十.墜ちゆく鷹【1】
利洛城内廷の一角に、歴代の皇帝たちを祀る廟が在る。金色の八角堂が、皇家の霊廟だけあって燦然たる華麗さと格式高い重厚感を放っている。
女帝珠玉は、即位して以来二十年近く、頻繁に此処を訪れている。皇族と一緒でなければ立ち入れないこともあり、祭礼の日以外は殆ど誰も近付かないので、一人きりに為りたい時には丁度良い。
心を落ち着かせるという目的以外に、臣下との密談にも使える。一つしか無い扉を内側から閉じてしまえば、外から開けることは出来ず音が漏れ出ることも無い……今宵、珠帝が此処にやって来たのは、ある人物と人知れず会うことに為っていたからだ。
紫の深衣を纏った彼女は、祭壇前の椅子に坐して男を待つ。相手は『元』上将軍の玄武。瑠璃を通して、今夜此処で落ち合う約束をしたのだった。
――玄武……やはり、生きていたか。
生死不明であった玄武が本当に顔を見せたなら、約二年振りの再会ということに為る。黒巫女と玄武が繋がっていた事実も気に掛かるが、先日瑠璃と見えた時に彼の気配を感じ取っていたこともあり、全く想定外というわけでもなかった。
――妾を待たせるとは、相も変わらず肝の据わった男よ。
普通なら考えられない非礼であっても、玄武の場合、珠帝も肯定的に捉えてしまう。彼女にとってあの男は、特別な絆で結ばれた代え難い『剣』であるがゆえだった。
目を閉じ精神を集中させ、研ぎ澄まされた感覚で玄武の存在を確信する。彼との距離が縮まってゆくのを感じながら、座ったままで動こうとしない。椅子の直ぐ横に立て掛けた剣の剣首を片手で掴み、紅色の穂を指先で弄ぶ。
やがて、背後の扉が音を立てて開かれた。少しして閉じられ、外からの冷たい空気が再び遮断される。珠帝は未だ、振り返らない。
「……陛下」
懐かしい声が静寂に響く。しかし、珠帝は応えない。男が自分の近くにやって来るのを待ち、其処で漸く彼の方へと向き直る。
珠帝の後ろに立っていた男……緑鷹は、主と目が合った瞬間、腰に携えていた剣を引き抜いた。珠帝も直ぐに剣を取り、彼が振り被ると同時に抜剣して攻撃に備える。素早い反応や少しの動揺も覚えていない様子から、彼女が緑鷹の行動を読んでいたことが窺える。
緑鷹が放った斬撃は、珠帝の剣で受け止められた。残った右腕の筋力と神力とを剣に載せ、緑鷹は上方から押し切ろうとする。珠帝もまた、内に秘めたる神力を籠めて対抗する……彼女から滲み出たのは、強い『黒の力』だった。
代々将軍を出す家の生まれである珠帝は、女ながらかなりの武才を持っている。其れでも本来であれば、緑鷹が片腕であるとはいえ、彼に剣で敵う程ではない。今、こうして渡り合えているのは、偏に彼の君から貰い受けた力ゆえである。
――成る程、確かに瑠璃と同じ気だ。
『陛下の神力の質が変わり始めている。最近特に……顕著に為ってきた』
紫暗が言っていたことを思い出した緑鷹は、納得する。そして一方で、身震いが全身を通り過ぎてゆくのを感じる。剣を伝いくる邪神の力は、茗屈指の剣士である彼をも慄然とさせる程の禍禍しさを帯びていた。
――美しいな……やはり。
彼の目が、紅く爛々とした珠帝の瞳と合う。内包する力は変われど、此の女は……珠玉。緑鷹が唯一の主と認めた焔の女傑。主君に刃を振り下ろし、剣と剣とを打ち合わせている此の状況においても、燃える魂の光に浅い嘆息を漏らしてしまう。
より強い神力を籠めて、珠帝は緑鷹の剣を弾く。口元に何時もの微笑は見られず、豊かな唇を固く結んで彼の顔を見上げた。
