ちりめん
子供だった頃、祖母と同じ部屋で眠ると必ず観ていたちりめん問屋のご隠居さま。
ちりめん問屋ってすごいな。ちりめんじゃこだけで問屋さんができるんだって感心しながら祖母と布団を並べて観ていたあの頃の自分をどこかに埋めたい。
私がちりめんの本当の意味を知ったのは、結構年齢がたった頃だった。
その瞬間からちりめんを見るたびにあの当時のお馬鹿さ加減に羞恥が心の底からふつふつと湧き上がってきて悶え苦しむようになり、私はちりめんが嫌いになった。
私はおばあちゃんっ子だった。
三人姉妹の次女という位置づけは、親から愛情を受けづらい。
親というものは一番初めの子供には、きちんと育てなければいけないと手をかけて育て、二番目の子供には一番目で慣れた育児でほどほどに、三番目の末っ子は最後の子供という免罪符で甘やかす。
世間でもよくあるそんな家族の愛情劇は、もちろん我が家でも公演をする。
よく躾けられた姉は母の横でいつも朗らかに笑い、甘やかされる妹は父の膝の上でにこやかに笑う。
一人に一組の手は、私には与えられなかった。
だが幸いなことに我が家にはもう一人大人がいた。
祖母だ。
父方の祖母であるその人は、いつも一人でいる私に手招きする。
試験の結果をみては褒めてくれ、熱を出しては看病をしてくれる唯一の人だった。
自分の部屋を与えられていても、夜になれば祖母のそばに布団を敷いて、一緒にテレビを見ていた。
祖母が観るドラマはたいていが時代劇物で、明朗快活、善悪のはっきりしているものばかりだ。
その影響か、私の性格は竹を割ったみたいだと言われ、知識も祖母とこの時代劇から仕入れることが多かった。
子供時代の私はそのせいで周りの子供から浮いた存在だったのだろう、友人が少なかった。
だが私はそれでも構わなかった。
家に帰れば優しい祖母が手招きをして私を呼び寄せてくれる。
そしてテレビが終わる夜9時になると小さな私のために消灯をして、私が眠りにつくまでずっと髪を撫でてくれた。
祖母の優しい手は子供の頃のささくれた私を癒してくれた。
私は祖母さえいればよかった。
そうして季節は巡り、月日は過ぎ去っていく。
いつの間にか子供時代を卒業し、大学進学で借りた奨学金を返し終えた頃、祖母が亡くなった。
最後の最後まで私にその優しい手を与えてくれた、唯一無二の人だった。
母と折り合いが悪かったために私以外の家族からは嫌厭されていた祖母だったが、私は祖母がいてくれたからこそぐれることなく今まで人生を歩んでこれたのだと思っている。
祖母は私の唯一だった。
そうしてまた月日は流れ。
会社の上司から勧められた見合いの席で知り合った、優しそうな人と結婚をし、子宝にも恵まれ、節約をしながら子育てをし、義両親を見送って、そして子供は大人になって巣立っていった。
人生もそろそろ終焉を迎える今、人生の中で一番心凪ぐ日々を送っていた。
庭には結婚した年に植えた金木犀が小さな小さなオレンジ色の花を咲かせている。
素晴らしい匂いを放ち、咲き誇る金木犀をよく見ようと硝子戸をあけたその時、目の端に自分のしわくちゃな手の甲をみてしまった。
―――――ちりめん。
その手の甲のしわは、まるでちりめんの布のようにしわくちゃで、一気に子供の頃の羞恥が沸いてくる。
ちりめん問屋のご隠居さま。
ちりめんじゃこばかりを卸しているだなんて、すごいよね。
優しい祖母は私の間違えを笑ったりせず、そうねえ、そんな風にもとれるのねと感心していたことを思い出す。
けれど長じて知った事実が私を嗤い、いまだにちりめんを手に取ることもない。
そのちりめんが、今、私の手の甲にある。
ああ、なんてこと。
今になってどうして。
これから手の甲が目に入るたびに、あの時に受けた羞恥を思い出すのか、ちりめんだと自分で自分を嗤うのかと悲しくなった。
それでもこれからも増え続けるだろうちりめんに、慣れないといけない。
私は自分の手の甲を、こわごわとさすった。
―――――――――あ、これは。
年若い人の持つ張りのある肌ではなく、皺がひとつひとつ引き立ち、ちりめん状に見えるその肌は、ふわりとした、どこか懐かしい柔らかを持っていた。
涙が、一粒落ちる。
私は自分の手の甲にあるちりめんをゆっくりと何度も撫で上げる。
柔らかい、肌。
この感触に私は幾度慰めてもらっただろう。
それはあの優しい祖母の手を思い起こさせた。
ああそうか。
年老いたことをありありと示し、子供の頃の恥ずかしさをも思い出させるちりめんの肌は、祖母の優しい手をも思い起こさせてくれるのか。
何度も何度も手の甲を撫でながら、私は久しく思い出さなかった懐かしいあの人が、すぐそこにいるような錯覚に陥った。
「あ、縮緬のうさぎさんね」
小学校のバザーを見に行ったとき、手作りのコーナーに縮緬のはぎれで作られた可愛らしいうさぎが売られていた。
すぐさま手に取って、その柔らかい感触と可愛らしい造形を楽しむ。
「これ、おいくらかしら」
私は元気に働く売り子さんに声をかけた。
私はもうちりめんが嫌いではない。
羞恥を思い出す言葉でもない、それは懐かしい祖母の思い出させるものとなったのだから。