第五章:霞ノ社の対話、真実と遺志
深い霧が音もなく漂う霞ノ社。
その静寂の中で、コトネは一人、一振りの刀に向き合っていた。刀剣油を染み込ませた白い布が、吸い付くように刃を滑る。キィ、という微かな金属音だけが境内に響いていた。
「……おお、コトネか。それは……『霧呼』か」
背後からかけられた掠れた声に、コトネの手が止まる。そこには、老いた身を静かに横たえる御屋形様・リクセンの姿があった。
「え? これが……キリコ、なのでしょうか?」
コトネは困惑して手元の刀を見つめた。リクセンは深く頷く。
「左様。キリコは、それしかない」
「私はてっきり……サヤが盗み出したあの刀こそが、キリコなのだとばかり……」
「ふむ……あれか。私は、あれに名前を付けた覚えがないのだ」
リクセンの淡々とした言葉に、コトネは目を丸くした。
「名前が無いのですか?」
「そうだな。もともとはドラゴン王に贈る予定の刀だったが……今となってはな」
「……頭領たちは、あちらを『次元刀』と呼んでいるようですが」
「別に次元刀でもキリコでも、好きに呼ぶがよい。名前など無いのだからな」
リクセンは目を細め、コトネが持つ刀――穏やかな光を放つその一振りを指差した。
「お前が今持っているそれこそが、私の生涯の最高傑作。正真正銘の『霧呼』だよ」
「そうだったのですか……。知らずに扱っていたこと、申し訳ありません」
申し訳なさに頭を下げるコトネを見て、リクセンは「はっはっは」と力なく、しかし暖かく笑った。
「教えていないのだから、知らなくて当然だ。謝る必要はない。……それは、私がお前たちに遺すもの。私が付けた名前で呼ぶ必要もない。お前たちの好きなように呼びなさい」
リクセンは遠い空を見つめるような目をして、過去を語り始めた。
「まだ私がドラゴン王の護衛をしていた頃、刀を作ってくれと頼まれてな。私の最高傑作であるキリコの製法をなぞって作ったのが、あの刀だ」
「だから、形が瓜二つなのですね……」
「しかし……慣れない材料で打ったからな。最高傑作と言えるほどの出来ではない」
「慣れない材料?」
問い返すコトネに、リクセンは静かに告げた。
「……精霊の爪だよ」
「精霊の爪!? あの、かつて精霊戦車を打倒したという伝説の……?」
「ふふふ……私も最初は面食らってな。ドラゴン王国の至宝……先代ドラゴン王の遺骸から刀を作るなど、正気の沙汰ではないとな」
コトネは息を呑んだ。王の遺骸を武器に変える。その異様な執念の理由が分からなかった。
「なぜ、王は……そのようなことを?」
「さあな……今となっては確かめようもない。だが、あれは『精霊降臨』の秘術によって、精霊の爪を持って生まれたもの。かつての精霊戦車を滅ぼした力を、もしかすると、王子に託したかったのかも知れぬな……」
リクセンは自嘲気味に笑った。
「まあ……どうしてもと言うのでな。仕方なく作ったのだ」
「やはり……ドラゴン王国の至宝……何としてでも取り返さねばなりませぬか?」
コトネの問いに、リクセンは首を振った。
「違うよ、コトネ。どうしてもと言うなら、私はあの刀をサヤにくれてやってもいいと思っている。周りは反対するだろうがな」
「なんと! そのような……」
驚愕するコトネに対し、リクセンの声はどこまでも慈愛に満ちていた。
「私はただ、サヤに生きていてほしいだけなんだよ。できれば仇討ちなど諦めて、自分の人生を生きてほしい……」
「……頭領は、そのようには思っておりませぬ」
「そうだろうな。私の体さえ万全であれば……。ゴホッ、ガフッ……!」
突如、リクセンが激しく咳き込み、その細い肩が大きく揺れた。
「御屋形様!」
コトネは咄嗟に刀を置き、倒れ込むリクセンの体を支えた。
「ふふ……何でもない。大丈夫だよ」
リクセンは苦しげに息を整えながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「カイエンにも……あの剣は渡さなかった。私が、自分で……」
その言葉の真意を測りかね、コトネはただ「御屋形様……」と、その震える背中に手を添えることしかできなかった。
今日も霞ノ社は、すべてを隠し去るような深い霧に、静かに覆われていくのであった。




