紫黒暗香
「茗」
大陸に在る六ツ国の中で、最高の繁栄を誇り続けている帝国。
彼の女は、為るべくして此の国の主と為った女帝だった。
此処は、露台から差し込む明るい月に照らされた一室。皇宮の最上階に在る、王たる彼女のための室である。
女は床に片膝をついて跪き、頭を下げて告白した。
「手に入れたいのです。狂おしい程に」
此れまで、欲しいものは何でも手にしてきた。富、美貌、力、名誉、愛……そして王座さえも。
されど、彼女が本当の意味で満たされたと感じたことは無かった。其の理由は至極簡単で、本当に望むもの――喉から手が出る程に欲するものを、未だ手に入れていないことに有った。
彼女は心の何処かで、其れが一体何なのかを見付けていた。しかし、口にすることは無かった。実際に手に入れようと動いたことも無かった。
「貴方がお出でになり……妾の夢は現実に形を為そうとしている。貴方のお力添えが有れば、必ずやあれを手中に出来ましょう」
そう言って、朱色の瞳の女が手を伸ばす。うっとりと夢見るように……其れでいて、眼の奥に野望の炎を秘めて。
かつて、そして今も、彼女の美々しさは人界中で褒めそやされた。隣国の『聖安』の女帝と並び、天下一の美女と謳われた。燃えるような朱色の瞳に、薄褐色の滑らかな肌、薄紅色の艶やかな髪の素晴らしさは、女盛りを迎えて久しい今も衰えていない。
――女の指が示す先には、長い黒髪の若い男が居た。
一見しただけでは、男と判らない者も居るかもしれぬ。其の男の容貌は、彼に相対している麗しい女よりも更に、遙かに美しかった。
其れは当然というもの。彼は人ではなく、人間を超越した大いなる存在なのだから。
「そなたもあれを欲するか。人間が手に出来る全てのものを得ても尚、欲しいと思う……強欲な女だ」
僅かに口角を上げ、優美な口元で薄らと笑う。
「だが無理もない。あの鳥だけは特別なのだからな」
男は、流れる女の髪に指を絡ませ弄ぶ。
女は、遙かなる存在を目前にしても臆すること無く、瞳の焔を絶やさない。
「神々すらもあれを望み、未だかつて手にしたものは皆無。あれを欲するなら、そなたは全てを賭けねばならない。其の覚悟が、有るか?」
静かに微笑みながら、女を試すように言う。女は頭を垂れると、再び男を見上げて言い放った。
「何かを手にするのに、何かを賭けなかったことなど有りませぬ。妾は常に、此の命すら惜しまぬ。此度は他でもないあれが目的。命すら、あれの対価としては安過ぎる」
其の答えに、男は深々と頷いた。
「ならば手にするが良い。私は惜しみ無く、力を与えよう」
見た者の心を奪う、男の甘美なる微笑が闇夜に浮き彫りに為る。
此処から、全ては始まるのだ。