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世界の綻び

10:なにげないボールペン

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

私は、困っている人を見かけると、つい足を止めてしまう。

道に迷っている人がいれば声をかけるし、落とし物を見つけたら届ける。友達が忘れ物をして困っていれば、できる範囲で手伝う。

もちろん、いつもいいことばかりではない。

頼まれごとを断れず、自分の予定がずれてしまうこともある。親切にしたつもりなのに、余計なお世話だったかな、と後悔することもあった。

それでも、目の前で誰かが困っているのに、何もせずに通り過ぎるのは苦手だった。

「紗月って、ほんとお人よしだよね」

友達にそう言われることもある。

自分でも、そうなのかもしれないと思う。

けれど、誰かが困っているとき、少し手を貸すだけでその人が安心できるなら、それでいいと思っていた。

その日も、学校からの帰り道だった。

駅前の通りを歩いていると、少し先で、ばさばさと紙が舞い上がった。

見ると、一人の男性が歩道にしゃがみ込み、散らばった紙を拾い集めていた。手に持っていた書類の束が、風にあおられて飛んでしまったらしい。

男性は慌てて手を伸ばしていたが、紙は歩道の端まで飛んでいく。通りを歩く人たちは、それを避けながら通り過ぎていった。

急いでいる人もいるだろうし、何が起きたのか気づかなかった人もいるのだろう。

私は、少しだけ足を速めた。

「あの、大丈夫ですか?」

男性が顔を上げる。

「ああ、すみません。ちょっと散らばってしまって」

「私も拾いますね」

私は、植え込みのそばまで飛んでいった紙を追いかけた。男性も反対側へ回り、二人で一枚ずつ拾い集めていく。

風がまた吹くたびに、紙の端がふわりと揺れた。私はそれを押さえながら、道路に出てしまいそうな一枚を拾い上げた。

ようやく、すべての紙を集め終えた。

「全部ありそうですか?」

私が尋ねると、男性は手元の束を一枚ずつ確かめた。

「ああ、大丈夫そうです。本当にありがとう」

男性は、ほっとしたように息をついた。

「一人だったら、もっと時間がかかっていたよ。助かった」

「よかったです」

私は笑った。

それだけのことだった。

けれど、男性は少し考えたあと、上着のポケットから一本のボールペンを取り出した。

「大したお礼もできないけれど、これをもらってくれませんか」

「えっ、そんな。お礼なんていいですよ」

「いや、助けてもらったんだからね。何本か持っているし、使ってもらえたら嬉しいよ」

そう言って、男性は私にボールペンを差し出した。

それは、どこにでもありそうな、ごく普通の黒いボールペンだった。

透明な軸の中に黒いインクが入っていて、キャップには細かな傷がついている。高そうにも見えないし、特別な飾りがあるわけでもない。

「じゃあ……ありがとうございます」

断り続けるのも悪い気がして、私は受け取った。

「大切に使いますね」

男性は、穏やかに笑った。

「うん。使ってくれたら、嬉しいよ」

私はもう一度お礼を言い、その場を離れた。

そのときは、まだ知らなかった。

その何気ないボールペンが、私の日常をほんの少しだけ変えていくことを。


翌日の授業は、退屈だった。

黒板には難しそうな文字が並び、先生の声が教室に淡々と響いている。大切な話なのは分かっている。でも、同じような説明がずっと続き、私は何度も時計を見てしまった。

「あ〜あ……せっかくなら、好きなアニメの話で盛り上がればいいのに……」

小声で呟いて、ため息をつく。

もちろん、そんなことが起きるわけがない。

私は、昨日もらったボールペンを指先で回した。書きやすいわけでも、特別に書きにくいわけでもない。普通のボールペンだ。

ノートを取るついでに、私はその隅へ、何気なく一文を書き込んだ。

『今日の授業は、好きなアニメの話で盛り上がる』

ただの落書きだった。

書き終えたところで、先生が教科書を閉じた。

「そういえば、今説明したこの町並みなんだけど、ある有名なアニメの舞台のモデルになったと言われているんだよ」

私は、顔を上げた。

「知っている人もいると思うけど、あの作品の舞台になった場所は、実際に訪れてみると作中の風景によく似ているそうだ」

