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金色の螺旋  作者: 亜薇
第二章 蒼き獅子
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一.出立の日

 例えるならば、透き通る清らかな流水。あるいは春日はるひの下楚楚そそとして咲く一輪の花。民草に語られる聖安の姫君は、そんな存在であると聞いている。

 ある夜、麗蘭は彼の姫君の姿を垣間見た気がした。

 しかし其れは他愛のない夢。朝になり覚醒し、現の世界に舞い戻れば露と消える、儚い幻影に過ぎない。噂に聞く可憐な美貌はぼんやりとして、はっきりと見ることが出来ない。

 幻の姫は力弱き小鳥がさえずるように、其れでいて何処か悲痛な叫びを伴い訴えかける。

「あ……ね……え!」

 麗蘭は彼女の言葉を必死に聞き取ろうとするが、如何どうしても声を拾うことが出来ない。

 姫にもっと近付こうと手を伸ばしても、少しも距離が縮まらない。麗蘭の両足は石のように固く為り、前へ進むことを許さない。

――応えなければ。私は此処にいる。存在を示さねば。

 側に行くことが叶わぬなら、其の優しく美しい姿をはっきりと目に焼き付けられぬのなら、せめて此の声が届かぬものか?

 麗蘭は大きく息を吸い、口を開けようとする。だが不可思議なことに、全く声が出ない。喉の奥に詰まった何かが、自分に呼びかける姫への返答を許さない。

――確かに、姫はあちらにいる。私に何かを伝えようとして、懸命に声を振り絞っている。

 為す術もない自分が歯痒はがゆく、応えてやれない自分が情けない。逸る気持ちを如何にも出来ない。麗蘭は強く手握り唇を噛んで、眉をひそめた。

 するとやがて、唐突に、消え入りそうだった姫の声がしっかりと聴こえたのだ。

「来てはいけません、姉上」

 其れは今将に、姫を救う為出発しようとしている麗蘭に向けられた言葉。

「私に会いに来てはいけません」

 救いの手が要らぬのか、其れとも麗蘭を拒否しているのか、たった一言、二言だけでは判らない。只、麗蘭には姫の言葉が意外だった。

――何故? 私はこんなにもそなたに逢いたいというのに、そなたは違うのか?

 想いを伝えたい。自分と姫が姉妹だと聞いてから、彼女と逢いたいとどんなに願ったことか。顔も未だ見ぬ妹を救い出すと、どれ程強く決意したことか。

 そう思った瞬間、全てが目の前から消えた。朧げな姫の姿も声も、何もかも。

 麗蘭は其のまま其処に立ち尽くし、忽然と居なくなった妹の残像だけを見詰める。

――ああ、今日は出立の日だ。





「お早う、待たせて済まない」

 麗蘭は支度を終え、前室で待たせていた蘢に声を掛ける。彼は立ち上がり、にっこり微笑んで首を横に振った。

「お早う、そんなに待ってないよ。僕の方こそ、急がせてしまったのならごめんね」

 お互いに向かい合って席につく。明祥の用意した茶を飲みながら、蘢が話し出した。

「先刻明祥殿に聞いたけど、本当に毎日朝早くから稽古しているんだね」

 麗蘭が此の陽彩楼に住み始めて一月、彼女は毎朝欠かさず修練場での武術の訓練に励んでいる。

「弓と剣の型だけな。あんなに立派な場所を一人で使わせてもらい、なんだか悪い気がしているのだが……」

 相変わらず控え目な麗蘭の言動を、蘢は微笑ましく感じる。

「あそこを使えるのは皇族の方だけだ。皇族の方で、武芸をなさる方は今皆指揮官として皇宮の外におられるから、君くらいしか居ないんだよ。だから遠慮しなくていい」

 此処一ヶ月で、麗蘭は数名の皇族や瑛睡公をはじめとする軍の要人と会った。麗蘭出生の秘密を知る、恵帝が信頼を置く限られた者たちだ。彼らは皆、麗蘭の帰還を喜んでくれた。

