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「服を選ぶ時に押さえて置かなければならない点はありますか?」
アクサナにとっては、これが初めての『服を買う』という行為だった。思えば、彼女は物を買ったことが無い。物を売った経験はあったが、その時に得たお金も騙し取られてしまって物を買うどころの騒ぎではなかった。そもそも欲しいものなども存在しなかったのだが。
必要なものは入手しなければいけない。そして大抵の場合それは買うことになるのだが、今やお金など持ち合わせていない彼女にとってマリウスは単なる財布でしかなかった。
「今回は高所へ行く事になる。高い所は寒いものだ。具体的に言うなら標高が100メートル上がる毎に気温は0.6度程下がると言われている。今回行くのは標高6000メートルだ。つまり此処との気温差は36度以上にもなるということだ。現在の低地の気温が20度前後。今頃山頂付近ではマイナス10度を下回っているはずだ。さらに風が吹けば体感温度は更に下がる。風速が1メートル強まるごとに体感温度は1度ほど下がるとも言われている。そして山頂付近はかなりの強風が吹き荒れているようだ。実際に何度になるかはわからんが、厳しい寒さを覚悟しておかなければならないだろう。」
「ふぅん・・・あまり気温の変化を意識した事はありませんが、寒いという事はわかりました。でも、寒いと何か悪い事があるのですか?」
「悪い事か。・・・・そもそも君はどのくらいの寒さまで耐えれるのだ?」
「えっと、解説書によれば、低温状況下での活動可能範囲は、・・・マイナス20度までらしいです。」
「解説書?そんなもの持ってたのか。」
「書というよりは寧ろデータですね。細かい仕様があらかじめ頭に入っている感じです。」
「そうなのか。・・・話は戻るが、しかしそれだと、もし気温が下に振れた場合は耐えられないかもしれないな。今着ているその服は露出がそれなりにあるようだが、防寒性はあるのか?お世辞にも温かそうには見えないが。」
「この服には低温と高温、両方に対してある程度の耐性があるようです。着ているだけで高温下では放熱し、また、低温下では保温をする能力があります。他にも魔法の力を吸収しやすくする能力と自己再生の能力、それと水や空気を通さない素材で作られています。」
「ではその服は着たままの方がよさそうだな。その状態だと具体的にはどの程度の保温力があるんだ?」
「はっきりとは分かりませんが、プラスマイナス10度から20度の範囲内での適正化が可能だと思われます。」
「・・・もしかしたらその服があれば問題ないのかもしれないな。」
結局、アクサナのどうしても一着くらい欲しいという強い要望が通り、コートを一着買う事になった。
マリウスは今まで登山など挑戦した事はなかったが、人間よりも耐性は高いだろうという事で、服の下に、保温性、断熱性に優れる素材のインナーを着るに留まった。旅に出るために風雨に強いコートを着ていたので結果的に見た目ではいつもの服と変わらなかった。因みに二人共靴は特に必要ないだろうと判断し、購入を見送った。
会計をする段になって、店主が不思議な顔で彼らを見ていたが、当の本人たちはもう用はないと言わんばかりに店を後にした。店主が放った「そんな格好で本当にあの山を登るつもりなのか?」という言葉は、誰に届くでもなく消えていった。
「次は何を買いますか!?」
「とりあえず落ち着け。」
「はい!それで何を買いますか?」
「はぁ、そうだな先に地図を手に入れよう。それが無いと間違いなく遭難するだろうからな。」
「あ!あそこで売ってますよ!」
「やれやれ、どうして走るんだ。追いかける方の身にもなってみろ・・・全く・・・・。」
二人は地図を売る店先へと足を運んだ。
「遅いですよ。さて、どれがいいかしら。」
「先ずは話を聞け。あの山を登るための村の中において、山の地図を手に入れるのは簡単だ。しかし山頂までの道のりは登山素人には長いだろう。ましてや雪深い場所も通らなければならないとなると、その道をよく知っている者が同行するのが望ましい。」
「地図は買わないのですか?」
「いや、そういう意味ではない。我々はあの山の事をよくを知らないし、道も分からない。もし真夏の山だったならその地図だけでも事足りるだろう。しかし状況はもっと厳しい。」
「では誰かに案内をしてもらうですか?」
「それも難しいだろう。通常これ程の高さの山に登る際は、体を高地に順応させるためにある程度の高さで、数日間はキャンプしなければならない。」
「私達にはそれは必要ないですね。」
「そうだ。しかし案内人を雇うとなるとそれをしなければならない。いくらプロとは言ってもこれは必要不可欠な事だ。それに・・・」
「・・・・お客さん、どうするんだい?買うのかい?買わないのかい?」
「悪かった。じゃあこれを貰おう。」
「まいど。」
「一先ず落ち着いて話ができる所へ行こう。」
正午を少し過ぎ、客の出入りも落ち着いた料理屋。その一席に二人は向かい合って座った。
「ここはなかなかに良い店だ。」
「来たことがあるのですか?」
