21
二日目、正午。日は高く上っているのだろうが、その光を眩しく感じる事はない。なぜなら空は分厚い雲に覆われていたから。標高が高いこの場所では、そんな分厚い雲はいつにも増して近く、今にも押し潰されそうな圧迫感があった。
登山隊の様子はというと、歩くにつれて気温が下がっていくのを感じていた。時折吹く冷たい風は肌を切るような鋭さを伴っているように思えた。
いつの間にか白い世界に立ち入っていた一行。遂に空からもその欠片が落ちてくるようになった。彼女は落ちてくる雪の結晶に目を奪われ、心をときめかせた。興奮してはしゃぐ彼女を落ち着かせる苦労は彼が責任を持って負った。本格的な冬というものを経験した事のないアクサナにとって、この出会いは新鮮なものだった。
もう少し時間が経つ頃には次第に風も強くなり、こうも激しく吹きつけて来るのでは一時は美しく思えた雪でさえ嫌になる。強風により全身に叩きつけられる氷の粒は、その質量こそ小さいとは言え煩わしくないと言えば嘘になるだろう。彼らはそんな吹雪に耐えながらも歩み続けた。
天候は悪化の一途を辿っていた。いつしか眼前に広がるのは真っ白な世界。数メートルの距離も目視出来ない程に吹き荒れるブリザード。二人は互いの姿を確認しながら歩くだけで精一杯だった。そんな時、本当に不意に目前に現れたのは、一軒の山小屋だった。二人は即座にその中に立ち入る事を決断した。
「ふぅー・・・。厳しい道のりでしたね。」
「何を言ってるのだ。まだ終わったわけではないだろう。」
「勿論。終わったわけではないですし、まだ続く事は分かってますよ。」
「そうか。それよりこの小屋、どうやら誰かが住んでいるようだ。」
「誰も居ませんよ。」
「つい先ほどまで誰か、人の居た気配が窺えるが・・・・こんな天気に外出?下手をすれば戻ってこられなくなりそうなものだが。」
「こんな所に住んでいるくらいですし、慣れているのではないでしょうか。」
「慣れているのは間違いないだろうが、外は生半な天気ではない。それを押してまで出なければならない理由でもあるのか。」
「そんな事は分かりかねます。どちらにしても暫くここで過ごす方がいいと思います。」
「ああ、そうだが、こんな所に人が住んでいるなんて聞かなかったからな。少し不審に思っただけだ。」
「それこそ、例の“りゅうじんさま”というやつですか。」
「まるで人のような住いだが・・・・。」
「ん?物音がします。誰か入って来ます。」
「入ってる誰かはそっちだろ!いつからここはお前らの家になったんだ!」
入ってきたのは子供だった。
「あなたはここに住んでいる人ですか。」
「そうだよ!勝手に入っておいて失礼な奴だ!」
「非礼は詫びよう。暫くここで凌がせてくれないか?外の状況は知ってるだろう?」
「外?あぁ、この辺じゃこれくらい普通だ。」
「では、いつもこんな吹雪が?」
「いつもってほどでもないけど・・・。いや、今日のはいつもより少し強いかな。」
「じゃあ、こんな強い吹雪が収まるまで、もう少しここに居てもよろしいでしょうか?」
「はぁ、勝手にしろ。・・・・でもおまえらはおかしな奴らだ。普通、僕の姿を見た人間は飛び上がって逃げるのに。」
「普通?あぁその姿の事か。我々はどちらかと言うと“普通”を逸脱している部類だからな。見た目には分からないかもしれないが。」
「そうですね。“普通”の人間にそんな翼は生えていないものですね。それにしてもそれ、まるで御伽噺に出てくる竜のようでカッコイイですね。」
「もちろんさ!僕は竜人。その最後の一人だ。」
「りゅうじん・・・真実はこれだったのか。とはいえこんな子供じゃ威厳もなにもないな。」
「なんだと!」
「ええ。思っていた“りゅうじんさま”とぜんぜん違いますね。」
「おまえらー!馬鹿にすんなら出て行け!」
「悪い悪い。別に悪気があった訳ではない。休憩させてもらって感謝している。」
