2-5
「……う、」
ミカゲが指し示した薄暗い区画へ一歩足を踏み入れた瞬間、まふゆの全身にぞわりと鳥肌が立った。
それは、教室でエドウィン先生の視線を受けた時とはまた違う、もっと根源的で、古く、そして冷たい何か。
まるで、見えない何かにじっと見つめられているような、抗いがたい圧迫感。
得体の知れない恐怖に、まふゆの足は縫い付けられたようにぴたりと止まってしまった。
「……どうした、まふゆ」
一番にその変化に気づいたのは、すぐ後ろを歩いていたミカゲだった。
彼の低い声が、耳元で響く。
「な、なんやろ……ここ、何か……」
言葉がうまく出てこない。指先が冷え、呼吸が浅くなるのを感じる。
「顔色が悪いぞ、大丈夫か?」
異変に気づいたレオンハルトが、心配そうに振り返る。セリウスも眉をひそめて、まふゆの様子を窺っていた。
「大丈夫……やと思うんやけど……なんだか、胸がざわざわして……」
まふゆがそう答えるのが精一杯だった。この感覚は、アルビノエルフとしての本能が何かを危険だと告げているのかもしれない。
すると、すっ、とミカゲがまふゆの前に立ち、まるで壁になるかのように彼女を背後にかばった。
彼の黒い装束が、薄暗い図書館の中でより一層深い闇色に見える。
「……あんたは、俺の後ろにいろ」
命令に近い、けれど拒絶を許さない強い響き。
ミカゲはそのまま、澱んだ魔力が漂う区画へと、一歩、また一歩と慎重に足を進めていく。
彼の背中が、まふゆに向けられる得体の知れないプレッシャーを遮断してくれているかのように、少しだけ息がしやすくなった。
「……ミカゲさん……」
その広く、静かな背中を見つめながら、まふゆは小さく彼の名を呼んだ。
他の三人も、ミカゲの行動とこの場の異様な雰囲気を察し、自然と警戒態勢をとる。レオンハルトは剣の柄に手をかけ、セリウスはいつでも魔術を放てるように神経を集中させていた。
恐怖はまだ消えない。けれど、今は自分を守ろうとしてくれる仲間たちがいる。
まふゆはぎゅっと拳を握りしめ、ミカゲの大きな背中を追って、震える足で再び歩き出した。
その背中は、驚くほど広く感じられる。
黒い装束が周囲の薄闇に溶け込み、まるで彼自身が影になったかのようだ。
一歩、また一歩と慎重に進む彼の後を、まふゆは必死でついていく。
けれど、先に進めば進むほど、肌を刺すような冷たいプレッシャーは強くなっていく気がした。見えない何かがすぐそばにいるような感覚に、心臓がどきどきと音を立てる。
(怖い……なんやろ、これ……)
不安と恐怖で、思わず目の前の黒い装束に手を伸ばしかけて、はっとする。
いくら怖いからといって、いきなり男性の服を掴むなんて……。
まふゆは一度手を引っ込めたが、再びぞわりと背筋を駆け上がった悪寒に、ついに耐えきれなくなった。
「……あ、あの、ミカゲさん……」
震える声で、前を歩く背中に呼びかける。
ミカゲはぴたりと足を止め、振り向かずに「……なんだ」と低い声で応えた。
その声に少しだけ勇気をもらって、まふゆは意を決して、恥ずかしさを押し殺しながら懇願した。
「ちょっと、服、握ってても、ええ……?暗いの、怖くて……」
か細い、蚊の鳴くような声になってしまった。
我ながら情けないお願いだとは思う。でも、そうせずにはいられなかった。
何かに縋っていないと、この得体の知れない恐怖に心が押し潰されてしまいそうだった。
沈黙が落ちる。
断られるかもしれない。呆れられるかもしれない。
まふゆが後悔し始めた、その時。
「……好きにしろ」
短く、ぶっきらぼうな許可が返ってきた。
その声に安堵して、まふゆはおずおずと手を伸ばし、ミカゲの装束の裾を、指先できゅっと握りしめた。
硬質な布の感触が、震える指先に伝わる。
不思議なことに、彼の服に触れているだけで、さっきまでの心細さが少しだけ和らぐような気がした。
「……ありがとう、ございます……」
小さな声でお礼を言うと、ミカゲは何も答えず、再びゆっくりと歩き始めた。
彼の歩みに合わせて、まふゆも一歩を踏み出す。
ミカゲの服の裾を握りしめたまま。まるで迷子の子供のように、その黒い背中だけを頼りにして。