 そうした者達との面会や日々の稽古に勤しむうちに、あっと言う間に一月が経ってしまっていた。

「出立は予定通り、今日の昼過ぎになるけれど、準備は出来てる?」

 麗蘭は頷く。茗に向け蘢と共に旅立つ日は、数週間前から決められていた。此の日の為に、明祥に手伝ってもらい支度を進めてきた。

 蘢は懐から地図を取り出し、広げて麗蘭に見せる。

「先ず港町随加へ行き船に乗る。其処から海路を行き茗に入り、帝都洛永に入る。残念ながら蘭麗姫の囚われている場所は未だはっきりしないのだけど、帝都内あるいは其の付近である可能性は高いだろう」

 指で道筋を示しながら説明する彼に、麗蘭が質問する。

「海路を行くのか。私はてっきり陸路で行くものと思っていた……海上で正体が知られるようなことがあれば、逃げ場が無く危険ではないか?」

 彼女の意見はもっともである。しかし、此れには蘢なりの考えが有った。

「其の通りなんだけど、今は陸路も危険なんだ。君も良く知っての通り妖が出るからね。近年は盗賊や人買いも出て治安も悪い」

 此処十年以上、旅人にとって妖は脅威。山や川だけでなく、街中にすら出没し人々を襲う。

 麗蘭が妖退治に秀でているとはいえ油断は禁物。妖の中には、あの妖王に近しい力を持つ強大なものも存在するのだから。

「そうだな……私は只でさえ、奴らに狙われやすい。船の方が時間的にも早いだろうし、妖の出現率もかなり低い」

 更に麗蘭には、此の旅に出ると決まった時から懸念していることがある。

「私たちが目的を達するまでに……開戦するということは有り得るのだろうか? 可能性が有るのならば、一刻も早く姫を助け出さねば……」

 此処一ヶ月都で生活することで、皇宮に引き篭もっている彼女の耳にも噂が幾らか入って来ている。軍は毎日のように恵帝との御前会議を行い、隊の編成、兵の配備や武器の調達に忙しく動いている。また庶民たちも、恵帝の優れた国政により大きな混乱は起きていないものの、自分たちの生活が再び脅かされることを恐れ不安を抱いている。

「知っての通り、一年程前に此方こちらの勅使が茗で斬られる事件があった。其れからというもの、我が国と茗は一触即発の状態にあり年々酷くなっている……今年に入ってから其れが更に顕著でね」

 蘭麗姫の犠牲により停戦・和平で落ち着いていた聖安と茗の関係が悪化したのは、あの勅使の事件以来。其れは麗蘭も知識として知っている。

「僕も……そして恵帝陛下も、例の黒巫女の出現が何か関係しているのではないかと睨んでいる。其のことを探る為にも、今回の任務は重要なんだ」

 珠帝が近くに置いているという謎の黒巫女の存在。邪の神を敵とする麗蘭にとっても気になるところだった。

「敵の懐に飛び込む。しかも君は、隠されているとはいえ帝位継承権を持つ皇女。敵に捕まれば只では済まないし、場合によっては祖国の未来が危ぶまれる。想像以上に過酷な旅になるだろう、でも……」

 一度息を吐き、麗蘭をしっかりと見て続ける。

「無事本懐を遂げられるよう……微力ながら、全力で君を支えるよ、麗蘭」

「ありがとう。宜しく頼む」

 慣れない環境で不安な麗蘭を心配してか、初めて会ってから一週間に一、二度、忙しい中時間を割いてこうして会いに来てくれる。彼の誠実で真っ直ぐな瞳が、とても心強かった。





 うまの刻頃、麗蘭は明祥と共に裏門へと向かう。孤校で暮らしていた時と同様の動きやすい服装で、刀を差し弓を背負った何時も通りの旅装である。

 門に着くと、蘢と見送りの恵帝が待っていた。

 蘢は宮中で着ている禁軍の軍服ではなく、地味な色の軽装で装備も剣だけという出で立ち。麗蘭と同じく身分を隠すつもりなのだろうが、質素な服を纏ってみても、生まれながらに持つ美しさが高貴さを覆い切れていない。

