十.血の惨禍【1】
やや残酷な表現があります。
東門と西門を結び、街の中を横断して真っ直ぐに通っている白鶯大路。宿を出た麗蘭は西門に向け、此の大通りを全速力で走っていた。
西側から逃げて来る人々と擦れ違い、泣き叫ぶ女性や子供の側を通り過ぎ、重たい鎧を着込んで西へと急ぐ兵士たちを追い抜いて行く。東へ逃げるため次々と家から飛び出して来る人々も後を絶たず、白林一の大路は大混乱に陥っている。
古来より妖の脅威と共に生きてきた街の人々は、西の城壁崩壊に直ぐ様大きな反応を示した。彼等が妖に対し優位性を保っていられるのは、あの鉄壁に因るところが大きいと、大人から子供まで皆良く知っているからである。
ところが其の西の城壁が崩されるとは、誰も予期していなかった。山を背にしているため敵軍が攻めて来ることはなく、選り抜きの対妖軍や結界で固めていることもあり安心し切っていたのだ。それゆえか、避難を誘導する軍の動きが悪く、統制が取れていないように見受けられる。
人と人の間を上手く通り抜けながら、然程息を乱さず軽やかに駆けて行く麗蘭。街の最西へと近付くにつれ、黒の神気と妖気がより大きくなってゆくのを感じ取っている。
――神気は一つ。しかし、妖気は複数……簡単には数え切れぬ程だ。
麗蘭は予感する。妖が街へ侵入するという、予想し得る最悪の事態が起きたことを。後少しで西門が見えてくるという辺りに差し掛かった時、其の予感は確信へと変わった。
「妖だ! 山から妖が来たぞおおお!」
狂ったように叫びながら逃げて来る人々や、担がれ運ばれて来る血塗れの……ぐったりとして少しも動かない人々が見え始める。
――急がねば……!
傷付いた人々を置いて先を行くのは気が進まないが、今自分が急がなければ更に犠牲が増えるのは必至。麗蘭は只前だけを見据え、立ち止まらずに走り続ける。
漸く西門に……いや、西門が在ったと思われる場所の手前までやって来た時、麗蘭が未だかつて見たことの無い惨状が広がっていた。
城壁や城楼、西門、そして民家などの建物は崩れ去り、瓦礫の山と化していた。やや強い風に吹き上げられた砂埃と共に、酷く嫌な……生臭い臭いが漂う。妖に食まれた者たちの死体や血が噴き出す強烈な臭いだ。
建物が無くなり視界が開けているため、彼方此方で妖たちが人々を襲っている光景が見渡せる。若者と老人の別も、生者と死者の別も問わない。目に付いた人間に飛び掛かり、見境なく食欲を満たしている。
常人の三倍程の背丈で、牛頭と人の四肢を持つ妖哭錆が、必死に逃げ回る男性を捕らえて首を圧し折る。頭、手足をもぎ取り大きな口へと放り込むと、噛み砕いて食い荒らしていた。
全身が暗紅色で尾が八つある紅狐は、好物とする若い女性を其の尾で絡め取り、喉笛を切り裂いて溢れ出る血液を吸出し、飲み乾している。痙攣していた女の身体が干からび、動かなくなると投げ捨て、次の獲物を探しに行く。
残骸の隙間からは、煉瓦の下敷きとなった者の死体らしき腕や足が飛び出ており、巨大な鳥の形をした落鳥という妖が其れを引き摺り出し、咀嚼している。
余りの光景に、麗蘭は思わず鼻と口を覆って目を逸らしてしまう。妖に人が喰われる場面を見るのは初めてではないが、慣れているというわけでもない。鼻が曲がる異臭や人の身体が引き千切られる凄惨さに吐気が込み上げてくる。
何とか耐えると再び顔を上げ、弓をしっかり握って矢を番える。狙うは化蛇という妖……麗蘭と同じ歳くらいの少女を、一部だけ残った家の壁際に追い詰め、鋭い牙で今にも噛み付こうとしている有翼の大蛇だ。
呪を唱えて神力を矢先に篭め、怪物の後頭部目掛けて放つ。白い光を纏わせた破妖の矢が一直線に飛んで行き、狙い通りに人の頭程の大きさがある的を貫き一矢だけで射ち倒した。
「大丈夫か?」
少女に駆け寄り身を屈め、声を掛けるが返答は無い。只麗蘭を見上げ、両手で頭を抑えて身を震わせている。余程恐ろしかったのであろうか、顔は涙で崩れ、時折発する不可思議な声はすっかり掠れていた。
自分の足では立ち上がれず、逃げられそうも無い。しかし此のままにしておけば再び襲われるのは目に見えている。麗蘭は少女に向け手を翳し、長めの呪を早口で唱える。柔らかく優しい白光が少女を取り巻き、守るようにして完全に覆う。
「暫くは妖を避けられる」
少女の周りに結界を張り終えたところに、別の化け物が背後より躍り掛かって来る。麗蘭は振り向きざまに剣を抜き、斜めに下ろされる鋭い指爪を弾いた。
体は犬に似ており、豹と同じ模様を持つ狡という妖。阿宋山の奥でも見かける、本来なら人に害を為さぬ種族である。
不気味な獣から目を逸らさず剣の切っ先を真っ直ぐに向けたままで、少女から離れた位置に移動してゆく。すると獣の方も麗蘭から視線を外せず、黒い血に塗れた口から忌々しそうに唸り声を上げた。
――おかしい。此れは狡だ。普通なら人間を喰わぬ理性的な妖であるはずなのに、何故人を襲う?