「そうです。ところで、両親はいらっしゃらないのですか?」
「・・・・・・」
「あら?急に大人しくなりましたね。」
「はぁ、人には聞いていい事と悪い事があるんだ。すまない。忘れてくれ。」
「はぁ・・・。いいよ。僕もよく憶えていないから。起きたら誰も居なくなってたんだ。様子もずいぶん変わっていたようだったし。」
「なにがあったのですか?」
「ある朝、目が覚めたらおとうさんもおかあさんも村の皆も居なくなってたんだ。それからしばらく探し回ったけど、誰も見つからなくて。それでその時に見つけたこの小屋に住むようになって。」
「お父さんもお母さんも何も言わずに行ってしまったのですか?」
「うん・・・・。目が覚める前のことを思い出そうとしたんだけど、なぜだかよくわからないんだ。」
「記憶喪失なのか?自分の名前も分からないのか?」
「僕の名前はタルモ。あとは・・・ぼんやりとしてる。」
「だったら私たちもタルモの両親を捜すお手伝いをします。」
「ほんと・・・・?」
「ええ。吹雪が止んだら、一緒にその村に行ってみましょう。」
「はぁ、正気なのか?目的もまだ達成していないし、時間もあまり無いのだぞ。」
「承知の上です。それに、もし見つかったら、山頂まで案内してもらいましょう。土地勘で言うならこの子以上の適任は居ないでしょうし。それなら問題ないでしょう?」
「問題なくは無いが・・・。まぁいいだろう。坊やはそれでいいかい?」
「子供扱いするなー!これでも立派な成人なんだぞ!」
「ほぅ、竜人はそんなチンチクリンで皆成人なのか。」
「そんな訳無いだろ!もう少し経てば大人になるんだー!」
「そうかそうか。わかったわかった。」
「さて、話も済んだところで、出発に備えて休ませてもらいますね・・・・。」
「・・・・やれやれ、相変わらず寝入るのが早いことだ。さて、休む前にこの状況を整理する必要がありそうだ。」
口にはしなかったが、多数の疑問があった。
自称『竜人』の子供タルモは、その名の示す通りに、背面に大きな翼と尾を持っていて空を飛ぶ事が出来るらしい。それ以外の部分においてはまるで普通の人間と同じように見える。
このタルモという子供の言っている事が何処まで真実なのかはわからないが、それが全て真実としたなら、なぜ彼は記憶を失っているのか。なぜ彼の両親は、周囲の人は、忽然と居なくなってしまったのか。しかし、これらについては現時点では情報が少なすぎる。
そもそも竜が実在したという記録は残っていない。仮に居たとすれば、それは魔物の一種として認識されるだろう。つまり半分魔物とも呼べるこの少年に対して、根底に排他の感情を持つ人間という種族が、彼のことを化物呼ばわりするのは当然の反応である。そしてそういう対応に晒されてきた彼にとってみれば、何もリアクションが無い事の方が新鮮だったのだろう。
他にも気になることがある。麓の村にあった信仰の対象が彼である。というのはいささか無理がある話だ。あの冊子を何度読み返してみても、タルモのことについて一切書かれていないという事と。普通、龍への信仰というのは、山脈や河をそれに見立てて、災害をその怒りと捉える風習に基づいていることが多い。この山に関して言うなら、独立していて龍と呼べるほどの山脈ではないし、そのような大きな河も存在しない。彼らは一体何に対して祈りを捧げているのだろう。
逆に、本当に竜人を神として崇めているのであれば、それはすなわち魔物に対する信仰とも言える。邪教として糾弾されてもおかしくない立場だ。
幸いこの国は宗教に関して寛容であり、そのような事が行われた記録も無いはずだ。この国は大陸中の小国を統一したという経緯があり、それ故に主義や主張の違う人々を飲み込んできたという歴史から考えても、それらを尊重し、表立って何かをする事もないだろう。
