18-14
アリスの瞳は、もはや恐怖に濡れてはいなかった。そこにあるのは、凍てつくような静寂と、底知れぬほどの深淵。
彼女は自らを庇い、限界を超えて戦うアルビノエルフの背中を、そしてその向こうで圧倒的な質量をもって存在する巨大な悪意を、ただ静かに見つめていた。
震えていた小さな手が、ゆっくりと動く。
その手は、いつかの昇級試験の時のように、ひとつの武器を握りしめていた。
──魔法銃。
まふゆが昇級祝いに贈ったスケッチブックよりも前から、アリスが唯一「自分のもの」として持っていた、黒鉄の銃。
彼女は、銃口をゆっくりと持ち上げる。
その狙いは、目の前の巨大な障壁でも、仲間たちでもない。
障壁の向こう側、深海棲艦の巨大な本体。その中心で、禍々しい魔力を放つ一点。
(まふゆが、壊れる)
その単純な事実が、彼女の思考の全てを支配した。
それだけは、あってはならない。
それだけは、許してはならない。
アリスは魔法銃を両手で強く握りしめ、その小さな体に、信じられないほどの量の魔力を集め始めた。
「──邪魔」
ゴウッ、と。
全ての音を呑み込むような、魔力の奔流が生まれた。
まふゆのすぐ背後で、アリスが構える魔法銃の先端に、光さえ喰らう漆黒の球体が形成されていく。
それはまるで、夜空に生まれた小さなブラックホール。水中の光も、音も、全てがその一点に吸い込まれていくようだった。
「アリス……さん……?」
まふゆのかすれた声は、もはや誰にも届かない。
アリスの薄青い瞳は、ただ冷徹に、障壁の向こうにいる巨大な敵の核を見据えている。
「あれは……なんだ……!?」
聖域の内側で、レオンハルトが愕然と目を見開く。アリスから放たれる魔力の奔流は、自分たちのそれとは次元が違った。
「危険すぎる……!あの魔力、アリスの体がもたない!」
セリウスが叫ぶ。その言葉通り、アリスの小さな体は魔力の奔流に耐えきれず、肌の至る所から血が滲み、ひび割れていく。
しかし、アリス自身は痛みすら感じていないかのように、ただ静かに、引き金に指をかけようとしていた。
その瞬間だった。
「──待て」
音もなくアリスの隣に現れたミカゲが、その小さな肩を掴んだ。
しかし、アリスは振り向かない。その視線は、ただ敵の核だけを捉えて離さない。
「その力を使えば、お前が壊れる」
ミカゲの言葉は、水の抵抗をものともせず、アリスの意識に直接届く。
それでも、アリスの意志は揺るがない。まふゆを救うためなら、自分がどうなろうと構わない。それが、彼女の中に生まれた最初の、そして唯一の願いだった。
アリスが引き金に力を込める。
それを見たミカゲは、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、遠い昔の誰かを思い出すかのように目を細めた。そして、彼は決断する。
ミカゲはアリスの肩を掴んだまま、彼女の耳元で静かに、しかしはっきりと告げた。
「──壊させはしない。あんたも、まふゆも」
その言葉と同時に、ミカゲは自分の空いている左の手のひらを、魔法銃の銃身にそっと重ねた。
「俺の魔力も使え。制御しろ」
ミカゲの体から、影と闇に親和した、冷たく研ぎ澄まされた魔力が流れ込む。それは、アリスの暴走する魔力の奔流とは正反対の、静かで制御された力。
二つの相反する魔力が、魔法銃の上で混じり合う。アリスの破壊的な魔力が、ミカゲの制御された魔力によって指向性を与えられ、一本の純粋な破壊の槍へと収束していく。
「今だ。──撃て」
ミカゲの号令。
アリスは、こくりと頷いた。
そして、小さな指が、静かに引き金を引いた。
放たれたのは、音すらなかった。
漆黒の光線が、聖域の亀裂を寸分違わず通り抜け、水という媒体の抵抗すら完全に無視して、深海棲艦の巨大な核へと突き刺さる。
時が、止まった。
巨大な鋏が動きを止め、禍々しい魔力の気配が霧散していく。
深海棲艦の巨大な体は、内側から光を放つと、まるで砂の城が崩れるように、音もなく塵となって海水に溶けて消えていった。
……後に残ったのは、静寂だけだった。
聖域が光の粒子となって消え、まふゆは糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「まふゆ!」
レオンハルトとセリウスが駆け寄り、意識を失った彼女の体を支える。
そして、アリスもまた、全ての力を使い果たし、ミカゲの腕の中で静かに気を失っていた。その小さな体は、ミカゲの魔力による保護がなければ、自らの力で塵と化していただろう。
ミカゲは気を失ったアリスを抱え、その顔に表情はなかったが、ただ静かに、崩れ落ちたまふゆの姿を見つめていた。
臨海学校の特別授業は、誰もが予想しえなかった形で、幕を閉じた。
第十八話・了




