そのきゅう
前回までのあらすじ
前回は山田真理という、山田健一の弟からの視点で描かれている。
七話までとは違う、現実世界の出来事である。
昔を思い出していた。
小学生に入るころ。
両親が、僕と妹を可愛がっていた。
……至って普通の家庭だとばかり思っていた。
適度にモノが与えられ、適度に愛情が与えられた。
しかし、僕の兄に対しては冷酷に接していたらしい。
接していた、という表現が、正しいかどうかも分からない。
モノの代わりに傷が与えられ、愛情の代わりに憎しみがあてがわれた。
僕と妹に見せる顔の反対側に映る、悪魔の表情である。
兄と両親との間に、血縁関係はない。
僕たちの両親は、まず養子を受け入れた。それが僕の兄である。
その後結局僕と妹を出産したらしい。
今は、兄は謎の生命体として僕の家にいる。
両親は無残にも交通事故で死んだ。
僕の兄がこんな状態になっていることを知らずにこの世から消えた。
幼いころだったから、当時の状況はうすぼんやりとしか思い出せない。
そもそも僕は、兄と直接会ったこともなかった。
数少ない克明な記憶は、「幸福が押し詰められた花」のことだった。
幼いころから、僕はかえでさんと友達だった。
彼女がその花の存在を教えてくれて、僕に一輪だけ手渡した。
家に持って帰ると、妹は僕の右手に握ってある花を見て、その花はなあにと聞くのだった。
僕にもよく分からないと答えた。
僕はその花をウサギにあげた。
妹はそれから三年間くらい、僕の花のことについて気にかけていたが、そのうち興味は薄れていったようだ。
人生部の活動は様々だ。
ボランティア。祭り。工場見学。花の観察。
まるで小学校の課外活動のようだ。
しかしそれは、僕の兄にとってはありがたい。
兄は電子の渦の中に、たった一人だけで呑み込まれてしまった。
僕が持ち帰った興奮や真実、思想や息吹が、兄の空想庭園の構築の材料となる。
もっともそれらが、本当の形で使われているかどうかは分からない。
空想というものは無限に膨張し、正反対の関連情報まで内包してしまうからだ。
兄の作り出した、兄だけの世界。
そこには僕や妹やかえでさんやミラーフェスタさんも、何らかの形で出演しているかもしれない。
現実世界と空想世界の間に因果関係があるかもしれないし、無いかもしれない。
僕はどんな役割なのだろう。
僕はいつも兄とバーチャルにつながり、情報を送り込んでいるから、僕の肉体そのものが出演していなくても、何らかの形で登場している……と信じたい。
影ながら兄をサポートする役目とか。
想像すると少し笑ってしまった。
家に帰ると、甲高い悲鳴が聞こえた。
言いようのない不安に駆られて、家じゅうを走り回った。
そこに怪物がいた。
全長何メートルあるのか、とっさに判断がつかないほど、僕の理知的機能は失われた。
妹が全身をふるわせて、僕に助けを懇願していた。
怪物は影のように全身が真っ黒で、妹はまさにその影に呑み込まれようとしていた。
その事実からやっと、この怪物は僕の家にいたウサギ、すなわち兄自身だと理解した。
空想の膨張が、自身の正反対の事象、すなわち現実世界への干渉にまで至っていた。
実在する僕の妹を取り込んで、自身の理想郷の糧にせんとしている魔物……。
僕はただ見ていることしかできなかった。
怪物は地響きを起こしながら僕の妹を鉛直方向に高々と投げ上げ、落下してきたそれを無残にも喰いつぶしてしまった。
僕はいったん、家から逃げ出した。
携帯を取り出し、人生部の二人にメールを飛ばす。
二人は僕の兄の諸事情を知っている。
知っているからこそ、人生部は存在するのだ。
再び家へ。
人員は結局、僕と人生部の二人だけだ。
冷静さを取り戻してくると、警察か何かに連絡するのが先決だったのか、とも思った。
しかし、空想の世界では国家権力などの類のものは、主人公にはかなわないのが定石だ。
特にあの怪物は、僕の兄が社会から迫害され続けた結果生まれたものだから、社会や大衆の象徴である街の警察が束になったところでかなうはずが無いだろう。
僕たちは慎重に怪物のもとへ足を運ぶ。
どうすればいいのだろう。
今の彼は、不安定な爆発の極致である。
立ち向かうことなど、できない。
怪物の興奮はまだ冷めやらない。
これまでもこれより規模の小さい現象は、幾度となく起こってきたのだが、今回はスケールが違いすぎる。
なにせすでに人を一人呑み込んでいるのだ。
怪物は僕たちに、視界をつかさどる身体器官を向ける。
明らかにかえでさんを狙っていた。
かえでさんは唐突に、僕に耳打ちをしてきた。
突然のことに驚いているうちに、かえでさんは怪物に向かって堂々と歩きだしていった。
その現象を、現象として認識するのに、数分も要した。
その数分の後、かえでさんの姿を確認することはできなかった。
僕たちは残り二人。
すでに妹とかえでさんの二人を存在なき者にした実績を持つ張本人を目の前にして、僕たち二人の瞳には、ぽつぽつと絶望が映り始めた。
怪物は、次にミラーフェスタさんを狙った。
ミラーフェスタさんは瞳に覚悟を宿した。
彼女も僕に何事か喋ってから、兄の世界に取り込まれた。
僕一人だけが残った。
今消えていった二人の言葉を咀嚼するのに忙しかった。
結局は、僕の送った花が、引き金だったのだ。
兄に花を与えてから、周期的に興奮が彼を支配していった。
あの花はおそらく何かしらの情報さえ与えられれば、無限大の空想のエネルギーを生み出し、個人的空間をバーチャルに作り出す。
花の持ち主はそのことによって、糧が尽きるまで空想庭園の中で生きていく。
空間を作り出すと言っても、自己が意識できないほどの、本能の奥深くに隠された本能によってのみ行われる営みなのだろう。
そしてそれはまさしく、充実が安心を生み、安心が明るさを生み出す過程だった。
しかし、とうとう快刀乱麻を断つ時に至ってしまったのだ。
その役目は、この現象を作り出した、他でもない僕なのだ。
できるだろうか。
できるかもしれない。
唯一の言語を保有し、誰からも認められず、社会の中で抹殺されてしまった、哀れで同情すべき存在……。
行き過ぎた妄想の末路に、初めてそんな、本当の兄と出会えるのかもしれない。
そのことをちょっとだけ期待して、枯れ切った花を弔うために、僕は一歩を踏み出した。
続くのではない。ついに終わるのだ。
次回が最終回?