「実はこの村には昨日も来たんだ。散策がてら色々情報を仕入れようと思ってな。しかし、手に入ったのは山関係の情報ばかりだった。とは言え、蓋を開けてみれば役に立ったのだから無駄ではなかったな。」
「いらっしゃい。あら、あなたは昨日もいらしてましたね。」
「ああ。そうだが、憶えていたのか。」
「ええ。ここらじゃあまり見ない装いですので。」
「昨日は言いそびれたが、ここの料理は口に合う。」
「有難うございます。では、今日は何にしますか?」
「では昨日のものと同じやつを頂こう。」
「かしこまりました。お連れさんの方は何にしましょう?」
「私はいいです。」
「もう済ませていたらしいのだが、無理を言って付き合ってもらっているのだ。悪いが気にしないでくれ。」
「そうですか。では失礼します。」
「・・・・・どうして嘘を言ったのですか?」
「こういう店で何も注文しないというのは避けた方がいいからだ。昨日来ただけで既に憶えられてしまっているという事は、目立つ事をしてしまうと直ぐに噂になりかねないということだ。我々が動いている事があちら側に知られてしまえば、博士にも危険が及ぶかもしれない。君は一度女王に会っている上に破壊されているからな。今後は色々な事に警戒をする方がいいだろう。」
「考えすぎな気もします。・・・嘘をつくのは少し気が引けると言うか、・・・そんな気がします。」
「そうか、そうだな。これに関しては確かに考え過ぎかもしれないが、考えが無さ過ぎるよりはマシだろう。」
「そうですね過ぎたるは及ばざるが如しですね。」
「それじゃ意味が違ってくるが・・・・」
「でも小さな村の中での噂の広がり方に関しては注意した方がいいですね。あの時は特に何も考えもしなかったのですが、今思えばあまりにも無防備だったと言うかなんというか・・・。」
「何があったか知らんが、その意見には同意できる。人の口に戸は立てられない等と言うが、このような閉ざされた場所に住まう人にとっては、そういう些細な事一つ一つが事件になりうるのだろう。」
「事件ですか?」
「さて、その話はもういいだろう。ここからはさっきの続きだ。今、案内人は休業中だ。理由はそもそもこの時期にそれを必要としている人間がいない為だ。今の時期に一般の人間があの山に登る事は先ず無いからな。」
「そうなのですか?遠目にですが、入山する人が居たような気がしましたが。」
「そう、それも大いに関係があることだ。そこで考えがある・・・・」
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。」
「・・・・またその料理の話を長々と、食べない私にするつもりですか?」
「嫌味か?いや、この料理にそういう類の味はない。見てみろこの透き通ったスープを。これはこの辺りでよく食卓に上る牛と羊の肉を使ったダブルスープだ。しかもこいつはその尻尾の骨から煮出したもので、数日もの間煮込まれた料理人渾身の一品。じっくりと時間をかけて溶け出した旨味は口に含んだ瞬間から感じる事が出来る。それでいて見た目以上にすっきりとした風味を、鼻に抜ける香草の香りが更に際立たせる。爽やかさと深い味わいが両立した見事なバランス。そしてそのスープの湖に浮かぶ島のような肉団子は、表面をこんがりと焼き色が付く程度に焼かれていて、その肉汁を中に閉じ込めている。スープの繊細な味を楽しんだ後は、この塊をほぐす事でまったりとした肉汁のコクが全体に広がり、全く別の味覚の領域へと誘ってくれる。食べれば食べるほどこの料理の奥深さに感服させられる。名前は知らないがいい料理だ。」
「名前を知らないのですか。・・・・いや、そうではなくて。私が言いたい事はそっちじゃなくて・・・」
「まぁいいじゃないか旨い物を旨いと言っても。」
「それもどこかで聞いた事のある台詞です。はぁ・・・・さっきの話がまだ途中でしたが?」
「そうだった。ガイドを雇えないとなると、山頂への詳細なルートの情報、しかも最新のものを自分たちで仕入れなければならない。手がかりを探る為にも、これからこの村の山岳信仰の拠点に行ってみようと思う。」
「信仰?神様とかのやつですか?それに興味があるのですか。」
「別に入信しようという訳ではない。この時期はその信者たちが巡礼と称して山頂を目指す儀式が行われているらしい。故に一般人がおいそれと入山する雰囲気でないようなのだ。情報を得るにはそこに当たる方がいいだろう。」
「だったら早い方がいいですね。もういきましょう今すぐに。」
「まぁそう急がなくてもいいだろう。」
「・・・・・。」
「そんな目で見なくてもいいだろう。」
「・・・・・・・。」
「いや、・・・・すまない。明日からしばらくは食事の機会はないだろうからせめてこの一皿だけ許してくれ。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・お願いします。まだ一口も食べていないんだ。」
「・・・仕方ないですね。待ちましょう。」
彼が食べ終わるまで会話は無く、そのままの雰囲気で店を出た。それから暫く人通りの少なくなりつつある通りを進んでいった。
