彼女の手は空を切り、その意図を理解した顔は段々と頬が膨らんでいった。
「む……触らせてくれたっていいのに」
「さすがに俺も恥ずかしいから勘弁して……」
背中に冷たい感覚を味わいながら俺は渡されたタオルで腹付近を隠す。
彼女は不満げな様子で抗議の視線を飛ばしてくる。それはもっと触らせろなのか、お眼鏡にかなうものではなかったのか……
どちらにせよこれ以上触らせることは無いのだが、いつの間にかあの目ではなかったことに気づき、少し安心感を感じさせた。
「せめてもう10分だけ!」
「長すぎるよ! ……それに、あんまり男の人の身体触るもんじゃないよ」
つい、何の警戒感も示さず心のままに触れてきた彼女の行動を注意する。
しかしリオはその言葉が不思議だったのか、半開きだった目が開いていつしかのアイさんのように首を傾ける。
「? こんなことするのは慎也クンだけだよ?」
「へ…………?」
何をバカなことを――――
そういう意思を向けて離してくるリオ。
あまりにも自由だからどこでもそんな感じかと思っていたが、違うのだろうか。
「私があの公園で言ったこと、忘れたの?」
積み重なるような質問を重ねられて俺もハッとさせられる。
――――忘れるものか。
後にも先にも、あんな事を言われるのは彼女だけだろう。
それ自体はありがたい。告白されたのは初めてだったしあの夜は俺も眠れなかった。
しかし、故にわからないことが沢山あった。何故俺なのか、何故あの日なのか、何故……
「あの時、初対面だったよね……?」
あの日から不思議だった事を問いかける。もしかしたら記憶違いでどこかで会ってるのかもしれない。
でも、そんな記憶はずっと考えてもどこにも見当たらなかった。
「むぅ……!」
「えっ!? ちょ! リオ!?」
何かが気に入らなかった彼女は俺の背中を押し、シャワールームへと押し込んでいく。
何が何だか分からないものの困惑しながら誘導に従い、無事そこまでたどり着くと中央に待機するよう命じられ、その隙に彼女は脇にあるバルブを捻る。
「ヒミツ! 女の子は謎が多いほうが輝くんだぜ!」
ザッと滝のようなシャワーと共に彼女の声が反響する。
その水しぶきの舞う中の――――口元に人差し指を当ててウインクする姿はとても魅力的に映るのであった。