主と向かい合った緑鷹は、太刀を受け切られたことを悔しがるわけでもなく、何かに焦るわけでもなく、無表情。抜き身の剣を、腰の鞘に納刀しないままだらりと下げた。
「長らくご無沙汰を重ね、申し訳ございません」
謝罪の言葉を口にしている割に、気が咎めている様子は無い。主君に対し跪くどころか、頭を下げることすらしない。幾ら不遜な彼と雖も、此の態度はかなり不自然である。
「良く……戻って来てくれた。だが……」
視線を落とした珠帝は、今し方自分を狙った緑鷹の剣を見やる。
「こう為ることを……ある程度予測してはいた。おまえの矜持を傷付け、妾に斬り掛からせる程のことを……したのだから」
主らしいとはいえない其の言葉にも、緑鷹は表情を崩さない。口を開くと、抑揚の無い声で問い掛けた。
「昔、私と陛下が交わした約束を憶えておいでですか」
唐突な質問だった。しかし、珠帝の返答は早かった。
「……むろんだ。おまえが妾の剣と為る条件として、妾自ら申し出た約束であったな」
あれから二十年近く経つが、彼女もつい此の間のことのように覚えているようだった。
「妾は、おまえを倦ませることの無い王と為る。其の誓約を破り、おまえが仕えるに値しない、退屈な王と為ったなら……我が夫、亡き先帝のように斬って捨てても構わぬと、確かに約した」
閨の中で、緑鷹が瑠璃に語った珠帝との過去。彼が最後にはぐらかしたのは、此の約定を交わしたこと。
珠帝の提示した条件を飲み、緑鷹は『玄武』と為った。焔の女帝に仕える鷹と為り、幾つもの戦で勝利し名を揚げ、青竜に次ぐ英雄と為った。珠帝が見出した緑鷹という青年は、彼女の期待以上の働きで将軍にまで上り詰めた。幾多の戦場を与えられることで、剣腕だけでなく優れた軍才も発揮し始め、人格の欠点を補い人望を集めることも出来たのだ。
一方珠帝の方も、緑鷹を十二分に愉しませた。即位後数年で『珠帝』の名を帝国中に轟かせて内政を盤石なものとし、遂には前人未踏の『人界統一』に乗り出した時、彼の心は高揚し、弾んでいた。そして誰にも見せない彼の胸奥で、密かな夢が浮かび始めた……珠帝の許で戦勝を続け、彼女を茗だけでなく人界全てを治める王にするという、彼らしからぬ夢を。其の夢は、あの紫暗を含めて只の一人にも明かしたことが無い。
「妾に剣を向け、かつ其の話を持ち出すということは……おまえにとって、妾は詰まらぬ王と為ったということか?」
片頬に笑んではいるが、珠帝の瞳は鋭い。剣気を纏ったまま、一分の隙も見せない。応える前に、緑鷹は天井を見上げて軽く息を吐いた。
『珠帝がいずれ……王座という権力の毒巣に蝕まれ、おまえを飼うに値しない只の女に成り下がったら、如何する?』
紫暗に誓約の話はしていないはずだったが、十九年前のあの夜……何故か彼は、緑鷹にそんな問いを投げ掛けてきた。
――俺は、『先帝と同じようにする』と答えたな。
若かりし緑鷹は、珠帝自身が申し出た通り『斬り捨てる』と答えた。そう返答するのに何の躊躇いも無かったと記憶している。
「……もし是と答えたなら、陛下は如何なさいますか。約束通り、私の剣を受けてくださいますか」
主を相手に少しも慎むことなく、緑鷹は率直に疑問を投げ掛ける。此の姿勢は、何年経とうが変わることはなさそうだった。
「……以前の妾であれば、喜んで受けただろう。其の積もりがなければ、元より約束などせぬ」
先程から礼を執らず自分を見下ろしている緑鷹に、珠帝は気分を損ねる様子も無い。彼に対して昔から寛容であるということもあるが、理由は他にも在った。
「だが、今の妾は違う。今、おまえに裁かれるわけにはいかぬのだ」
