第二章:天空の末裔と隠されし工房
イゾルデは港の喧騒から離れ、森の入り口にある古いベンチに腰を下ろしていた。海から吹き込む風が彼女の銀髪を揺らす。先ほどまで食卓を囲んでいたバレルとレイドール——あの奇妙な二人との会話を反芻しながら、彼女は静かに「その時」を待っていた。
やがて、遠くから蹄の音と車輪の軋む音が響いてくる。
一台の赤い馬車と、それを護衛する二人の男。バルドとゴドリックが、イゾルデの下へと駆け寄ってきた。
「奥方、お待たせしました!」
「あら、そう。……バルド、あなた、またこっそり私の馬車に乗って昼寝してないわよね?」
ギクリとしたバルドが声を裏返す。
「そ、そんなことしませんよ!」
「奥方、任せてください。今回は大丈夫です、私が見張っておきましたから」
ゴドリックがしたり顔で請け合うと、バルドが噛みついた。
「兄貴! 『今回は』って何ですか! あれは一度きりの過ちだって言ってるじゃないですか、もう……しつこいんだから二人とも」
「ふふふ……どうでもいいわ。さあ、行きましょう」
イゾルデが立ち上がり、馬車とは逆方向の森の中へと歩き出す。
「えっ、あ、待ってください奥方! 馬車に乗らないんですか?」
二人は慌てて白馬を近くの木に繋ぎ止め、主の後を追った。
「急用ができたのよ。……私たちはずっとアンテ・ロームの紋章を追っていたけれど、それは間違いだったわ」
「間違い……と言うと?」
ゴドリックが顎に手を当てて首を傾げる。
「プロバンス製を探すのよ」
「プロバンス? 聞いたことない名前ですね……」
「ロンカ帝国は知っているかしら?」
「ロンカ帝国……も、知らないっすね」
バルドの屈託のない答えに、イゾルデは溜息をついた。
「あなたたちね、少しは歴史の勉強をしなさい。……いい? ドラゴン王国が世界を統治するよりもずっと前の話よ」
木漏れ日が差し込む森の奥へと進みながら、イゾルデは静かに講義を始めた。
「かつて、この世には『精霊術』があったわ。強大で便利だけれど、儀式や修行、膨大な知識が必要で、選ばれた者にしか扱えない力だった。……そう、赤本に記されているような呪文のことよ」
「精霊術と言えば赤本ですね。それは知っています」
ゴドリックが誇らしげに頷く。
「その後、詠唱石が発見されて『精霊工学』が広まった。作るには高度な技術が必要だけど、使うのは誰にでもできる。それが世界を瞬く間に変えた。……その精霊工学の極致に至り、天空に都市を築き、精霊戦車の脅威で世界を支配したのがロンカ帝国よ」
「へー、そんな歴史があったんすねぇ……」
バルドが感心したように声を上げる。
「そのロンカの戦車を打ち倒したのが、精霊の爪を持って生まれたドラゴンの王率いる『聖輝軍』よ」
「聖輝軍! あの悪い魔術師を倒したっていう?」
「あら、よく知っているじゃない。偉いわねバルド。でも、それよりもずっと昔に、最初の聖輝軍は結成されていたの。……そして、そのロンカ帝国の前身こそが、プロバンス大公国なのよ」
二人は息を呑んだ。イゾルデが持つ「逆時計」——それは天空の都市に由来する失われた工学の産物。
イゾルデ・ラ・クレメンス・ド・シエル。彼女は天空の都市の貴族、すなわち「天空人」の正当なる末裔であった。
やがて、森の最奥に一軒の朽ち果てた小屋が現れた。
蔦に覆われ、今にも崩れそうな看板には、掠れた文字でこう記されている。
『——プロバンスの工房——』
「着いたわよ。ここが、プロバンスの隠れ工房ね」
「なぜこんな場所がわかったんですか、奥方……」
ゴドリックが目を丸くする。イゾルデは答えず、ただ静かに小屋を見つめた。代々伝わる血の記憶が、彼女をここへ導いたのだ。
「行きますよ」
バルドが意を決して、軋む音を立てる重い扉を押し開けた。
三人の影が、埃の舞う暗がりの奥へと吸い込まれていく。そこには、数百年もの間、時を止めたままの「世界の真実」が眠っていた。