それは、私が大好きなアニメだった。

先生は、意外にもその作品について詳しく知っていた。制作の背景や舞台になった場所の話まで始まり、クラスの何人かも興味を持って質問をしている。

いつもの授業ではほとんど発言しない子まで話に加わり、気づけば教室はにぎやかになっていた。

私は、夢中で話を聞いた。

授業が終わる頃には、あっという間に時間が過ぎていた。

「今日は面白かったね」

隣の席の友達が言った。

「うん!」

私は笑った。

ノートの隅に書いた言葉のことは、すっかり忘れていた。


数日後、私は学校帰りに公園の前を通りかかった。

小さな男の子が、植え込みのそばで泣いていた。

気になって近づくと、男の子は涙を拭きながら、飼い猫がいなくなってしまったと話してくれた。

茶色と白の毛が混じった猫で、名前はトトというらしい。

「少し前まで一緒に遊んでいたのに、いなくなっちゃったんだ……」

男の子の目には、また涙が浮かんでいた。

「そっか。心配だね。どんな猫なの?」

「茶色と白でね、しっぽの先が白いんだよ」

「そうなんだ。ちょっと描いてみようか」

私は鞄からノートとボールペンを取り出し、ノートの隅に猫の絵を描いてみた。

「こんな感じ?」

「ううん、もっと耳が小さいよ」

「そっか。じゃあ、こんな感じかな?」

描き直すと、男の子は少しだけ笑った。

「うん! トト、こんな感じ!」

私は、ほっとした。

「トト、私も探すね。見つかったら連絡するから、おうちの人の電話番号、分かる?」

男の子はうなずき、母親の電話番号を教えてくれた。私は忘れないように、猫の絵のそばに書き留めた。

「きっと見つかるよ。早く見つかるといいね」

そう言いながら、私はノートに、見つかったときの連絡についても書いておこうと思った。

『トトがすぐ見つかった』

そこまで書いた、そのときだった。

「ニャー」

すぐ近くで、小さな鳴き声がした。

男の子が、ぱっと顔を上げる。

「トト?」

植え込みの奥から、茶色と白の猫が顔を出した。

「トト!」

男の子が駆け寄ると、猫はするりと植え込みから出てきて、足元に身体をすり寄せた。

「よかったあ……!」

男の子は猫を抱き上げ、嬉しそうに笑った。

私も、胸をなで下ろした。

本当によかった。

でも、ふと、ノートに書いた言葉が頭に浮かんだ。

『トトがすぐ見つかった』

偶然だろうか。

もちろん、猫は近くに隠れていたのかもしれない。私たちが探している間に出てきただけかもしれない。

そう思いながらも、私は手にしたボールペンを見つめた。

透明な軸の中では、黒いインクが揺れていた。

その夜、私は少しだけ試してみることにした。

机に向かい、ノートを開く。

『明日、いいことがありますように』

書き終えてから、私は何かいいことが起きるかもしれないと、いつもより少しだけ期待した。

翌日は、学校へ行くときも、友達と話しているときも、いつもより周りを気にして過ごした。

けれど、一日が終わっても、特別なことは何も起こらなかった。

「やっぱり、あのときは偶然だったのかな……」

私は少しがっかりした。

それでも、ボールペンは捨てずに使っていた。


ある日の放課後、私は自分の携帯電話が見当

たらないことに気づいた。

教室の机の中を探し、鞄のポケットを確かめ、廊下まで戻ってみた。それでも見つからない。

友達にも一緒に探してもらったが、どこにもなかった。

「どうしよう……。さっきまで持っていたはずなのに」

「もし見つからなかったら、家の電話に連絡してもらえばいいんじゃない?」

友達に言われ、私はうなずいた。

「そうだね。家に電話してもらえるように、番号を書いておくよ」

私はノートを開き、家の電話番号を書こうとボールペンを走らせた。

『携帯電話を見つけたら、この番号に電話して』

そう書くつもりだった。

まず、『携帯電話を見つけた』まで書いたところで、友達が声を上げた。

「あれ? 紗月、それじゃない?」

友達が指さした先、机と壁の隙間に、私の携帯電話が挟まっていた。

「えっ、いつからそこに……?」

私は慌てて携帯電話を取り出した。

確かに、私のものだった。

ほっとして顔を上げかけたとき、ふと、ノートに目が留まった。

『携帯電話を見つけた』

その文字は、ついさっき自分が書いたものだった。

私は、手にした携帯電話とノートを交互に見つめた。

……偶然だよね?

