平等院鳳凰堂、二枚分の
〈平等院鳳凰堂、二枚分の〉
――無性にハムカツが食べたい気分だった。
とある晩冬の昼下がり、ふと小腹が空いた俺は、適当なパーカーを羽織って自宅を出た。
行く先は決まっている。ずっと昔から世話になっている近所の肉屋さんだ。ハムカツはその店でしか買わないと豚の神様に誓っている。
五分ほど歩いた先にある、満面の笑顔で客を出迎える牛と豚が目印の看板。
俺はその正面の古くさい引き扉を開け、足を踏み入れた。
「キミさん、こんちはー」
まだ肌寒い外とは打って変わって、心地よい温かさに満ちた店内。首のマフラーを解いた俺は、赤々として美味そうな肉が並んだカウンターの奥に挨拶を投げかける。
するとぱたぱたと足音が聞こえ、頭に三角巾を巻いた女性が顔を出した。
「あら、ケンちゃんじゃない。今日もハムカツ?」
気さくな笑顔の彼女はキミさん。両親と一緒にこの精肉店を経営している看板娘(二十八歳)だ。……異論なら本人に言ってくれ。
ともかく、俺とは店員と常連客という関係で、互いに気心の知れた相手である。
「はい、いつもので」
「揚げたてね。ちょっと待ってな」
これも、もう幾度となく繰り返したやり取りだ。
キミさんがお馴染みの注文を受け、奥の厨房の方に戻った。後は数分間待つだけ、俺は端のパイプ椅子によっこいせと腰かける。
油の弾ける小気味いい音を背景に、調理中のキミさんの声が耳に届いてきた。
「そういえば一昨日、リョウちゃんがきたよ。東京の大学にいくんだってね」
彼女の言葉に、俺はひとりの同級生の顔を思い出す。
リョウは小学生からの友人で、よくこの肉屋にも一緒に訪れていた。昔から都会への憧れが強い奴で、この春から晴れて都内の国立大学への進学が決まっていた。
「あいつ、自分で報告にきたんですか?」
「うん。両目に涙溜めちゃってさ、ちょっともらい泣きしちゃったよ。知り合いが地元を離れるってのは寂しいもんだね」
「…………」
内心の驚きを隠すように、無言で足元に視線を落とす。
――俺は、進学の旨をキミさんに伝えてくれと、リョウから言伝を頼まれていた。
だが、あいつは自ら出向いて彼女に告げたんだ。彼なりに未練を断ち切ったのかもしれないが、その真意は本人にしかわからない。
無言のままの俺に、キミさんは浸るような口調で言葉を続ける。
「ずっと小さなガキだと思ってたけど、もうそんな年なんだね……ケンちゃんは進路どうしたの?」
勘違いかもしれないが、少し悲哀を湛えたような口ぶりに、俺は慌てて面を上げた。辛気くさい空気を吹き飛ばすように喉を思い切り震わせる。
「俺はこの近所に就職ですよ。リョウみたいに頭よくないんで」
本音を言えば、頭脳や成績だけの話じゃない。俺はリョウと違って、住み慣れた地元から離れる度胸がなかった。当然この店にも、まだ通い続けていたかった。
空元気をふかした俺の台詞を聞いて、キミさんの声にも元の明朗さが戻った。
「――そっか。じゃあ常連ひとりの客足はまだ当分安泰だね」
「当たり前ですよ。俺、もうここ以外のハムカツは食えないんですから。キミさんこそ、いきなり結婚して店じまい……なんて、やめてくださいよ」
「馬鹿言え」
俺の冗談交じりの台詞を鼻で笑い飛ばすキミさん。どうやら結婚云々以前に、恋愛ごとには無縁らしい。俺も他人のことは笑えないけど。
「まったく、相変わらず生意気なガキンチョだね。覚えてる? あんた、昔あたしのこと『ハム子』って呼んでたんだよ」
「へ、へー……そうでしたっけ?」
無論覚えていた。
キミさんというのは愛称で、彼女の本名は公子という。
この肉屋に通い始めた頃――当時俺は八歳くらいだったか――俺が彼女につけたあだ名が、その“ハム子”だった。我ながら実に小学生らしい、短絡的かつ幼稚なセンスだ。
今でこそ若気の至りだと後悔しているが、当時の俺はやたらと面白がって連呼していた記憶がある。
「じゃ、昔みたいにゲンコツすれば思い出すかな」
「けけけ結構です! 丁度思い出しました! その節は本当に申しわけありませ――いって!」
俺は本気で狼狽して両手を振り乱し、その拍子に椅子から転げ落ちた。
床に打ち据えた臀部が痛むが……彼女の拳骨の威力は、まるでこの比ではないのだ。
なにせ彼女は丸太体型を連想させるあだ名に反して、すこぶる筋肉質な身体をしている。幼少期から現在までずっと空手を続けているらしく、肩幅なんて並の男より広い。
腰と床の衝突音を聞いてか、キミさんが厨房から顔を覗かせる。そして、無様な俺を視界に収めて噴き出した。
「ぶっ……! いやぁ、間抜けなところも変わってないねぇ」
遠慮のない笑い声に、顔が真っ赤になる。ちくしょう、またか。この店で大恥をかかされた経験は数知れない。
「あー笑った。さてと、後は油切るだけだから、もうできるよ」
言ってカウンターにキミさんが戻ってきた。俺は咳払いひとつ、椅子に座り直す。
