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「が、学園は大丈夫なんよね!?」
まふゆは震える声で叫んだ。
この学園都市自体が結界で守られているのなら、学園本体はさらに強力な結界で守られているはずだ。
そうじゃなければ、こんなにあっさりと侵入を許してしまうはずがない。そう自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は一向に静まってくれない。
「ああ、学園の結界は都市のものとは比べ物にならない強度だ。そう簡単には破れないはずだ……だが……」
レオンハルトが歯噛みする。彼の視線は、セリウスと同じく窓の外、南東の方角へと向けられていた。
そのレオンハルトの視線を追って、まふゆも恐る恐る窓の外に目をやった。
教室の窓から見えるのは、いつもと変わらない穏やかな学園の風景……ではなかった。
遥か南東の空。青く澄み渡っていたはずのそこに、不気味な黒い渦のようなものがもやもやと広がっているのが見えた。
そして、その中心から、何か巨大なものがゆっくりと姿を現しつつあった。
ズウウウゥゥン……
まるで地響きのような、重く低い咆哮が空気を震わせ、教室の窓ガラスをビリビリと揺らす。
それは、まふゆが今まで一度も感じたことのない、禍々しく、圧倒的な存在感を放っていた。
ゴブリンやホブゴブリンなどとは比較にすらならない、純粋な破壊と悪意の塊。
「……ドラゴン……!?」
誰かが絶望的な声で呟いた。
その言葉を肯定するかのように、黒い渦から現れたのは、まさしく伝説上の生き物だった。
爬虫類を思わせる硬質な鱗に覆われた巨大な体躯。蝙蝠のような巨大な翼。そして、天を突くほどの長い首の先には、貪欲な光を宿した瞳を持つ頭があった。
全身が不気味な紫色の鱗で覆われた、まごうことなきドラゴン。
「馬鹿な……!なぜこんな場所にドラゴンが……!?アレは、もっと辺境の地にしか生息していないはずじゃ……!」
セリウスが信じられないといった様子で声を震わせる。
「……違う。アレは普通のドラゴンじゃない。全身から感じる魔力が異常だ。……まるで、邪悪な何かで無理やり汚染されたような……」
ミカゲが、今までで一番険しい声で低く呟いた。彼の目は、まるで獲物を前にした狩人のように、鋭く、冷たく細められている。
(邪悪な何か……?まさか、これも、白檻会の……!?)
まふゆの脳裏に、再びエドウィンの顔が浮かぶ。
もし、あのドラゴンが白檻会によって意図的に呼び出されたものだとしたら?その目的は?
考えたくもない最悪のシナリオが、頭の中を駆け巡る。
「くそっ、とにかく先生の指示を待つしかないか!」
レオンハルトが叫び、腰の剣をいつでも抜けるように構え直す。
……結界の外では、異形の影がうごめいていた。ゴブリンやオークといった低級の魔物たち。
だが、その目は一様に不気味な紫色の光を宿し、明らかに普段の彼らとは違っていた。
そして、その群れの後方には、ひときわ巨大な影──汚染竜が佇んでいる。
「総員、戦闘準備!」
「教師は生徒を大講堂へ誘導しろ!」
廊下から、教官たちの怒号が飛び交い始めた。
平和だった学園は、一瞬にして戦場へと変わろうとしていた。
「全員、落ち着いて大講堂へ向かえ!走るな、押すな!」
教師の叫び声も、パニックに陥った生徒たちの耳にはほとんど届いていない。
けたたましい警報の音、遠くから響く地響き、そして結界がきしむ不気味な音。それらが恐怖を煽り、生徒たちは我先にと教室の出口へ殺到した。
「きゃっ!」
「押さないで!」
その人の波は、巨大な濁流のようだ。
まふゆを守るように固まっていたレオンハルト、セリウス、ミカゲの陣形も、無慈悲な群衆の力によって無残に引き剥がされていく。
「くそっ、まふゆ!手を離すな!」
レオンハルトはまふゆの手を掴もうとしたが、横からなだれ込んできた別の生徒に阻まれ、人波に押されて前へと流されてしまう。
彼は必死に振り返るが、次から次へと押し寄せる生徒の壁に、まふゆの姿が見えなくなっていく。
「まふゆ!セリウス、ミカゲ!彼女を頼む!」
その声は届いているのか、いないのか。彼は歯噛みしながらも、まずはこの混乱を収拾しようと前方の生徒を誘導し始めるしかなかった。
「まふゆ!こっちだ!」
セリウスはまふゆのすぐそばにいたが、足をもつれさせて転んだ生徒に気を取られた一瞬の隙に、まふゆとの間に人垣ができてしまった。
「待って、行かないで!僕のそばに……!」
手を伸ばすが、その手は虚しく空を切る。
彼は群衆の流れに逆らおうとするが、パニック状態の人間たちの力に抗うことは難しい。焦燥に顔を歪ませながら、必死にまふゆの姿を探した。
「……チッ」
ミカゲは舌打ちを一つすると、影に溶け込もうとした。しかし、密集した人の熱気と恐怖という強い感情が、彼の集中をわずかに乱す。
その一瞬、彼は見た。まふゆが人波のまったく逆方向、人の流れが途切れた反対側の廊下へと押しやられていくのを。
他の二人とはぐれ、たった一人で。
ミカゲの黒い瞳が、鋭く細められる。彼は他の生徒を突き飛ばすことも厭わず、最短距離でまふゆの後を追うことを決めた。
そして、まふゆ。
彼女はなすすべもなく、人の波に翻弄されていた。
「レオンハルトさん…!セリウスさん…!」
呼びかける声は、周囲の悲鳴にかき消される。誰かの腕がぶつかり、足を踏まれ、息が苦しい。ただ流されるまま、為す術もなく押しやられていく。
……気づけば、周りには誰もいなくなっていた。
大講堂へ向かう人々の喧騒が嘘のように遠のき、静まり返った別の廊下に、まふゆは一人でぽつんと立ち尽くしていた。
遠くで響く警報の音と、時折学園を揺るがす衝撃音だけが、この異常事態が続いていることを告げている。
たった一人、取り残されてしまった。
その事実に、まふゆの心臓は恐怖と不安に大きく脈打つのだった。
「……うそ……なんで、こっちに……?」
自分のいる場所が、大講堂とは逆方向であることを理解し、血の気が引いていく。
どうしよう。戻らないと。みんなのところへ行かないと。
そう思うのに、恐怖で足が縫い付けられたように動かなかった。
(みんな、どこにおるの……?怖い……誰か……)
不安に押し潰されそうになりながら、まふゆはただ立ち尽くすことしかできなかった。




