150.早とちり
「ただいま~。お母さ~ん?」
高鳴る鼓動を抑えて開いた先は当然、玄関だった。
特筆することもない、ただの玄関。あえて言うなら女性物の靴が二足綺麗に揃えられているくらいか。
アイさんが声を綺麗な上げても迎えどころか返事や反応などが一切見られない。
けれど鍵も空いているし靴もある。これは一体どういうことだろうか。
「アイさん、これ……いる、よね?」
「はい……そのはずなんですが……変ですね」
どうやら彼女にとっても妙な出来事のようだ。
なんだか拍子抜けした気分。心構えをしてきたのに相手がいないとは。段々と肩の力が抜けて鼓動も収まっていく。
「これ、リビングに居るんじゃないの?」
「そうなの?リオ」
「うん。微かに向こうからテレビっぽい音がする」
指を指すのは一番奥のスモークガラスが張られた扉。
俺はなにも感じないけど、リオほど耳がよくないと聞こえないのだろうか。
「リオ、この靴ってリオのお母さんのだよね?もう一個は私のお母さんだし」
「ん~……たぶん、そうかも? でもおかしいねぇ。聞こえてると思うんだけど…………あっ――――」
「何か心当たりでも思い出したの?」
「やっ……もしかしたら勘違いかもしれないし……う~ん……」
なにか心当たりがあるにも関わらず言おうとしないリオ。
もしかしてからかっているとも思ったが、それとも違うようで考え込むようにして視線を下げる。
「リオ?」
「……もしかしたら、もしかしたらなんだけどね? アイの家ってストーブだったし、リビングって密室だなぁって思って――――」
「っ…………! お母さん!!」
リオは苦々しくも、前置きを付けた上で自らの考えを零す。
それを聞いてからのアイさんの動きは、レッスンよりも、本番よりも、どんなものよりも早かった。
リオの仮定の話を聞いてとある結論に至ったのだろう。
彼女は靴を揃えることも忘れ、放り出すように脱いでリビングへと駆け出した。
ストーブに密室。そんなの少し科学を学んだ者なら誰だってわかる。
一酸化炭素。ストーブの使い方によってはそれが部屋中に充満してしまう。もしも換気することなくずっと同じ場にいたら…………
嫌な予感を振り払って、追いかけるように手を伸ばすも、とうに遠くへ行った彼女には届かない。
アイさんは、俺達が靴を脱ぐよりも早く、密室が形成されているであろう扉へと手をかけた――――
「お母さん!! 大丈夫!?」
ドアノブを掴みながらその場に座り込むアイさんの姿を見て俺も慌てて駆け寄ると、その先には女性が二人、コタツに入るようにして倒れ込んでいた。
「あ!愛惟! おかえり~!」
一瞬、その姿を見てまさかと背筋に冷たい汗を流したが、かけられるのは気楽な声。そしてよくよく見ればその瞳はしっかりと開いていた。
黒髪の女性は亀よりも遅い動作ではあるものの肘を立ててこちらへと手を振っている。
轟々と音をしているのに気がついて顔を動かせばキッチンの、コンロの方からの音。換気扇だった。
「よ……よかったぁ~~~……………」
「えっ――――。 どうしたの愛惟!? どこかケガでもしたの?」
「ううん……そうじゃないの……でも、よかったぁ……」
コタツを飛び出してアイさんに駆け寄るも、どうしたらいいのかわからず混乱する黒髪の女性と、顔を伏せて涙を流すアイさん。
そんな彼女らの混乱は、エレナとリオが追いつくまで続いた――――
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「なぁ~んだ! 愛惟も心配性ねぇ! 孫の顔を見る前に死ぬわけないじゃない!!」
さっきアイさんが慌てて入ってきた理由。その思い込みを説明すると、目の前の女性は豪快に笑い出した。
彼女は笑いながらコップの水に口をつける。
コップの隣には大きな徳利が。……あ、これお酒だ。水じゃなくって昼からお酒飲んでるんだ。
「だって……リオがストーブに密室って言うからぁ…………」
俺の右隣に座るアイさんは顔を真っ赤にし、俯いて手をモジモジさせながらも説明をする。
たしかに俺もまさかって思ったよ。結果的になにもなくてよかったけど。
「もしもって念押ししたよ~。まさか走っていくとは……」
「でもでもぉ……心配するでしょぅ~?」
「まぁ、たしかに……」
左隣のリオも概ね同意する。
彼女たちは、何故か俺を挟んだ両側に完全にひっつく形で座っていた。
俺を挟んでアイさんとリオが会話するのは、リビングのコタツの中。
幸いにもそのコタツは長方形で縦一人、横三人と、大型のもの。
三人がけとはいえ大人三人が入ると少々手狭だ。横に行くと主張したものの、半泣きのアイさんに懇願されちゃ断ることなどできやしない。
呆れながら笑って横に座るエレナに感謝し、俺は両手に花の状態で二人の女性の前に座っていた。
「そういやエレナは最初から冷静だったよね? わかってたの?」
「まぁそうね。 わかってたわ」
なんと。どこにそんな分かる要素があったのか。
「ほら、玄関に付く前に外壁見てたら換気扇付いてたのよ。 さすがに換気扇ついててそう簡単に倒れないだろうなぁって思ってたわ」
「えぇ~。 早く言ってよ~!早とちりで慎也さんにかっこ悪い姿見せちゃったじゃない~」
「呼び止める前に走ってっちゃったじゃない。 お陰でリオしか捕まえられなかったのよ」
全然かっこ悪いとは思わなかった。
むしろ逆で、心配して真っ先に向かう姿はすごく好感が持てたよ。
でも今は恥ずかしいから後で伝えよう。
そんなことを考えながら出された甘酒に口をつける。
「――――それで、慎也さん……だっけ?お母さんにもモチロン紹介してくれるのよね?愛惟」
「あっ!うん! お母さん、この人は前坂 慎也さんで…………私の旦那様なの!!」
「ダッ…………!?」
旦那様!?
