八.光の郷で【2】
麗蘭はふと、思い出す。青竜と対峙し邪眼に射抜かれた時、千五百年前の光龍『奈雷』のものらしき記憶の世界に誘われたことを。
――あの時……確かに、私の意識が『奈雷』に飲み込まれたかのような感覚が有った……だが。
此れまで通りの自分ではなくなるということが、麗蘭には想像すら出来ない。しかし如何な理由が有ろうと、今の彼女にとって『天陽を得ない』という選択肢は存在しない。
――私は力を手に入れたい。自分の使命のため……いや、何よりも私自身や、私の大切な人たちを守り抜くために。
「……魅那。真の光龍と為るために、私は天陽を受け継ぐ。たとえ私に何が起ころうとも」
其の曇り無き瞳は、決意は強い。麗蘭の双眸の奥に輝く心を認めると、魅那は無言のまま静かに頷く。そして、彼女の応えを見守っていた蘢もまた、顔を綻ばせて柔和に笑んだ。
「分かりました。では、上宮にご案内いたします。今直ぐ向かわれますか?」
「ああ、お願いしたい」
力強く言うと、麗蘭は隣の蘢へと目をやる。
「蘢、行ってくる。おまえは此処で休んでいてはくれぬか?」
「……そうさせてもらうよ。魅那、天真、良いかな?」
蘢の問いに、姉弟がこくんと頷いた。
「蘢さん、怪我してるでしょう? 僕、少しなら治癒術が使えるよ」
思い掛けない天真の発言に、蘢も麗蘭も甚く驚かされた。
「天真……おまえ、何故怪我のことを知っている?」
不思議でならないという様子で尋ねる麗蘭。蘢本人は、並の人間では先ず見破れぬ程、自分の怪我を巧みに隠している。此処に来るまでの間、蘢が負傷していること等一言も告げていないというのに、何故天真に分かったのだろうか。
「え? えっと……気の乱れかな。ほんの少しだから分かりにくいけど」
其れを聞いた蘢は、困った顔をしつつも感心して、天真の頭にぽんと手を置いた。
「天真は凄いな。立派な覡なんだね」
「あ……えっと、うん……」
褒められると、天真ははにかんで瞼を伏せる。
「では、私が麗蘭さまをご案内します。天真は蘢さまとご一緒に……こう見えて、此の子は我が一族の中でも治癒の術に長けていますので、どうかご心配無く」
口元を緩めて言う魅那に、麗蘭は先程からずっと気になっていたことを問い掛けてみる。
「先刻天真から、珪楽の巫覡はおまえたちしか居ないと聞いたのだが、他の巫女や覡たちは、一体……」
尋ねた途端、天真の顔色が変わったことに気付く。酷く沈んだ表情で項垂れてから、暗い眼差しで姉の方を見やる。魅那は立ち上がり、弟の側近くへ寄って震える彼の身体を抱き竦めた。
「天真、巫女さまの前よ。しっかりしなさい」
姉らしく、厳しげな口振りだが、魅那の表情には天真への優しさが満ちている。
「済まぬ、私はまた……天真を怯えさせることを言ってしまったのか」
狼狽する麗蘭に、魅那は首を横に振って否定の意を示した。
「いいえ、麗蘭さま。どうかお気になさらずに。此の子は身も心も幼いゆえ、受け入れなければならない現実から逃げているだけなのです」
哀しげに言うと、魅那は腕の中に居る天真の背をさすりながら、ゆっくりと語り始めた。
「私たち姉弟は、母と二人の巫女たちと此の下宮で暮らしていました。皆、同じ『光焔の守人』と呼ばれる神人の一族です。『光焔』とは、珪楽における天陽の別名です」
――『迸る光の焔を纏いし御剣、天に坐す神君より賜り……』
麗蘭は思い出す。以前、風友の孤校で読んだ書物にそう記してあったことを。
「此の珪楽は数百年の間、茗帝国の領地に在っても其の支配下に入らず、独立を保ってきました。歴代の国主たちも此の地に眠る紗柄さまの魂の敬意を払い、手出しすることがなかったのです……ところが」