血が滴る尖った牙を剥き出しにし、敵意に満ちた眼で麗蘭を睨んでいる。彼女の神気に警戒する様子を見せないこともまた、珍しい。
前足を上げた姿勢で哮り立ち、辺りに大きな地鳴りを起こすと、妖は再び麗蘭に突進して来る。対する麗蘭は剣の腹に指を当てて呪を唱え、素早く神気を篭めると、自分の顔の前にしっかりと立てて構える。
片足を一歩下げた状態で大地を踏みしめ、狡を迎え撃つ。狡は少し離れたところまで来ると跳躍し、麗蘭に向かって勢い良く飛び付いて来る。構えた剣を大きく後ろに引き、時を見計らって一気に振り抜く。怪物の上体に刃を喰い込ませて躊躇うことなく両断すると、返り血を浴びないよう即座に走り出し、血が迸り出ることのない場所へと移動した。
「此れは……黒神の気か?」
狡を斬った時、其の身体に宿り染み渡った邪神の黒い力を、麗蘭は確かに感じ取った。
「妖共の様子がおかしいのは……まさか」
麗蘭は漸く気付き始める。邪悪なる黒神の力が妖たちを侵食して理性を破壊し、狂わせていることを。狡の他にも、普段は大人しいとされている妖までもが牙や爪を血で濡らし、狂暴化しているところを見ると、そう考えてほぼ間違いはないだろう。
「何と……惨いことを」
――しかし今は、狩るしかなかろう。
神気を浴びせたために、一滴の血や肉片も付いていない剣を再び鞘に納めて腰に差す。弓矢を取ると矢筈を弦に掛け、麗蘭の姿を見付けて走って来る別の狡へと放つ。眉間を射ち抜かれた狡が横に倒れるのを確認すると、息を吐いて再び周囲を見回した。
城門付近を守っていた討伐士と思しき、数人の剣士たちも、それぞれが奮戦している。どの者も強者と見受けられるが、敵の数が多すぎる。更に妖たちは、邪神の力の影響下にあるためか、妖力を引き出されて格段に強くなっている。神力が保たず力尽きて、喰われてしまっている神人も出て来ていた。
人間を……特に神人を喰らえば妖力も増す。既に幾人も喰っている妖は、普通の神人兵では太刀打ち出来ない程までに妖気を膨れ上がらせている。
そうした妖たちも、神巫女の神力を以てすれば一矢で斃すことが出来る。麗蘭は無闇やたらに射掛けるのではなく、妖気のより強い妖を狙い撃ち、次々と貫き倒していった。
暫くすると、先程麗蘭が追い越した白林軍の兵たちが大挙して到着した。物凄まじい残虐な現場に皆、言葉を失い、膝を付いて嘔吐してしまう者までいる。
「第一隊は残っている人々を逃がせ! 第二隊は神人の援護をしろ!」
指揮官らしき無骨な男が、手で鼻を覆いながらも何とか声を張り上げ、部下に指示を飛ばす。しかし早くも震え上がっている兵たちは、妖たちの恐ろしい形相に慄然として剣を抜くことすら出来ない。何人かの勇敢な若者だけが意を決し、妖の元へと走って行くのみであった。
「止せ! 神人でなくば奴らの相手は無理だ!」
彼らに気付いた麗蘭が、出せる限りの大声で叫ぶ。妖気を撥ね除ける十分な神気を持たぬ只人では、余程の使い手でなければ妖と戦うことなど出来ない。妖の持つ穢れの強さに依っては、吐息に含まれる毒気だけで死に至らしめられてしまう。
麗蘭の忠告に反応し身を引く者もいたが、其れでも数人は構わず突き進んでゆく。神人でないのにも拘わらず妖に挑むだけあって、其れなりに腕に自信が有るのだろう。確かに剣の扱い方などから判断すると、人間同士の戦いにおいてだけならば、かなりの腕前の持ち主と評される力量だ。