そう思いながらも、私はボールペンを見つめた。


家に帰ってから、私はノートを何度も読み返した。

『今日の授業は、好きなアニメの話で盛り上がる』

『トトがすぐ見つかった』

『携帯電話を見つけた』

どれも、書いたことがそのまま現実になっていた。

でも、『明日、いいことがありますように』と書いたときは、何も起こらなかった。

私は、ボールペンを手に取った。

普通のペンに見える。何か特別な仕掛けがあるわけでもない。振ってみても、何も起こらない。

けれど、もし本当に、このペンに不思議な力があるのだとしたら。

私は、ノートの隅に小さく書いた。

『明日は、友達とおすすめの紅茶を飲んだ』

翌日、友達と喫茶店へ行く約束があった。

私たちは、いつも同じ紅茶ばかり頼んでいた。たまには違うものを飲もうと話していたけれど、まだ決めていなかった。

放課後、喫茶店で待ち合わせをすると、友達が少し遅れてやってきた。

「ごめんね、遅くなっちゃった!」

「ううん、大丈夫だよ」

友達は席に着くなり笑った。

「ねえ、今日おすすめの紅茶にしない? 店員さんに聞いたら、すごくおいしいんだって!」

私は、思わず友達の顔を見た。

「……うん。そうしよう!」

二人で同じ紅茶を注文した。

湯気の立つカップからは、甘い香りが漂っていた。ひと口飲むと、口の中に優しい味が広がった。

「おいしいね」

「ね!」

私は、笑いながらカップを持ち上げた。

そして、帰宅してすぐにノートを開いた。

『明日は、友達とおすすめの紅茶を飲んだ』

私は、その一文をじっと見つめた。

やっぱり、このペンはおかしい。

でも、何がどうなっているのだろう。

お願いするように書くと叶わない。けれど、まるですでに起きたことのように書くと、現実がその文章に追いついてくる。

そういうことなのだろうか。

私は、ペンの透明な軸を眺めた。

インクは、少しずつ減っていた。

考えてみれば、学校のノートもこのペンで取っているし、宿題もこれで書いている。特別なペンというわけではないのだから、インクが減るのは当然だった。

ただ、これまで何度も使ってきたはずなのに、こんなふうにインクの残りが気になったことはなかった。

私は、ペンを大切にしまった。

これからは、むやみに使わないほうがいいかもしれない。

せっかく不思議な力があるのなら、もっと必要なときに使いたい。

そう思った。

それから、私はペンを使うたびに、少し考えるようになった。

授業が退屈だからといって、何でも願いを書けばいいわけではない。ちょっとした楽しみのために使うこともあったけれど、本当に困っている人を見かけたときには、自然とペンを取り出していた。