裁く、という言葉を聞き、緑鷹は驚きに打たれた。王である己に絶対的な自信を持つ珠帝が斯様な発言をしたことが、意外過ぎたのだ。
――何か俺に対し、罪悪感めいたものを抱いているのか。だからお怒りにならぬのか。
驚愕の余り、こんな状況にも拘わらず笑みが漏れ出そうに為る。
――あの、陛下が……飼犬に『裁かれる』などと。
緑鷹の知る珠帝ならば、彼に怯え下手に出るためにそんな発言はしないだろう。彼女は屹度、本気で罪の意識を抱いているのだ。
「おまえを聖安にやって遠ざけたのも、彼の国を煽るためにおまえの誇りに傷を付けたのも……今将に、おまえとの約束を破ろうとしていることも、全て妾が決めたこと。何の弁明もせぬ」
言い訳はしない。自分の行いについて謝罪することも無い。其れが……珠帝という女傑。緑鷹は、そうした彼女の生き方を気に入っていた。また、自分への仕打ちに関し、彼女に謝意を示して欲しいとも思わなかった。
「……陛下は、私が随加で海賊の真似事をしていたことを咎めないのですか」
其の問いに、珠帝は小さく首を傾げた。
「咎めるも何も、あれは妾が望んだことだ。おまえは、妾が望んだ通りに動いてくれたのだ」
そう言った珠帝は、剣を持たぬ左手で、結えた髪を背へと除けた。
「聖安の商船を襲って交易を混乱させ、随加という主要な港町の秩序を乱して、禁軍まで駆り出させてくれた。しかも、おまえは身を挺して聖安を外交的に挑発する理由と為ってくれた。全て、妾にとって都合の良いこと」
彼女はやや目を細め、満足げに微笑する。
「全て、妾が『予め』おまえに期待していたことだ」
緑鷹は浅く……されど確かに頷いた。
――やはり、そうか。
以前から、そんな気がしていた。随加に封じられ燻っている間、既に分かってはいたのだ。珠帝が自分に命じたのは聖安の貿易を妨害し、主に水軍の軍備を探ること。だが本当の狙いは、短気で狂暴な自分を苛立たせることで血気に逸らせ、聖安との戦を始める切っ掛けを作り出させることだったのであろう……と。故に態態、彼の国との国境に自分を配置したのだ、と。
珠帝の真意に薄々気付き始めた頃、既に、緑鷹は粗野で野蛮な海賊の首領に身を落としていた。先帝を殺したあの霖雨の日、珠帝の剣と為る誓いを立てた日よりも前……少年時代に紫暗と共に分け合った夢を忘れ、中途半端な力に自惚れていた自分に、立ち戻っていた。
『貴方の神人としての能力も、剣の腕も、兵を指揮する力も、衰えている。其れなのに、貴方の野心や荒い気性は其のままで……だからこそ、珠帝に遠ざけられた』
かつて、瑠璃にそう言い放たれた。自覚が有ったからこそ頭に血が上り、怒りを感じたのを覚えている……自分の行動の危うさを、分かってはいたのだ。四神でも将軍でも無かった、珠帝に依って遥かな夢を思い出す前とは、立場がまるで違っているということを。
其の後、『女帝の鷹』と謳われた四神の玄武は、聖安の若い将校と剣を交え呆気なく負けた。己が愚かさゆえに名を落とし、主に依って存在を抹消され将軍としての自分を失った。
「おまえが妾に失望するのも、憎むのも頷ける」
緑鷹の思考を遮り、珠帝が再び口を開いた。
「しかし、『今の』妾はおまえに殺されるわけにはいかぬ。一生おまえに恨まれ、侮蔑されることに為ろうとも、妾には王として完遂すべきことが有るのだ」
彼女は目を瞠る程の威容を保ったまま、身動ぎすること無く立っていた。緑鷹を捕らえた朱色の双眸は炯炯として、天性の眩い輝きに燃えていた。
――此の、王の気だ。俺が疾うに失くしたと思っていたものを思い出させてくれる、此の女にしか纏えぬ支配者の気。俺は……此の気を感じるために、戻って来たのだ。