とんでもない紹介の仕方に思わず飲んでいた甘酒を吹き出しそうになる。
いやいやいや……初っ端それはないでしょう!!アイさんもお酒の匂いか甘酒で酔っちゃったの!?
どんな雷が落ちるかビクビクしながら母親に顔を向けると、その両手を合わせながらパァッと笑顔が溢れる。
「あらぁ!やっぱりそうなのね!! 愛惟が男の人にそんなにくっついてるものだからもしかしてって思ったのよ! ついに恐怖症を克服したのね!!」
「ううん、全然克服してないんだけど…………慎也さんだけはね。平気なの」
そっと寄り添うように身体を預けるアイさん。
うん、これ酔ってるわ。そう考えないと俺が恥ずかしさで死にそう。
「慎也さん? それってもしかして……」
「はい?」
訂正の足がかりを探っていると今度はずっと口を開いてこなかったもうひとりの女性から名を呼ばれた。
彼女はアイさんの母親とは違って茶髪の女性。けれど染めているようでその根本は少し黒くなっている。
「あぁ~! やっぱりそうなのね! いやぁ、大きくなったわねぇ!!びっくりしちゃった!!」
「…………?」
茶髪の女性は驚いたように前のめりになってジロジロと俺を見つめてくる。
大きく? びっくり? なんのこと?
必死に記憶を漁ってみるもその姿に見覚えはない。何処かで会ったっけ?
「ヘイマザー。一方的に見てただけでしょ。慎也クンは知らないんだから」
「あら、そうだったわ。 慎也さん、私はリオの母親です。 いつも娘がお世話になりまして……」
「いえ! こちらこそ……お世話になりっぱなしで……」
目の前の、リオの母親が深々と頭を下げるのに合わせて俺も下げる。
本当にお世話に成ってるよ。主にみんなとの調整役的な意味で。
彼女はエレナみたいな主導力もアイさんみたいな家事等万能というわけではない。
いつも冷静で俯瞰して、よく人の意見を聞いて組み入れる縁の下のような人物だ。
でも……あまり二人は……似ていない?
リオは父親似なのだろうか。クリっとした目やよく通った鼻筋は母親そっくりだが、茶色の髪と瞳は違う。
更に言えば飄々としたリオに対して彼女は随分とおっとりした印象だ。アイさんの母親も同じくおっとりしているからお酒の影響ということも考えられるが。
そんな見比べる視線に気づいたのか、リオの母親は手招きするように自らへと視線を誘導させる。
「それでねぇ、リオから慎也さんのことはこの子から「好きな人ができた」って聞いてずっとコッソリ見てきたのよ」
「あぁ……。 ということは小学時代の自分をです?」
「そうそう! おっきくなったわねぇ……あの時は今のエレナくらいだったのに……」
「ちょっとリオママ?なんでそこで私を引き合いに出すのよ」
エレナ、まさかの飛び火。
けれど仕方ない。確かに小学生の頃の俺は今のエレナくらいだし。
そんな抗議する姿を見ていると、今度はアイさんの母親がゆっくりとコタツから立ち上がる。
「さ、お昼も過ぎてるしお腹空いたでしょ! ちょっとまっててね?おせち持ってくるわね?」
「あ、ありがとうございます!」
その言葉と同時に壁の時計が13時を差したようで軽快な音が鳴る。
あぁ……そういえばおなか空いたよ。おしるこじゃあんまり張らなかったし。
そんな彼女の後ろ姿を見送っていると、ふと隣に座るアイさんも思いついたようにコタツから立ち上がった。
「待ってお母さん!私も手伝う!」
「そう? 長旅だったでしょうから別にいいのに」
「いいの! 手伝わせて!」
母親に追いついたアイさんは合唱するようにお願いをする。
その言葉を受けてどうしようか一瞬悩んだであろう彼女は、チラリと俺の顔を見てから一瞬だけ笑ってその首を縦に振る。
「…………いいところ見せたいのね。 じゃあお願いしようかな?」
「っ――――! もうっ!それは言わないでってばぁ!」
アイさんと母親が親子仲良くキッチンへと歩いていく。
俺はそんな仲睦まじい姿を、微笑みながら見続けて――――嫉妬したリオにだらしない顔してると膝をつねられた。