「まったく……大事な“お客様”を虐めないでくださいよ。他のお客さんが見たら仰天しますよ」
嫌味を垂れるが、ふと見回すとそういえば俺を除いて客の姿はなかった。数年前なんかは、いつでも客足が途絶えなかった印象があったのだが。
つい首を傾げる俺に、キミさんがやや自嘲的に微笑んだ。
「いいんだよ。もう滅多に客なんてこないんだから」
さっきの俺と同じ、空元気丸出しの声音。その台詞に、なんとなく納得できてしまう自分が嫌だった。
精肉店だけの話ではない。最近は目に見えてこの街の人口が減少している。多くの住民が都会に移り住んでいるのだ。
代わり映えしない日常や見飽きた景色。こんな寂れた場所で燻っていれば、リョウみたいに地元を抜け出したいと思うのが正常なのだ。
――誰もが思い出を捨て、この街も捨てていく。
愛着を持って離れることを拒む、俺たちの方が異端者だ。
まるで沈黙を拒むように、キミさんが再び口を開いた。
「ケンちゃんも、よくこっちに就職しようと思ったね」
……彼女はもしかして勘違いしているのかもしれない。俺が心根から地元に残っているのではないと。大勢の意見と同じように、本心では都会に憧憬の念を抱いているのだと。
だから俺は、意識して素っ気ない口ぶりで言葉を返した。
「伊達に二十円も余分に払ってないですから」
その台詞にキミさんは一瞬驚いたように瞠目し、そして眉根を寄せて嘆息した。しかしその口元は、僅かに綻んでいる。
余分な二十円――
小学生の頃は、いつもリョウや友達と一緒にここを訪れていた。みんなの定番は、揚げものの中でいちばん安いコロッケ。六十円。
そんな中、俺はいつも財布事情に関わらず八十円のハムカツを買っていた。理由は単純、この店のハムカツが大好物だったから。
友達には奇異の視線で見られていたが、気にもしなかった。たった二十円の節約で好物を我慢するなんて、阿呆のすることだと思って。
……でも、今にして思えば、俺は誇らしく思っていたのかもしれない。
他の連中より肉屋の売り上げに貢献していることを。いつも笑顔でお釣りを渡してくれるキミさんを喜ばせていると、ガキらしい浅薄な思考で。
――本人には、絶対に伝えられないけどさ。
だからきっと、この肉屋が閉店しないかぎり、俺は地元を離れないだろう。飽きもせず、ハムカツを食べ続けるだろう。
かつての追憶に思いを馳せていると、不意に頭をはたかれる。
「ほい、できたよ」
無意識に俯いていたらしい。顔を上げると、正面にキミさんが立って紙袋を差し出していた。
肉汁が染みたころもの、昔懐かしい昭和の香り(平成生まれだが)に、鼻腔と胃袋が刺激される。どこぞの人間火力発電所みたいになりそうだ。
尻ポケットから財布を取り出そうとする俺をキミさんは手で制し、
「いいよ、今日はあたしのオゴリで」
豪快に白い歯を覗かせた。そして、俺の胸に熱々の紙袋を押しつける。反射的に受け取ってしまう俺の頭に、軽い衝撃。
キミさんの右拳が、こつんと額を小突いていた。
「またおいで」
十数年の間に何度も聞いた、何気ない言葉。
そう呟いた瞬間の彼女の表情に、俺は意識全部を持っていかれた。
普段は絶対に見せてくれないような、穏やかな微笑み。それは不意の北風で消し飛びそうな弱々しさで、けれど不思議と気丈で。
僅かに潤んだその瞳は、眼前の俺に向けられていたのか、過去の風景を投影していたのか……それとも、まったく別のなにかだろうか。
とにかく彼女の儚げな容貌は、その稀有さを差し引いても、俺を釘づけにさせるには充分な引力を備えていた。
――要するに、すこぶる綺麗だったのだ。
キミさんの唐突な変化に、言葉が出てこない。情けないことに、なんて台詞を返すのが正解なのか、さっぱりわからなかった。
だけど当惑する胸中をひた隠して、なんとか一言だけ絞り出す。
「きますよ、もちろん」
彼女の笑顔が少しだけ深まった。頬に若々しいえくぼが浮かぶ。
俺は別れの挨拶も「いただきます」もなしに、急いで店内を飛び出した。ずっと彼女と目を合わせていたら、吸い込まれそうに思えてしまったから。ただひたすら楽しかった過去の記憶の渦に、閉じ込められそうだったから。
駆け足で肉屋から離れて、自宅の近くまで辿り着いてからようやく歩を休める。
左手に提げていた紙袋を胸に抱える。地味な色合いのパーカー越しに、ほのかな熱が感じられた。
俺は中のハムカツを素手で掴み、その場で齧りついた。ころものサクッとした感触が、歯と耳に心地いい。
「……うまい」
俺の初恋の味は、今でも変わらずジューシィな味わいだった。
読んでいただきありがとうございます!
拙作はとある漫画で、ハイボールと一緒にハムカツを食べるというシーンを見て、それに影響を受けて衝動的に書きました。
そちらの作中でも触れられていましたが、いかにも『懐かしの味』って感じですよね。
記憶とか思い出が食べものに籠もっている、という話はよく聞く気がします。