「うおおおおおお!」
一人の若い兵が、子供の骨をしゃぶっていた哭錆に向けて剣を振り上げ、肩口に斬撃を落とす。刃は狙った通りの位置に食い込んだが、化け物の身体は人間の力では斬れぬ程に固く、攻撃の効力は皆無に近い。哭錆のような強靱な肉体を持つ妖に対しては、麗蘭がやっているように剣に術をかけて妖の苦手な神力を移し、斬れ易くしてから戦うしかない。
哭錆は兵に向かって眼を細め、薄気味の悪い顔を作る。人間の表情で言えば優越感に浸った笑みといったところだろうか。
若者は慌てて剣を引こうとするが、刃が妖の肉にめり込んでおり、如何やっても抜けない。完全に妖の間合いへと入ってしまった若者は、顔を蒼白にして死を覚悟した。
「身を屈めろ! 奴の血を肌に浴びるな!」
青年は麗蘭の声に反応し、言われた通り剣から手を放して頭を低くする……窮地に立たされた彼を救ったのは、彼女が射た神速の矢。若者の真上を通り越すと哭錆の右眼を射抜き、牛の頭の右半分を吹き飛ばすと、瓦礫の山の奥へと消えてゆく。
人を喰って肥大した妖気と、黒い神の力に浸食され濁り切った妖の血が、兵の丸めた背中に降り掛かる。此の邪悪な血は、浄化の力を持たぬ只人が身体に直に浴びれば猛毒と為り、澄み切った強い神気の持ち主である麗蘭にとっても命取りに為る。どちらでもない普通の神人でも、暫くの間動けなくなる位には為るだろう。
「立てますか?」
弓を手にしたまま、蹲っている兵の側へと走って来る麗蘭。彼は恐る恐る顔を上げ、顔面が潰れた状態で仰向けに倒れている哭錆と、思わず見入ってしまう程美しい彼女を順に見た後、幾度も首を縦に振った。
「ああ、立てる。忝い」
若者に手を差し伸べようとした瞬間、麗蘭は突然背後を振り返り、目にも留まらぬ速さで剣を抜く。彼女の背を貫こうと射られた矢を、すんでのところで弾き落とし、飛んで来た方向を凝視する。
――確かに此方からだったと思うのだが……
矢を放ったのは誰か見定めようとするも、怪しい者は誰も居ない。地面に落ちた矢を拾い上げるため膝を折り、手で触れようとした其の時、麗蘭は気付く……自分を狙った矢が、黒神の力を纏っていることを。
「瑠璃……か?」
四年前、風友の孤校にやって来た黒龍の神巫女瑠璃。麗蘭と同等……或いは麗蘭以上の弓の名手である彼女ならば、神気を矢に移して射てば、遠く離れた場所からでも標的にあてることが出来るかもしれぬ。
――また、私を殺そうとしたのか?
目を瞑り、剣を握る手に力を篭める。未だ幼かったあの日、姉のように慕っていた瑠璃に裏切られた胸の痛みが甦る。初めてできた友であり、心から尊敬していた彼女に、ぞっとする程冷たい瞳で「殺す」と言い放たれたあの苦しみは、四年前から少しも和らぐことはない。
「……余所見をしていると、また不意打ちを喰らうぞ」
後ろから出し抜けに声を掛けられた麗蘭は、見返ると同時に剣を振り上げ、瞬く間に声の主へと剣先を突きつける。
「……誰……だ?」
其の姿を見た途端、麗蘭は数度瞬きして息を呑んだ。剣が示す先に、信じ難い程美しい青年が微動だにせず立っていたのだ。




