七.変わらぬ想い(★)
あれは、冷んやりとして心地良い風が吹き抜ける、春の早暁。
美しい鶯の鳴き声が響く、外れに在る小さな湖の畔。梢には新芽が出始め、鮮やかな花々も姿を現し始めている。
さわさわと風に葉を揺らす一本の大樹の下、蒼い蒼い髪の幼い少年が細長い棒きれを手にし、頭上に上げては幾度も振り下ろしている。何百回も、何千回も、素振りの積もりなのであろう。白めの肌からは玉のような汗の雫が浮かび、前髪が所々額に貼り付いている。呼吸は乱れ始めているが、其の表情には疲労の色など少しも滲ませず、只一心に稽古を続けていた。
少年には為し遂げねばならぬことが有る。平民の、其れも孤児という出自からはとても困難な、巨大な目的を抱えている。
其れは『夢』などとは程遠い。そんな綺麗なものではない。幼い頃に全てを奪い去られ、強制的に植え付けられた『憎しみ』が生み出した復讐心が、其の源なのだから。
実現させるために、自分は強くならねばならない。強く強く、誰よりも。更に、賢くなければならない。神話や英雄譚に登場する、大将軍や軍師たちのように。
大願を成就させるため、先ずは軍人に為らねばならぬ。其れも、偉大な皇帝に仕える上将軍に。
一向に『剣』を振って山を駆け上がり、書を読み漁るだけでなく孤校の授業でも常に一番を取る。都から離れた此の小さな街では、文武両道の秀才と街の外まで名が知られる程でなければ、士官学校の推薦枠には入れない。
やがて士官への道が開けても、出自が重視される軍では蔑まれることも有るかもしれない。貴族でもなく、有力な平民の親も居ない彼は、幼くして其の覚悟が出来ている。だがたとえ何が有ろうと、どのような辱めも受け入れる積もりである。
早朝孤校の授業の前に、誰も居ない此の場所に来て内緒で稽古をするのは、此の一年程の間日課と為っている。日の出と共に目覚め、往復で一里(※)近く離れている此処まで走り修練し、朝餉と授業に間に合うように走って帰る。今日も何時も通り、もう暫く経ったら戻ろうと思っていた。
――誰か、来る。
少年は幼くとも、生まれつき強力な神力を備えた神人だった。森の方から、同じ神人が近付いて来るのを気で感じ取る。森から一本だけ伸びて湖へと通じる道を通り、だんだんと此方へ向かって来るようだ。
道から離れ、大樹の陰に隠れる。こうして稽古をしている所を、誰かに見られたくなかったからだ。孤校の誰にも知られぬよう苦心したお陰で、一年もの間秘密を守り通している自信が有る。
狭い道の向こうからやって来たのは、実に意外な者たちだった。少年が見たことも無い箱を担いだ四人の男たちと、後ろに続く五、六人の女たち。少年は首を傾げながらも、其の箱が何であるのかを思い出す。本で目にした輿という乗り物だ。
――身分の高い人、なんだろうな。
輿に乗るのは、貴人と呼ばれるような地位の高い人物と決まっている。しかも眼前に現れた輿はかなり立派なもので、黒い漆塗りに描かれた蒔絵は金の唐草。そして中央上には、金の双頭龍の絵が飾られている。
少年は我が目を疑った。双頭龍の尊き印は皇族の紋章であり、此の聖安帝国国主と其の一族を表す象徴そのもの。其れが付いた輿に乗る人物は、紛れも無く皇族の者。
――そんな偉い人が、どうしてこんな所に?
彼の心臓が久し振りに高鳴っている。一体どんな人物があの中に居るのだろう。何人もの従者を従えて、こんな場所に何の用向きなのだろうと、気に為って仕方が無い。
目を凝らした少年が注視していると、彼らが畔まで辿り着いて立ち止まる。陸尺(※)たちは、草の上へ輿を大事そうに下ろした。
何か、輿の中から声が聞こえた。少年と輿までは少し距離が有る所為か、何と言っているかまでは聞き取れない。口惜しく思っていると、控えていた女が屋蓋から垂れた金の簾をさっと上げる。少年がぎりぎりの所まで身を乗り出して見ると、遂に其の人物が現れ出た。
後ろ姿しか見えないが、髪の長い小さな少女であった。彼が生まれて初めて見る程の上等で綺麗な色の着物に、良く手入れされ肩下まで垂らされた胡桃色の髪。背後より少し遠くから見ただけで既に、少女が自分とは違う世界の人間なのだと分かる。
――神力はあの子からか。
先程少年が察知した神気は、確かに少女が纏っているものだ。皇族というのは、身に宿す神気までもが何処か下様(※)と異なっているのだろうか。色で譬えるのなら限り無く白に近い透明。汚れ無く、侵し難い。
一人の下女が、輿の中から何かを取り出した。色鮮やかな糸を交叉させ作られた、とても高価そうな手毬だった。庶民の娘では到底持てぬであろう。
お付きの者たちが見守る中、少し湖から離れた位置で、少女は鞠を空へと真っ直ぐに投げ上げる。投げては其の手で受け止め、投げてはまた止める。少女のそんな戯れすらも、少年には尊い儀式めいたものに見えて、まるで物語の世界にでも入り込んだような感覚だった。
「あっ」
少女の可愛らしい声で、少年は我に返る。受け止める際、鞠が少女の手をすり抜けて地に落ち、湖の方へと転がって行ったのだ。
――湖に落ちてしまう!
