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春の訪れを感じさせる季節。温暖な地域柄、野原や山々では草木は芽吹き、花は咲き乱れる様子が見受けられる事もあるが、この街の中にあってそれを感じる事の出来る場所は稀である。
壁は街の中の気候に大きく影響している。人口が多い事もあって、ここには熱がこもりやすい。かろうじて開けている海の方、街から見て東側から吹く風は、潮の流れの関係もあり、夏は暖かく湿った風が吹き、また冬は肌を切るような冷たい風が街に吹き込む。
加えて高くそびえる建物が、朝晩の角度の低い日光を遮り明るくなるのは遅く、暗くなるのも早い。この街に居れば夜を長く感じるだろう。しかし4月の中旬になろうというこの頃には、暑い夏の足音と共に少しづつだがそれも短くなりつつあった。
そのような季節の変わり目を楽しむ余裕などは無く、ただ、地獄のように暑い夏をこの塀の中で過ごす事を強いられている,或いは近い将来強いられる人々にとって、それは更なる鬱憤を募らせる材料でしかなかった。
風が吹き込めるということは、壁は海上には建てられていないということだ。現実的にそれは不可能な事だった。なぜなら潮の流れが複雑なこの岩礁に、そのようなものを建築する技術が無かったからだ。資材や人員をいくら投入したところで、その激しく複雑な流れはすべてを拒み、飲み込んできた。それでも比較的安全な、潮流の緩やかな地点に船着場が設けられている。また、荒れ狂う潮の流れの隙間を縫うように敷かれた海路によって、辛うじて物や人の移動の拠点として機能している。しかし誤ってその海路から外れてしまった船舶は、良くて海の藻屑。運が悪いと救助に向かったものまで飲み込む、言うなれば魔の海域だった。
仮に壁の無いこの海域を密航しようものなら、たちまち巻き込まれ戻るものなど居なかった。泳いで渡るなど、無謀の一言だった。当然、比較的流れの緩やかな場所には警備が厚く敷かれており、その目を盗むことも不可能だった。よって岸壁付近はある意味で人工の高い壁よりも突破困難な、自然の防壁と化していた。
外の世界を夢見る人々は、この海を眺めては遠い水平線の彼方へと思いを馳せていた。
それは彼女にとっても同じだった。荒れ狂う海を渡る事は非常に困難だ。今までも数限りなくそれに挑戦し、そして打ち砕かれた人々が居て、その挫折の上に残った僅かな希望を更に微塵に粉々にすり潰すように今の警備体制がある。それを突破する事は不可能であり、前例は無い。しかし、したたかなこの少女は、自分はそれを突破できると信じて疑わなかった。
彼女に両親はいない。彼らは彼女が物心付く前に蒸発してしまったらしい。それでも彼女が今まで生きて来れたのは母親の代わりとなる存在があったからだ。育ての親は厳しい生活に耐えながらも幼い子供を我が子同然に育て、未だ子供と呼べるほどの年齢ではあったものの、一人で生きていけるように成長させた。しかし少し前から母子は距離をとって生活をしている。十分な知識が無いというものがいかに恐ろしいかを知っていた母は、自らの病を娘にうつすまいとしたからだ。
聞き分けのいい少女がその気持ちまでを理解していたのかどうかはわからない。しかし、距離を置くことに対しての抵抗はなかった。母という存在が嫌いなのではない。きっと心のどこかで感じ取った自分が生きていく上でそうするべきなのだという感覚に従ったまでだった。
その日、彼女は早朝に目が覚めた。日が昇る時間が早くなってきたこの時期、そのくらいの時間ならば太陽は水平線から顔をのぞかせている頃だろう。しかしそれを感じて起きたわけではなかった。時間に正確なわけではない。状況の変化に敏感なのだ。
それは現象に基づく推論でもなければ、前例に基づく経験でもない。単に勘とか虫の知らせのような根拠のないものだったのかもしれない。しかしそれは彼女が生きていく上で一番大事にしている感覚で、信用の置けないこの世界で、信じる事の出来る唯一の存在といっても過言ではなかった。
その朝、彼女の育ての親がこの世を去った。それを目の当たりにしたわけではない。もしかしたら単にそう思い込んでいるだけなのかもしれない。しかし彼女の虫の知らせは彼女をそう思わせるほどに、思い込ませるほどに信頼を受けていた。
とはいえ気にならないわけではない。しかし行ったところで自分に何が出来るだろう。泣く事が出来るだろうか?悲しむことが出来るだろうか?感謝して送り出すことが出来ただろうか?