「母上、態態わざわざお出でくださり恐れ入ります」

 麗蘭が慌てて頭を下げると、恵帝は少しだけ困ったように微笑む。

「麗蘭、そんなに恐縮しないでくださいな。娘に過酷な旅を強いているというのに、見送りに来ないわけがないでしょう?」

「はい、ですが……」

 恵帝と麗蘭は、毎日とは言わないまでも週に数度は顔を合わせている。初めてできた母という存在に戸惑うと同時に、其の母がつい先日まで一生に一度会えるか会えないかの雲上人であった為に、何かしてもらう度に申し訳のない気持ちになってしまう。

「折角お会い出来たというのに、余り母らしいことをしてやれずに……其ればかりか、危険な任務をお願いしていることを、心苦しく思っています」

 自分より少しだけ背の高い麗蘭を見上げ、肩に軽く手を置くと、恵帝は済まなそうに言う。

――なんて、華奢な御方だろう。

 向かい合った母の姿はたおやかな花のようで、余りにもか細く見える。

「帰ってきたら、風友のもとで経験した素晴らしいお話を聞かせてください。楽しみにしていますよ」

 其の言葉を聞き、麗蘭ははっとする。母娘だというのに、一月も同じ場所で暮らしていたというのに、自分は未だ母のことを殆ど知らないのだということを。そして自分のことを、何も話せていないのだということを。

「勿論です。母上、どうかお元気で」

 麗蘭の言葉に頷くと、恵帝は蘢の方へと向き直る。

「蘢、重ねてのお願いになりますが……どうか麗蘭を頼みます。そして、蘭麗を……救い出してくださいませ」

 主君が臣下に命じているのではない。彼を信頼し、頼んでいるのだ。

「……畏まりました。此の命に代えましても陛下の為、我が祖国の為、麗蘭さまの御身をお守りし……必ずや任を果たす所存です」

 蘢は力強く首肯しゅこうし、はっきりと返事をする。彼の声に恐れや不安は無い。彼のこうした強さが、若くして上校という要職につき恵帝や瑛睡公にも一目置かれている所以ゆえんなのだろう。

「……麗蘭、くれぐれもお気を付けて。茗の者だけではなく、妖や……邪悪なる神々も貴女を狙っています。風友からの文にも、黒き神の復活による非天の増長が危惧されるとありました」

 非天……其れは、天帝に背く神や妖の総称。神巫女麗蘭が倒すべき人ならざる者達。十年近く前の黒神復活により結束し、邪悪な力を増しているという。

「承知しております。風友さまより授かった武の術で、決して屈しはしませぬ。ご安心ください」

 母の心労を少しでも減らす為、言い切る。心の内では黒神の脅威や瑠璃との決着、数年前に対峙した妖王との対立等、不安要素は幾らでも有ったが、其れらは全て自分自身で退けなければならぬこと。祖国を守る為に心身を削る母に、余計な心配を掛けたくはない。

「では、行って参ります」

 麗蘭が頭を下げ母に挨拶すると、明祥が門番に命じて門を開けさせた。

「行ってらっしゃいませ。外側に馬のご用意も出来ています」

「ありがとう、明祥」

 蘢を伴い、麗蘭は門の外へと出て行く。後ろ姿を見送り、恵帝は只幾度も祈るしかない。心の奥底で、何度も何度も謝罪の言葉を紡ぎながら。

――麗蘭、わたくしは貴女や貴女の妹を苦しめながら、今また貴女の命を危険に晒しているのです……

 扉が閉められてゆき、見えなくなってゆく麗蘭の姿。少しでも其の目に焼き付けようと、彼女は決して目を逸らさない。

――けれど此の任は貴女の糧となり、貴女が皇女として……そして光龍としての宿を果たす一助となるはず。そう信じているが故に、わたくしは貴女に託すのです。

 大きな鉄の門は重く閉ざされ、麗蘭と恵帝を再び隔てる。

「どうか、ご無事で」

 門の閉まる音で、恵帝の声が掻き消される。一人の母として娘を思う、彼女の心からの声を聞いた者は、居なかった。

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