其れは酷く、いけないことのような気がした。大切そうに遊んでいる鞠が濡れてしまっては、少女は悲しむに違い無い。
緑陰から飛び出した少年は、鞠が転がる方へと走って行く。姿を現すことへの懸念など忘れ、無心で鞠を追い掛ける。一方少女も、突然現れた少年に驚きながら自分も鞠を止めるべく、着物の裾に足を取られぬよう気を付けて動き出す。
――追い付いた!
湖水に落ちる寸前で、少年の右手が鞠に触れた。良かったと安堵し視線を上げると、目前に少女の顔が在った。二人共膝を折り、それぞれが鞠に手を伸ばした状態で向き合っている。
少年――幼き蘢は、彼女の姿を、顔貌を認識するなり息を飲み、愕然とした。胸の高鳴りが収まったかと思えば呼吸が止まり、血の流れさえも止まってしまったのではないかという程の動揺を覚えた。
歳は蘢よりも幾らか下で、幼い幼い少女。透ける月白の大きな瞳、長い睫毛、抜ける白い肌、薄紅の唇。全てが素晴らしく、麗しく、愛らしい無上の至宝。真っ直ぐに目が合うと、少しも、全く逸らせない。
「ありがとう」
またも少女の声で、はっとさせられる。何と美しい、良く通った声であろうか。気品に満ち満ちた強く優しい声であろうか。
「い、いいえ」
やっと其れだけ、一言返すだけが精一杯。少女の目を見詰めたまま離さずに、手に取った鞠を差し出した。
鞠を受け取った少女が眩しい微笑みを見せると、再び蘢の胸が鼓動し始める。ずっと、ずっと見ていたい。此の少女の可愛い笑顔を見ていられるのなら、どんなことだってしたい。心の奥から沸き上がってくる不可思議な感情に戸惑いつつも、蘢は其れが心地良いと感じている。
だが同時に、自分の姿を恥ずかしく思い始めていた。よれよれの着物を身に着け、腕や足は稽古でできた傷だらけ。従者を何人も連れている姫君の前に出る格好ではないと、何となくは分かっている。
此の時程、自分の出自や育ちを嘆いたことは無かった。皇族ではなくとも、せめて貴族なら、こんな惨めさは感じなかったろうに。
「これ、其処の童男。此方はそなたが目に触れて良い方ではない。頭を下げよ」
――ああ、やはり。
下女の声が降って来て、蘢は慌てて平伏する。悔しいというより、申し訳無かったという思いの方が強い。自分のような者に見詰められて、姫君はさぞや無礼と思っただろう。
何時の間にか、姫は鞠を持って立ち上がっていた。顔を下げたままの蘢に一声掛けて、輿の方へと向かって行く。
「ありがとう、嬉しかったわ」
確かに、そう聞こえた。蘢の非礼に対し怒るでも機嫌を悪くするでもなく、小鳥が鳴くような声でたった一言、礼を言っていた。
輿に乗り、再び森の方へと去って行く少女たちを見送り、少年は息を吐く。大樹の傍らに投げ出した『剣』を拾って握り締めて一振りし、姫の消えた方向を直視する。
「必ず、為そう」
彼は呟く。『剣』を胸の前へと持って行き、主君の御前で誓いを立てる武士さながらに。
其れまで蘢は、家族や故郷を奪われたことへの憎しみ、恨み、悲しみゆえに、只々目的を追っていた。しかし此の時初めて、『復讐』が『夢』へと変わる切っ掛けを見出したのだ。誰よりも強い士に為り、茗を倒して国を救う。祖国のため、そしてあの姫君のために。
時の国主、甬帝の公主である蘭麗姫が、お忍びで兒加付近に来ているという噂を蘢が耳にしたのは、其れから数日後のことだった。
胡桃色の髪に透き通る水色の瞳を持つ、美姫と誉れ高い蘭麗姫。湖畔で出会った少女こそがそうであろうと、蘢は確信する。そして半年後、蘭麗姫は茗の珠帝に幽閉されてしまうことと為る。
一目見た瞬間から心惹かれた美しさ、清らかさは、長い間蘢に巣くっていた黒い感情を浄化してくれた。彼の心には何時も彼女が居り、聖なる女神の如く闇を照らした。何時か『夢』を叶えて堂々と姫の前に立てるよう、己を高め続けねばならないと決めさせた。
姫こそが、蘢にとっての紫蘭の君。『変わらぬ想い』を捧げ続ける、たった一人の夢境の姫君。
高貴過ぎる彼女の記憶には、蘢のことなど残っているはずも無いが、構わない。たとえ彼女が自分を見忘れていようとも『今は』構わない。
……青竜との戦いで深い傷を負った蘢が再び意識を取り戻したのは、碧雲楼に運び込まれてから二日後。目を覚ます直前に、彼は本当に久方振りに、蘭麗姫の御姿を夢に見た気がした。
※一里……約4km
※陸尺……輿を担ぐ人
※下様……下々