ある日、教室で友達が大切なプリントをなくして困っていた。

「どうしよう。明日、提出なのに……」

その子は、机の中も鞄の中も何度も探していた。

私は一緒に探しながら、ノートの隅に書いた。

『なくしたプリントが見つかった』

すると、友達が自分の教科書を開いたとき、その間に挟まっていたプリントがひらりと落ちてきた。

「あった!」

友達は、ほっとした顔で笑った。

「よかったね」

私はそう言って、何でもないふりをした。

本当は、不思議でたまらなかった。

ペンの力は、やっぱり本物なのだ。

そして、何度か使ううちに、私はもうひとつ気づいた。

ペンに書く言葉は、ただのお願いでは駄目なのだ。

『見つかりますように』ではなく、『見つかった』。

『楽しくなりますように』ではなく、『楽しかった』。

まるで、すでに起きたことを、ただノートに記録するように書くと、現実があとから追いついてくる。

何とも不思議な話だった。

けれど、その力は、何でも自由に叶えてくれるわけではないような気もした。

大きな願いを書くのは、少し怖かった。

だから、私は小さなことにしか使わなかった。

友達の落とし物が見つかった。

楽しみにしていた授業が、思ったよりも面白かった。

食べたいと思っていたパンを、帰り道の店で買えた。

そんな、ちょっと嬉しい出来事ばかりだった。

ペンを使い始めてから、何週間かが過ぎた。

私は、授業のノートを取るたびに、透明な軸の中のインクが少しずつ減っていくのを見ていた。

魔法を使うから減るのではない。普通のボールペンと同じように、書いた分だけ減っているのだ。

それでも、残りが少なくなると、少し寂しい気持ちになった。

このペンが使えなくなったら、もう不思議な出来事は起こらないのだろうか。

そんなことを考えながら、私はいつもどおり学校へ通い、いつもどおりの毎日を過ごしていた。


ある日の帰り道、私は商店街の端で、見覚えのある男性を見かけた。

あのとき、散らばった紙を一緒に拾った人だった。

男性は、ベンチに腰かけ、手元の紙を見つめていた。以前会ったときよりも、ずいぶん疲れているように見えた。上着は色あせ、持っている鞄も擦り切れている。

何かあったのだろうか。

私は、少し迷った。

事情も分からないのに、急に声をかけたら驚かせてしまうかもしれない。

けれど、あのときペンをくれた人だ。お礼を言いたいと思っていたし、何より、元気がなさそうなのが気になった。

私は、そっと近づいた。

「あの……以前、ここで紙を拾うのを手伝ったこと、覚えていますか?」

男性は顔を上げ、私を見た。

「ああ……あのときの」

少し驚いたように笑った。

「もちろん覚えているよ。あのときは、本当に助かった」

「よかった。あのときいただいたボールペン、ずっと使っているんです」

私は、鞄からそのペンを取り出した。

「このペンのおかげで、毎日ちょっと楽しいことがありました。本当に、ありがとうございました」

男性は、私の手元にあるボールペンを見つめた。

「そんなに大切に使ってくれていたんだね」

「はい」

私は笑った。

「もう、インクがほとんど残っていないんですけど……」

そう言いながら、私は透明な軸を確かめた。

黒いインクは、もうわずかしか残っていなかった。

私は、何かできることはないだろうかと思った。

この人が何に困っているのか、私には分からない。どんな願いを持っているのかも知らない。

それでも、何かいいことがあればいいと思った。

「ちょっと待っていてください」

私は鞄からノートを取り出し、最後のページを一枚ちぎった。

そして、ボールペンを持ち、しばらく考えてから書いた。

『この人が心から願っていたことが、ひとつ叶った』

書き終えた瞬間、ペン先からインクが出なくなった。

私は、何度か紙の端に線を引いてみた。

もう、何も書けなかった。

空になったペンを見つめると、少しだけ寂しかった。

でも、後悔はなかった。

私は、書いた紙を小さく折り、男性に差し出した。

「これ、よかったら受け取ってください」

男性は不思議そうに紙を受け取った。

「これは?」

「お礼です」

私は笑った。

「このペンのおかげで、とても素敵な日が過ごせました」

男性は、折りたたまれた紙をそっと開いた。

書かれた言葉を読んで、少しのあいだ黙っていた。

そのとき、男性のポケットで携帯電話が鳴った。

「ああ、すみません」

男性は電話に出た。

「はい……もしもし」

最初は、いつものように落ち着いた声だった。

けれど、相手の話を聞くうちに、男性の表情が変わった。

「……え?」

男性は、もう一度聞き返した。

「本当ですか?」

しばらく話を聞いたあと、男性は目を閉じ、深く息を吐いた。

「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」

電話を切った男性の顔には、さっきまでなかった笑みが浮かんでいた。

私は、何があったのか尋ねなかった。

ただ、よかった、と思った。

男性は、手に持った紙をもう一度見つめた。そして、ゆっくりと私に目を向けた。

「ありがとう」

今度の声は、さっきよりもずっと明るかった。

私は、笑顔でうなずいた。

「はい」

それ以上、何も言わなかった。

私は空になったボールペンを鞄にしまい、男性にもう一度お礼を伝えて、その場を離れた。

夕方の商店街には、いつものように人が行き交っていた。

パン屋からは、焼きたてのパンの香りが流れてくる。自転車のベルが聞こえ、遠くでは子どもたちの笑い声がした。

何も変わらない、いつもの帰り道だった。

けれど、私の気持ちは少しだけ軽くなっていた。

このペンは、もう何も書けない。

透明な軸の中には、空っぽの芯が残っているだけだ。

それでも、私は捨てるつもりはなかった。

このペンのおかげで、授業が楽しくなったり、探し物が見つかったり、誰かの笑顔を見ることができたりした。

魔法なんてなくても、きっと、毎日の中には小さな嬉しいことがたくさんある。

ただ、私はそれに気づいていなかっただけなのかもしれない。

私は、空っぽのボールペンを筆箱にしまった。

明日も、何かいいことがあるだろうか。

そう考えると、少しだけ楽しみになった。

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