昨日までに貯めたお金が目標の金額に達していた。これは母親の為に使うと言って貯めたお金だった。今、それが必要ではなくなった、或いはそう思い込んだ彼女には、そのお金の新しい使い道が必要だった。いや、本当はそんな事の為に使う予定などはない。これは自分が生きていく為に使う。その為に稼いだ金なのだ。病を持つ親の為にお金を貯めるという建前はそれなりに同情を買い、それ故に集まりやすいものでもあった。自らの心の中身でさえ偽ること。これは本心からそう言っているように思わせるために手に入れた技能だった。
自らに問いかけているうちに朝日が顔を見せた。朝日を見るなりお金の事を考えていた自分に気がついた。母親が亡くなった事を悲しまない自分に気がついた。だからどうだというのだ。別に頼んでやってもらったわけではないし、あちらとしても感謝してほしいがためにやったことでもないだろう。ただ心の中にあったのは“無”だった。
明日、もっと言えば今日を生きていくのが精一杯な生活はうんざりだった。この街に生まれ、この街に育った彼女は外の世界に思いを馳せる。こう言っては何だが、晴れてこの街にしがみつく意味もなくなった訳だ。そう思ったときに、つくづく自分には感情というものが無いのかと少し呆れた気分になった。
海を介してこの街を出入りする為には、安全な航路を通らなければならない。その技術と権利を持っているのが海運ギルドだ。彼らは航路の使用を独占していて、彼らを通さなければ船はバラバラになる。必然的に金の集まるこのギルドは、この街を影で動かしていると言われている。現実問題として、憲兵や公安と癒着があり、街から出るためにお金を払わなければならないというシステムが作られたのは、彼らの声を大きく反映させたからだという噂だった。
彼らに与する以外にこの街で、このスラムで生きていく方法は無かった。母親と離れてからは彼らとする“仕事”も増えた。金の為なら何だってやる。先日騙したあの旅人もそうだ。ああいう手合いは情に訴えるのが効く。不幸な少女を演じれば直ぐに金が手に入る。特に金持ちが多いし救いがある。あいつは殆ど持っていなかったみたいだったが、連れの男はかなりのものだ。隙が殆ど無かったが、何とか出し抜く事が出来た。副産物もなかなかのものだった。
この金を献上すれば晴れてギルドの仲間になれる。そうなればここから出る事も夢ではない。早朝だと大体皆酔いつぶれているだろうが、この時間なら窓口は開いているだろう。
少しだけ嫌な予感がするが、多分大丈夫だろう。今日は特別な一日になる。
アクサナがりんごを渡したあの少女は、アクサナが思っているよりも遥かに狡猾だった。騙し、騙されて生きてきた彼女の、長いとはいえない人生の中で、彼女が手に入れたのは『感じない事』だった。それは相手の気持ちを考え、同調する事なく、その裏をかくという思考だった。今はまだ、その野心を大成させるべく生きている。人はその様子を見て心が無いと言うのかもしれない。感情が無いと言うのかもしれない。ただ、世間に揉まれ、必死に生きてきた経験が彼女を支えているというのは事実である。
一方、朝が来ると同時に目覚めたのは機械人形も同じだった。こちらは時間に正確で、日が昇ると同時に起床した。勿論、太陽を見たわけではない。それは体内時計で正確に時間を計っているに過ぎないが、目覚めが爽やかなのは言うまでもない。上体を起こして周囲を見回す。
「いつの間にベッドに寝たのかしら。」
記憶では最後に見た光景はテーブル越しのマリウスだったはずだ。それとも単に記憶が曖昧になっているだけなのだろうか。とはいえ別に困る事ではない。座ってようが横になってようが同じ事だった。
「今日は早起きなんだな。まぁ、寝坊する機械が居たら、たまったものではないがな。」
「エネルギーが充分でなかったら寝るのが礼儀です。」
「それは礼儀なのか。機械人形の世界も大変なんだな。」
「甘く見ると後で困るので眠っても大丈夫なときには眠る方がいいと思います。」
これは経験から本当にそうだと思った事だった。エネルギーが充分に無い状態は本当に危険なのだ。あの時はお手伝いロボがフォローしてくれたが、きっと今はそうはいかないだろう。それとも仮にそのような事態に陥ったときには彼がサポートしてくれるのだろうか。それ以上は考えても答は出てこなかった。『そのような状況にならないようにする』ということに重点を置いた方が良いと結論付けた。もしそうなった場合は、その時どうにかするだろう。