しかし、それは全ての宗教に当てはまるものではない。魔物を信仰しているものに関しては、建国の最大の起点であったのも魔物に関する事であるが故に、問題になっていてもおかしくないという面も持っているように思える。
仮に、竜人自体が悪魔との契約によって生まれたものだとしたらどうだろう。自分と同じようにある日を境にこのような種へと変貌を遂げるというのは無理がある話ではない。しかしそれは個人単位の話で、彼の話からして、竜人だけが暮らす村があったという。村人全員が同時に悪魔と契約を交わすなどとは、やはり考えにくいか。
考えているうちに、少し興味が湧いてきたのも事実だ。明日は彼の村があった場所に行くようだし、色々調べてみたくなった。
外の様子を窺ってみると、吹き荒れる吹雪も少し落ち着いてきたように思える。
三日目、朝。小屋を出て外の様子を確認する。晴れているという印象はない。
「標高から言うとおそらく今雲の中にいるのだろう。相変わらず視界が悪いが、出発できないという程ではないか。」
「今後、また昨日のような猛吹雪になりそうですか?」
「判らんな。そもそも変わりやすい天気を予想する事が出来るほどの経験など持ち合わせていない。」
「では、目的地は遠いのですか?」
「ううん。そこまで遠いってほどじゃないよ。飛んでいけば数分の所さ。」
「見ての通り我々は飛べないのだが・・・。」
「歩いてもー・・・数時間だよ。多分。」
「では、今日は飛ばないで行きましょう。」
「わかってるって。それに今日みたいな天気の日には飛ばない方がいいし。」
「そうなのですか。」
「視界が悪い所を飛ぶのは自殺行為なのだろう。」
「そうだよ。前が見えないとぶつかっちゃうからね。」
「いつでもどこでも空が飛べるならとっても便利で、いつか私も飛べるように改造してもらいたいと思ったのですが・・・。」
「さらっと無茶苦茶な事を言ったな・・・。」
「改造・・・?おねーちゃんも竜人になるの?」
「そういうわけではないですよ。単に空が飛べたらわざわざ歩かなくても色々な場所へ簡単に行けるのに・・・と思っただけです。」
「おしゃべりはここまでにしてそろそろ行こう。暗くなるまでにまたここに戻らなければならん。」
それから急な坂や殆ど崖といってもいいような場所を登り、暫く一帯を支配していた濃霧を抜けると、山頂は既に目と鼻の先だった。振り返って見下ろすと、雲が世界を覆いつくしている。
「まるで別の世界に来たような気分ですね。」
「ああ。こんな光景はなかなか拝めるものではないな。正に雲の海だ。こんな所まで来ようとは、かつてなら考えもしなかっただろう。」
「そうなの?割と普通だと思ってたけど。」
「ここに住んでいれば普通の景色でしょうね。」
「ほら、あそこに見えるのが村だよ!」
「僅かに建物が見えます。」
「もう一息か。」
「ここが村だよ。」
「遠目には建物に見えましたが・・・。」
「これは廃墟。いや、遺構と言った方が正しいかもしれない。」
「起きる前はもっと綺麗だったと思ったんだけど・・・。」
「・・・・少年、少し質問がある。君が目を覚ましたのはいつだ?」
「え?えっと・・・・何週間か前だよ。一ヶ月は経ってないと思う。」
「そうか、・・・・・この建物は、劣化具合から推測すると恐らく数百年、或いはもっと経っているのかもしれない。」
「え?え?どういうこと?」
「この村に人が居なくなったのは少なくとも数百年前。君が目を覚ましたときにこうなっていたというのなら、可能性として考えられるのは、君はその間眠っていたという事だ。」
「そんな・・・・・・。」
「あくまで、君が真実を語っているとした場合はそう考えるのが妥当だろう。そうでないなら、記憶が曖昧な事についても納得がいくが。私としてはこちらの考えは誤りだと思っている。」
「あ・・・・・思い出した。あの時の本・・・・・黒い本・・・・・。探さないと!」
「あっ!待って!マリウス、追いかけましょう!」
「全く、仕方ない。」
