第一章:紫の追憶
数百年にわたり世界を統べていたドラゴン王国が崩壊し、大陸は混沌の渦に飲み込まれていた。
絶対的な秩序を失った各国は、次なる覇権を握るべく剥き出しの野心を露わにし、領土拡大の火種を各地で散らしている。
強国「カベナル王国」もまた、その軍靴の音を響かせ、近隣諸国を威圧していた。
カベナル王国の脅威に晒された「ローゼンバーグ」の王は、国を護るため、デイド公国との同盟交渉に奔走していた。王が不在となって数ヶ月、残された城の空気はどこか張り詰めていたが、その緊張とは無縁の場所があった。
城の裏手に広がる草原。そこでは、王女のリラと、城で下働きをしている少年エルムが、穏やかな陽光の下で花を摘んでいた。
二人は年が近く、身分の差を越えて、幼い頃から兄妹のように育ってきた。
「お母様はね、紫のお花が好きなの。エルムはそっちを探して」
リラが明るい声で指示を出す。エルムは草むらに膝をつき、必死に目を凝らした。
「でも、紫色のお花ってなかなか見つかりませんね。赤や黄色なら、こんなにたくさん咲いているんですが」
「もう、エルムったらダメね。すぐに諦めないで、ちゃんと探してよ」
腰に手を当ててぷんぷんと怒るリラに、エルムは困ったように眉を下げた。
「別に、諦めているわけじゃないんですが……あ、王女様! その洞穴は危険です。僕が探してきますから」
リラが覗き込もうとした薄暗い岩穴を、エルムが制した。
「私が年上なんだからね。こんな洞穴くらい、どうってことないわ」
「いけません、王女様。僕がちゃんと探してきますから。ね?」
エルムが優しく微笑むと、リラは毒気を抜かれたように頬を膨らませた。
「わかったわ。でも、『王女様』って呼ぶのはやめて。ちゃんとリラって名前で呼んでって言ってるでしょ」
「……それは無理ですよ、王女様」
エルムはいたずらっぽく笑うと、「とにかく、行ってきます」と言い残して洞穴の闇の中へ消えていった。
一人取り残されたリラは、エルムの後ろ姿に向かって小さく舌を出した。
「……エルムって、できないことばっかり。嫌い」
しばらくして、遠くから年老いた執事の声が響いてきた。
「王女様? どこにおられますか?」
「なに? じいや。私はここよ」
草むらから立ち上がったリラを見つけ、執事は安堵の溜息を漏らした。
「ああ、よかった。お母上がお呼びですぞ。さあ、一緒に城へ戻りましょう」
「もう……仕方ないわね」
エルムに一言告げられないまま、リラは執事に連れられて城へと戻っていった。
城の入り口では、王妃が厳しい表情で待ち構えていた。
「まあ、こんなに泥だらけになって! 早く着替えなさい。今日は大切なお出かけだから早く帰るように言ったでしょう!」
「はーい……」
リラが慌てて自室へ駆け込んでいった頃、エルムは洞穴の奥でようやく見つけた紫色の花の束を抱え、ひょっこりと外へ這い出てきたところだった。
「あれ? 王女様がいない。……城に戻ったのかな?」
エルムは少し寂しげに笑い、大事そうに花を抱えて城へと走り出した。
その途上、豪華な馬車へと乗り込もうとする王妃とリラの姿が見えた。エルムは息を切らしながら駆け寄る。
「王女様! お花です! たくさん採れましたよ!」
差し出された紫色の花の束を見て、リラの瞳がぱっと輝いた。
「わあ! 綺麗なお花! ありがとう、エルム!」
「もう、下働きの子と遊ぶなと言ったでしょう」
王妃が冷ややかに窘めるが、リラは意に介さず、花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「でも見て、お母様! 紫のお花よ。お母様のためにエルムが採ってきてくれたの。綺麗でしょう?」
「……そうなの? まあ、本当に綺麗ね。嬉しいわ、リラはいい子ね」
お母様に頭を撫でられ、リラは誇らしげに、そして何より嬉しそうに馬車へと乗り込んだ。
ゆっくりと動き出す馬車。エルムはその小さな背中が見えなくなるまで、満足そうに微笑みながら見送っていた。
その紫の花が、平和な時代の「最後の手向け」になるとも知らずに。