「何を考え込んでいるんだ?」
「いえ、あ、一応聞いてみるんですけど・・・」
「なんだ?」
「もし私が急に活動停止したらあなたはどうするつもりですか?」
一瞬の静寂が二人の間を横切った。
彼女にしてみれば、そのような意味で言った訳ではなかった。単純にエネルギー切れを起こした時に、緊急休止に陥った時に、どういう対処をするのがいいのかという相談がしたかったに過ぎなかった。仮にそうなった場合は自分ではどうする事も出来ないのだが。しかしそういう事があり得るという話がしたかった。
彼にしてみれば、そんな事を彼女が言う事自体を想定していなかった。想定外のことをするという事は重々承知だったが、そこまでの事、つまりは自分が死んだ時の事を聞いてくるとは思わなかった。そもそも機械人形がそういうことを考えているのかという所まで考えてしまった。そして彼自身もその問いに対しての答を、今の段階では用意していなかった。どういう風になるのかは、なってみなければわからなかった。まだ出逢って一週間ほどしか経過していない。経験上、すぐにすぐそんな事が起きるとは到底思えなかった。
「それはそのときになったら考えればいいだろう。」
「そうですか。私はなるべくそうならないように注意します。」
お互いがお互いの真意を汲み取る事が出来ず、しかし、答としてはどちらとも取れるものになってしまった。人間であれ、機械であれ、他人の言葉の真意を直ぐに理解する事は難しい。そしてそれにお互いが気づかないという事もよくあることなのだろう。
朝の早い時間ではあったものの、そうこうしているうちに街には光が差してきた。二人は宿を後にし、入ってきた門を目指して歩いていた。早朝の時間であってもやはり道沿いには多くの人が居て、威勢のいい声があちらこちらで聞こえる。朝から晩まで元気な活気のあるこの街を出発するというのは少しだけ寂しい気もする。
結局、行き先についての新しい情報は手に入らなかった。今朝の話ではここから西の街道を進むとまた別の町があるらしいということで、そこを目指す事にした。これはこの街に立ち寄らないという決断を、街に入る前に下していた場合の予定と同じだった。つまりこの街で得た物はほとんど何も無いに等しく、寧ろ数日間の滞在で、疲れを癒すどころか、色々ありすぎて逆に大変だったと言わざるを得ない。
しかし結果としてアクサナは他人と干渉しあう事で、少しだが成長があった。全くいい思い出など皆無だったが、悪い事ほど経験値になりえる事だとも言える。騙された経験は人形をより人間らしくさせた。彼女は人形である事を口にしなければ最早人間と変わらない。仮に口にしたとしても、信じないものも居るだろう。そんな精巧に作られた人形は人間と何が違うのだろうか。
大きな門が遠くに見える。あんなに広い門なのに多くの人がそこをくぐる事を許されていないというのは、なんだか皮肉な話である。自分たちは順調に出る事が出来るものだと思っていた。
それは門の方を見て右手側、街の北の方角だろうか、にわかに大きな、とてつもなく大きな爆発音が聞こえた。
辺りはその轟音に一瞬静まり返った。あまりに大きな音で、空気が振動している事を肌で感じる事が出来るほどだった。皆その爆発音がした方角を探している。音が大きすぎてどこから鳴ったのか分からなかった。続いて二度三度と大きな音が鳴ると同時に地響きを感じる。今度はどちらからその音が発せられたのかが分かった。その方を見ると建物がいくつか傾いているように見える。周囲には慌てて逃げる者、様子を窺う者、その方向へ向かって走っていく者。賑やかな街は一瞬にして混乱のるつぼと化していた。
人々は必死の形相で逃げ惑う。恐ろしい何かがあるのだろうか、爆発のあった方から人が走ってきて口々に何かを叫んでいる。ざわめきと混沌の中、かろうじて聞き取れた言葉を繋いでいく。
「女王が壁を破壊した。」
聞き取れた言葉は少なかったが、それははっきりと聞こえた。その瞬間に走り出していた。勿論。その爆発があった方向へ。
「待て!本当に行くつもりなのか!?勝てる算段はあるのか!?」
悲鳴や叫び声が大きなうねりとなって空気を揺らす。マリウスは叫んだがアクサナには届かなかった。
上り立つ土煙の中、その渦中へと足を踏み入れる。この短時間で一体どれほどの人が犠牲になったのだろう。気分の悪くなる臭いが立ち込めていた。