タルモは顔色を変えて走り出した。
「はぁ、はぁ、この辺りに、置いたはずなのに・・・・。」
「ここは・・・?」
「何か思い出したようだな。それで、何を探している?」
「ここは僕が住んでいた家。探しているのは黒い本。」
「黒い本?」
「あの夜。夢を見たんだ。それで、一つだけ願いを叶えてくれるって。僕は、竜人になりたい。皆と同じ姿になりたいって願ったんだ。」
「まさかそれは・・・・悪魔なのか。」
「悪魔?あなたも言ってましたね。契約が云々と。」
「ああ。大抵の場合契約には代償が付く。もしかすると彼の場合、その代償が・・・・。」
「時間ですか。」
「恐らくそういうことだろう。」
「嘘だ!おかあさん!おとうさん!どこへ行ったの!?」
「落ち着いて。私たちも一緒に探すから・・・・。」
暫くして取り乱したタルモは疲れ果て、眠ってしまった。
アクサナがタルモをなだめている間に、マリウスは周辺を調査していた。彼の話から、彼自身は生まれながらの竜人というわけではなく、悪魔との契約によって得た体らしい。となると、他に竜人が居たという確証を得る為にも調査が必要だった。
二人を残して周辺の調査に乗り出したマリウスは一通り調べ終わると再び二人の元へと戻った。
「タルモの話によると、悪魔の本がこの場所にあったらしい。見つける事は出来なかったがな。」
「本・・・・悪魔の本。12の悪魔と魔法と本の話を聞いたことがあります。」
「そうか。知っていたか。それはまたの名を悪魔の黒本、或いは悪魔の本体とも呼ばれる重要なものだ。しかし私の場合も含め、悪魔と契約を結ぶ過程において、本来その黒本が登場する事はない筈だ。」
「悪魔の契約は通常はその黒い本を介して行われる訳ではないという事ですね。」
「ああ。私の知る限りでは、悪魔とは直接交渉をし、契約を結ぶ。」
「悪魔とは目に見えるものなのですか?」
「いや、少し違う。例えるならその場所は夢の中だ。恐らく彼らはこの世の理から少し外れた場所に在り、気まぐれに干渉して来る。そこで言葉巧みに人間と契約を結び、大抵の場合悲劇を巻き起こす。」
「夢?タルモもそう言っていましたね。」
「うむ。過去に読んだ資料によれば、悪魔というものは、その本体と言える本が存在し、その中に封印されている存在らしい。これらの事象が真実なら、あの少年がその封印を解いた事になる。」
「封印についても少し聞いた覚えがあります。つまり、現在この世界に居るとされている悪魔はタルモが解き放ったという事でしょうか?」
「話が飛躍しすぎているかもしれないが、その可能性は否めない。」
「ある意味で悲劇の始まりだったのですね。・・・だとしても、あの子に罪を問う事は出来ません。」
「これらはあくまで仮定の話だ。・・・・・話は変わるが、周辺で白骨化した遺体が数体見つかった。詳しい歳月は判らないが、かなりの年数経過しているものだった。」
「その方は竜人ですか?」
「そのようだ。骨の質は人間のものと同様だが、翼と尻尾にあたる場所に名残があった。」
「竜人がここに居たというのは本当だったのですね。因みにその遺体の関連性は何か掴めましたか?」
「判ったのは体格から男女の遺体だったということと、骨の損傷から推測して外傷によって亡くなったという事くらいか。ところどころ不自然に砕けている場所があったからな。」
「それと、その場に落ちていたこれを拾ってきた。タルモが覚えているかもしれないと思ってな。」
「それはペンダントでしょうか。綺麗な石が嵌っていますね。」
「ん・・・あ、おはよう。」
「起きたか。丁度いい。早速だがこれに見覚えは無いか?」
「これは・・・おとうさんのペンダントだ。」
「そうか・・・・。それなら肌身離さず身に着けておけ。」
斯くして、出来るだけ高い場所に設置してくれ。という博士の要望は果たされた。それは地上6237メートルの山頂に据えられたのだ。