其処まで言ったところで、魅那は一つ溜め息をついた。
「今上の女帝、珠帝陛下は違いました。あの御方は天帝を敬わず、神意を懼れません。光焔の剣を求めて軍勢を送り込み、我らの聖域を踏み躙ったのです……未だ、ほんの一年前のことになります」
時々消え入るように弱まる声を何とか振り絞り、話し続ける。
「此の神坐に軍を立ち入らせまいと、信心深い村人たちは空しい抵抗を試みました……愚かな兵たちは、武器も持たない人々を次々手に掛け村を焼き、奥へ奥へと進んで来たのです」
『此の村も……一年前まではもっと大きくて人も多くて、賑やかだったんだ』
集落を通った際の、天真が途中で引っ込めた言葉が甦る。何かが有ったことは窺い知れたが、魅那の口から明かされたのは、麗蘭が想像した以上の事実であった。
「神門を通られ、覚悟を決めた母と二人の巫女は下宮の前に並び立ち、結界を張りました。己の命を捧げることにより、『神剣を得ようとする悪しき心の持ち主を阻む』強力な神術を用いたのです」
其れはつまり、魅那たちの母と巫女たちが自決し、術の完成のために血を流したことを意味していた。
「術が成功すると、珠帝の兵たちは神門の外へと弾き出され、神坐に立ち入れなく為りました。命令を果たせなく為った彼らは、仕方なしに引き返して行ったのでしょう」
――神門で感じたあの、空気の変化は……結界の存在も影響していたのか。何と……痛ましい。
魅那の話を聞き、麗蘭の胸中に重苦しい遣り切れなさが広がってゆく。
「私と天真は上宮に行き御剣を守るよう言われており、まさか母たちがそんな術を行おうとしていた等とは、思いもしませんでした。騒ぎが静まって暫く経っても誰も上宮に来ないので、勇気を出して天真と戻ってみたら……其処には……」
すると突然、其れまで黙って聞いていた蘢が立ち上がり、魅那の唇に指を近付け言葉を止めさせた。穏やかに労わるような目付きで魅那を見据え、もう良いとでも言いたげに頭を振っている。
「蘢さま、ありがとうございます。大丈夫です……少し、取り乱してしまい……」
「無理をしなくていい。君たちに何が起きたかは、十分解せた」
そう言って、蘢は再び畳の上に座した。子供離れした内面で気丈に振る舞い、過去を受け入れたと言いつつも、魅那も未だ幼い子供に過ぎない。似た経験をした蘢には、彼女の悲痛が自分のことのように良く分かる。
「魅那、話してくれて……ありがとう」
俯いた魅那の瞳を覗き、麗蘭が口を開く。
「詳しくは言えないのだが……私たちは今、珠帝の野望を挫くために旅をしている。母君たちが守り抜いた剣を譲り受け、私は必ず開光を為し……奴に一矢報いてみせる」
麗蘭は、心の中で炎を燃やしていた。祖国聖安に攻め入り、幼い姉弟の幸せな生活を破壊し、妹蘭麗の自由を奪い去った珠帝を……赦さない。そんな激情が生み出した、決意の焔だった。
「麗蘭さま……ありがとうございます。屹度其のお言葉を聞けて、母たちも喜んでいると思います。貴女さまの御心に、ほんの少し存在を留めていただけるだけでも、此の上なく光栄なことですのに」
幼くして一族の想いを背負った小さな巫女は、大きな瞳を潤ませ涙を溜めていた。弟を立たせてやると自分も立ち上がり、目元を袖で拭って麗蘭へと身体を向ける。
「では、ご案内しましょう。光焔の剣が在る処へ」
「……ああ、頼む」
傍らの蘢を見て目を合わせ、彼が頷いたのを確認すると、麗蘭も腰を上げた。
蘢と天真を室に残し、魅那と共に下宮を出ると、既に陽が落ち掛けていた。燃え立つ夕日は、此の地に溶けた巫女たちの血に依って染め抜かれたように……赤赤としていた。




