第四章:一億分の一の瞬き
長い廊下を抜けた先、二人が辿り着いた中庭は、逃げ場のない「箱」だった。
四方を囲む石壁は、悠に五メートルを超える高さでそそり立っている。壁の随所に穿たれた鉄格子の小窓からは、事の顛末を見届けようと衛兵たちが息を潜めて覗き込んでいた。
牢のような一室に放り込まれた地質学者の男もまた、震える手で格子を掴み、中庭の様子を凝視していた。
「……何が、始まるんだ……?」
庭の中央で、領主はカイエンを振り返り、芝居がかった仕草で両手を広げて見せた。
「さあ! 望むものを見せてやろう、討伐隊!」
「討伐隊……? 何のことだ……」
窓の外で起きている異変に、学者が呟く。
領主の肌が、ドロリとした黒色に変色し始めた。皮膚を突き破って漆黒の鱗が噴き出し、着ていた高価な衣類が内側から膨れ上がる肉体に耐えきれず、燃えるように焼け落ちていく。
骨が砕ける不気味な音が響き、体躯はカイエンの三倍を超えるほどにまで巨大化した。大きく裂けた口には、獲物を噛み砕くための牙が並び、手足には岩をも砕く鋭い爪が備わっている。
それはもはや人ではなく、這い寄る巨大な爬虫類――黒本に魂を売った成れの果て、魔物そのものであった。
衛兵の中には、そのあまりの冒涜的な姿に目を背ける者もいたが、多くは冷淡に眺めている。彼らにとって、この光景は既に見慣れた日常の一部に過ぎない。
一方、学者は窓から飛びのき、腰を抜かした。声も出せず、ただ諤々と歯の根を合わないほどに震わせるばかりだった。
魔物と化した領主の喉から、言葉にならない咆哮が漏れる。だが、その思念は直接、カイエンの脳へと叩きつけられた。
『さあ、どうした? 私を討伐しに来たのだろう?』
カイエンは抜刀しなかった。ただ腕組みをしたまま、眼帯の奥に宿る鋭い眼光で魔物を射抜いている。
あの硬質な鱗は並の鋼を通さない。それは熟知している。だが、いかに無敵に見える装甲であっても、物理法則に従う限り必ず「繋ぎ目」が存在する。
その一億分の一の確率を見定め、一点を突く。それがカイエンの培ってきた剣技の真髄だった。
『フン! 恐怖で怖気づいたか。くだらんな!』
領主の巨体が鋭く回転した。鞭のようにしなる長い尻尾が、空気を切り裂く轟音と共に迫る。
回避は間に合わない。カイエンの体は紙屑のように薙ぎ払われ、背後の石壁に激しく叩きつけられた。
ドサリと地面に落ち、血反吐を吐きながらも、カイエンはよろよろと立ち上がってくる。だが、領主は容赦しなかった。黒い腕が振り下ろされ、再びカイエンの体は強かに壁へと撃ち付けられた。
地面に突っ伏し、ピクリとも動かなくなったカイエン。
領主は勝利を確信し、その足を無造作に掴み上げた。自分の目の前で逆さまにぶら下がる、死に体のはずの男。
「……ッ」
その瞬間、カイエンが鋼鉄の右拳を突き出した。
『ん? 何だぁ? 全然、届いていないぞぉ?』
魔物が嘲笑う。拳と顔面の間には、まだ数インチの距離がある。
――ガチャン!
冷徹な金属音が響いた。カイエンの義手、その手首部分が複雑にスライドし、折りたたまれる。剥き出しになった内部から、無骨な銃身が突き出した。
ドォン! ドォン! ドォン!
重く腹に響く銃声が三度。至近距離から放たれた大口径の弾丸が、領主の顔面を正面から打ち砕いた。
『ぐわあああああ!』
苦悶の悲鳴を上げ、領主はカイエンを投げ捨てて悶絶した。着地したカイエンは、着地の衝撃を逃がしながら、即座に次の動作へ移る。
ドォン! ドォン! ドォン!
さらに三発。狙いは正確無比に領主の喉元を捉えた。弾丸が肉を抉り、魔物は喉を押さえて膝をつく。
畳みかけるように、カイエンは深く息を吸い込んだ。
「……ハァッ!」
大きく開かれた口。その喉の奥で火花が散り、次の瞬間、凄まじい火炎放射が放たれた。ドラゴン族の末裔のみが成し得る超高熱の劫火。
領主の首から顔面にかけてが焼き尽くされ、中庭には肉が焦げる凄惨な悪臭が充満した。魔物は膝をついたまま、天を仰いで大きくのけぞる。
そこで、ようやくカイエンは腰のレプリカを引き抜いた。
『ま……待て! 待ってくれ……!』
脳裏に響く命乞い。カイエンの瞳に慈悲の色はない。
カイエンは地面を蹴り、石壁を蹴った。三角飛びの要領で空中へと舞い上がり、上空から領主へと肉薄する。
視界に捉えたのは、焼け爛れた黒い鱗のわずかな隙間。魔物にとっての完全な死角。計算され尽くした「一億分の一」の瞬間。
カイエンの腕が閃いた。
超高精度の抜刀が、正確に領主の胴体の繋ぎ目を切り裂く。高速の一閃。
断末魔の声すら上がらなかった。
魔物の巨大な体は、腰のあたりから綺麗に真っ二つに分断され、石畳の上を滑り落ちた。
しばらくすると、中庭の熱気は引いていった。
そこに転がっていたのは、魔物の死体ではない。上半身が黒焦げになり、無残に胴体を分かたれた、全裸の男のみすぼらしい遺体であった。