「ここがその信者達の拠点となっている場所らしいが、気味が悪いな。」
「なんとなく雲行きも怪しいような気がしますが、とにかく中に入ってみましょう。」
そこは村の中でも異質な雰囲気を漂わせる一角にあった。巨大な二つの岩の間に挟まれるように佇む建物は、構造上岩が無ければ成り立たないような造りをしている。その両脇の岩には細かい文字がびっしりと刻み込まれていて、その文字の意味が分からないという事が余計に不気味さを助長している。
建物の中には、白い装束を纏った数人の男が座して部屋の奥の大岩に祈りを捧げていた。
信仰の対象としてあの山があり、それを崇拝するのであれば山自体を本尊として奉ればいいところを、部屋の中に鎮座している大岩に対して祈りを捧げている様は、見るものに違和感を与える。しかし二人にとってみればそんな事はどうでもいい事で、ここを訪れた理由と照らし合わせてみてもその男たちの行為とは全く無関係な話だった。
マリウスの声かけに対して何人かの男が反応して目の端で彼を捉えるようなそぶりを見せたが、中央に居る者は微動だにしなかった。その中の一人が立ち上がり、喋る事無く体の動きのみで隣の部屋へ二人を通した。その重苦しい雰囲気に飲まれてしまった二人も言葉を失い、ただ、その男の後ろについた。
通された部屋は小さいながらある程度のもてなしが出来るような空間が作られており、隣の部屋とは一転して、文字通り普通の部屋といった印象だ。先ほどの異質な部屋と比べれば、圧倒的に落ち着ける場所だ。
二人はその部屋にある小さなテーブルを挟んで、先ほどの男と向かい合うように椅子に腰掛けた。
「ようこそ、入信希望のお方。」
「いや、・・・実はそうなんだ。あの山に登っていく人々を見て自分もやらなければいけないような気がしたんだ。」
「やっぱりそうでしたか。これをどうぞ。それは私共の経典の一部の写しです。先ずはそれを熟読していただいて、理解を深めていただきたい。」
「いえ、私たちはそのような理由の為にここへ来たのではありません。あの山へ登るための情報を詳しく知りたいのです。」
「なんですと?軽々しくもかの山に登ると?本来、人が立ち入るべきでないあの場所を穢すと?」
「いや待て、違うんだ。落ち着いてくれ。我々はあの山に登る方々の姿に心を打たれてその道を歩んで生きたいと思ってここへ来たのだ。その為のいろいろな話をしていただきたい。」
「そうですか。そうですよね。失礼しました。巡礼は限られた者にしか行えない神聖なものですので、それを目指して頑張りましょう。実際に巡礼を行うに当たって、最低でも3年ほどはここで修行してもらう事になります。先ずはこの装束にお着替えになりまして、あちらの部屋へお越しください。」
「さっきと言ってる事が違います。それに3年の修行など不要です。私たちは明日あの山に登るのです。その情報を得る為にここへ来たのでしょう。」
「まぁ落ち着きたまえ。ものには順序ってものがあるだろ。」
「どういう順序か知りませんが、こんな意味のわからないことをしている暇はありません。」
「・・・あなた方は私に入信すると嘘をついていたということですか?」
「私たちは明日、あの山に登ります。あなた方なら知っている筈です。ルートや危険な場所等の詳細を教えてください。」
「何人たりとも、かの山に立ち入るということは許されません。巡礼者のみがそれを成せるのです。お引取り願う。」
「はぁ、・・・・仕方ない。」
外に出てもまだあの男が見ている。早々に立ち去った方が賢明だろう。そして今後も近づかない方が良さそうだった。
「どうして嘘をつく必要があるのですか?理解できません。」
「スムーズに情報を得る為にああする方が良いと思っただけだ。それに少しでも信じたそぶりを見せていれば、彼らは我らをぞんざいに扱う事は無いだろう。」
「でも3年もあそこに居るなんて出来ません。」
「私とてある程度の情報が引き出せたら直ぐに去るつもりだった。」
「うぅ・・・そうでしたか・・・迂闊だったのでしょうか。」
「まぁ何とでもなるだろう。先ほどの部屋やこの冊子からも少しは情報が得られたからな。しかしこの“りゅうじんさま”というのは一体何の事を指すのだろうか。山ではなく何か別の神のようなものが在るのか。しかしこの冊子、どうして全文が平仮名で書かれているんだ・・・読み難いたらありゃしない。」
「文句を言っても仕方ないですよ。しかし“りゅうじんさま”というのは竜の神さまの事なのでしょうか。あの山に竜が住んでいるという事ですか?」
「判らんが単なる山とも言えない何かが有るのかもしれん。こうしてみれば、彼らが祈っていた対象は、もしかすると山ではなくその竜神とやらなのかもしれないな。」
「何はともあれ、もうだいぶ日が傾いてきましたね。買い物はもうしないのですか?」
「つらづらと必要な物を語っておいてなんだが、大抵のものは魔法で代用できるからな。現に今までも殆ど手持ち無沙汰でここまで来たではないか。」
「そうですね。もう何が必要だったのかよく憶えていないですけどきっと大丈夫です。」
「・・・・まあ、今日の所は宿を取ろう。」
「明日は早朝から出発ですね。」




