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031.帰還者

 夏――――

 それは学生にとっては様々なイベントが目白押しの日で、社会人にとってもボーナスで少しは懐が潤うであろう季節。


 ミンミンとつんざくような鳴き声が辺りの木からやむことなく聞こえて…………こない。

 夏の昼間だというのに風のざわめき以外何一つ聞こえやしない。


 それどころか、周りを見渡してもお昼時のいい天気だというのに人ひとり居る気配すらなかった。

 いや、当然か。こんな日にまで無為に外に出ている人がいたら逆に驚いてしまう。




 なんにせよ――――暑い。 暑すぎる。

 朝確認したところ、本日は最高気温が35度まで上がるらしい。

 そりゃあ外には誰もいないはずだ。こんな気温だと一瞬で脱水症状に陥ってしまう。


 そんな中、俺は今たった一人で公園を歩いていた。

 背中は汗でTシャツどころかワイシャツまでびっしょりになりながら。

 仕方ないだろう。たった今学校が終わったところなんだから。



 今週、俺の学校では本格的にテスト期間へ突入し、今日が最終日と相成った。

 初日に受けて返ってきた分と手応えを思い出しても上々。

 学年1位とかはまず無いが、これならば十分いい成績を取れたはず。


 と、いうわけで今はその帰り。

 生徒たちは暑いのが嫌で教室に残ったり部活に行ったり、バスや電車の帰宅を選択する人が多くて中にはタクシーを利用する人が出てくる始末。

 しかしこれほどならば仕方ない。俺だって歩き始めて数分で後悔したほどだ。


「暑い……暑い……暑い……」


 誰の耳にも届かないし届いたところでどうにもならない恨み言を履きながら肩を揺らして前へと進む。

 もう持ってきた飲み物はなくなってしまったし、買いに行くとしても距離がある上お金がもったいない。

 これならばあと少しだし、頑張って家まで進んだほうが効率的だ。


「暑い……あっ――――」


 相も変わらず言葉を漏らしながら歩いていくと、とある屋根の下にあるベンチが目の端に映る。

 あそこは…………初めてエレナと出会った場所だ。

 懐かしい。でも、まだあれから2ヶ月弱しか経っていないのか。



 あの日からいろいろなことがあった。

 エレナと出会い、ストロベリーリキッドのみんなと出会い、食事、撮影、ライブと。

 そのどれもが最近のことなのに遠い昔のようで、濃密な日だったと笑みをこぼしながらベンチに立ち寄ることなく家への道を歩んでいく。



 ……だって、あのベンチすっごく暑そうだし。

 多分道草食ってたら俺が倒れてしまう。

 

「…………よしっ!」


 少し伏し目がちになっていたところを1つ気合を入れて正面を向く。

 最近、遅くまで勉強してたし帰ったらエアコンが効きまくった部屋の中で爆睡してやろう!

 そんな小さなご褒美を胸に、残り僅かな道のりを歩みだした。



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「あ゛ー、やっと着いた……」


 エレベーターを降りた途端、自分でも驚くほどの低い声が出てしまう。

 あれから更に汗を流してようやく自宅へとたどり着いたものの、もはや満身創痍だ。

 意識はハッキリしているものの汗からくる不快感、喉の渇きがもう限界。


 でもあともう少し。あと1分も歩まず目的地にたどり着く。ラストスパート。

 今となってはそんな僅かな気力の残滓が身体を突き動かすエネルギーだった。



 ……ようやくたどり着いた。

 あとは鍵を開けて――――


「た……だいま……」


 誰も居ない事を知りながら癖になってしまった言葉を発する。

 これであとは……冷蔵庫で冷やされた飲み物を飲んでから寝てやろう。


「おかえり~~!!」


 ふと、誰も居ないはずなのに返事が聞こえてきた。

 不味いな。幻聴が聞こえるほど今の自分は追い詰められているというのか。

 これは早々に身体を冷やさないといけない。


「暑かったでしょ~! はい!お茶!!」

「あ、ありがと……」


 玄関にて、パタパタと駆け寄って来る人物がコップにお茶をいっぱい入れて手渡してくれた。

 ありがたい……これを求めてたんだ……


「んっ……んっ……んっ……」

「良い飲みっぷり! 今日暑いもんねぇ、お疲れ様!」


 ものの10秒もかからず飲み干したコップを静かに受け取ってくれる。

 あぁ、生き返る……


「ありがと……」

「ううんっ! これくらい、どうってことないよ!」


 その目を細めて笑う姿を見て俺もつい笑みが溢れてしまう。

 さて、水分補給もしたことだし、部屋で寝――――


「――――ん?」


 キンキンに冷えたお茶を飲んだおかげでボーッとしていた脳も正常に働き出した。

 さっき、誰が駆け寄ってきた? 誰がお茶を渡してくれた? 誰の笑みを見た?


「どうしたの?」


 いつまで経っても動く気配を見せない俺に対して、笑っていた顔が心配そうな表情へと変わっていく。

 そのクリクリとした大きな丸い目、小さく愛らしい鼻と口、俺と同じような黒色で二つに分けた髪。これは――――



 バタン!


 その姿を認める前に家から出て一旦深呼吸をする。

 いや、おかしい。 なんでここにいるの? なんで俺は知らなかったの?


「ちょっと! なんで閉めるの!? も~!」


 閉めた筈の扉が開き、再度その姿が俺の目の前に現れて胸元に飛び込んできた。

 どうやら脱水症状が引き起こした幻覚や幻聴じゃないみたいだ。きちんとその感触も感じられる。


「むふふ~!」

「どう、して?」

「……それよりもまず言うことがあるでしょ?」


 何故か。それを問う前に胸元から顔だけがこちらを向いて何かを期待するような眼差しが。

 ……そうだね。 ちゃんと挨拶をしなきゃね。


「おかえり。さ――――」

「女の人の匂いがする」

「――――え?」


 最後まで言い切る前に彼女の呟きによって俺の言葉がかき消されてしまった。

 胸元が何やらくすぐったいと思ったらどうやらワイシャツの様々なところを嗅いでいるようで……な、なにを……


「えっ……と……」

「ねぇ、この匂い。 最近だよね? どうしたの? もしかして……彼女?」


 グリン!というような動作で首が動き、彼女の視線と俺の視線が交差したところで――――





 ――――逃げた。


 



 ただひたすらこのマンションから脱出するために脚を早く動かす。

 彼女の光の灯っていない、あの黒い目を見た瞬間、根源的な恐怖を覚えた。

 自分の意思とは関係なく、ただ逃げろ。その場から離れろと。そんな感情が脳内で警笛を鳴らしていた。

 当然それに抗うことはなくただひたすらに逃げる。


 エレベーターは……だめだ。1階だから待っている間に追いつかれる。

 なら階段しか無い!


 ただひたすらに階段を数段飛ばしで、最後にはジャンプして降りていく。

 さっきお茶を飲んでおいて良かった。 アレがなければ今頃倒れていただろう。

 5階。4階、3階と、無心で脚を動かして…………1階にたどり着いた。


 よし、あとはほとぼりが冷めるまでどこかの店に逃げ込むだけ! ほとぼりが冷めてもまた燃焼する?そんなこと今は知らない!


 ――――しかし階段前の扉を開け、敷地外に出るために走り出したところで金色が目に入ってしまった。


「あら! 丁度今連絡しようと思ってたわ!」


 俺が気付き、彼女も気づいたところで足を止めてしまう。

 なんでここに……


「エレナ……」

「久しぶり……ってこともないわね。 どうしたの?そんな疲れ切った顔をして? お茶飲む?」


 金色……エレナはこちらに駆け寄りながら水筒を差し出してくれた。 それはさっき十分補給はできたし問題ない。


「大丈夫。ありがと」

「そう?でも必要ならいつでも言ってね。 それで、なにかあったの?」


 なにか……そうだった!逃げないと!!


「エレナ!何も聞かず俺に着いて来――――」

「どこにいくの?」

「ヒッ……」


 遅かったか……

 震える身体を抑えながらエントランスに視線を移すと、自動ドアが開ききるのを待ってゆっくりとこちらに歩いてくる姿が……


「ねぇ、その女の人、ダレ?」


「…………エレナ。 ゆっくり、ゆっくり動くんだ。 決して目を離さず、後ろに下がるように」

「それ、熊の対処法じゃない。 どうしたのよ?そんなに慌てて」


 俺が感じている恐怖も露知らず、エレナは動じることなく彼女と向き合う。

 大丈夫だよね?大事にならないよね?


「貴女は……?」

「私? 私は神代 愛玲菜。 彼――――慎也の…………姉よ!!」


 その、エレナのここ一番の叫びに、ただ俺は頭を抱えるのであった。


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