第一章:霞ノ社、死の淵の独白
人里離れた峻厳たる山々の奥深く。そこには、武の真理を求める若者たちが集う、知る人ぞ知る静寂の里があった。今日も早朝から、竹林の合間に鋭い気合と木刀の打ち合う音が響き渡っている。
その里の最奥、霧が立ち込める場所に建つ離れ「霞ノ社」。
かつて天下無双の剣豪としてその名を轟かせたリクセンは、今や不治の病に身体を蝕まれ、薄暗い部屋で静かに病床に臥していた。
社の廊下を、一人の少女が音もなく歩いてくる。弟子のコトネだ。
「御屋形様。お薬でございます」
コトネは襖の前で手をつき、丁寧な一礼ののち、静かに扉を開けた。
「おう、コトネか。いつも世話をかけてすまぬな。ありがとう」
「私には勿体ないお言葉……。ささ、お薬を」
コトネが差し出した一包の薬を水で流し込むと、リクセンは一息つき、ふと思い出したように弟子の顔を見た。
「コトネよ……。お主、サヤのことは気にかからぬか?」
その問いに、コトネは唇を噛み、黙ったまま俯いた。
「友を想うのは大事なことだ。遠慮せずともよい」
「……そのことなのですが。先ほど頭領から言伝が届きました。サヤを追う途上で、カイエン殿に会われたとかで……」
「カイエン……! カイエンか! そうか、生きておったか……」
リクセンの瞳に、微かな光が宿る。
「私は彼を死地へ送り出したことだけが、今も心残りでな……」
「私は、そのカイエン殿という方を存じ上げなくて……」
「そうか。お主には、話しておかねばならぬな。……コトネ、ドラゴン王国のことは知っておるか?」
コトネは頷いた。
「はい。かつて全世界を統治したという、伝説の王の国ですね」
「左様。……ドラゴンの王には、人間の妃がおってな。ドラゴンとは不思議な種族で、愛する者のために、年に三日間だけ姿を人間に変えることができる。その間だけは、一人の男として家族と過ごすのだ」
リクセンは天井を仰ぎ、遠い記憶を紐解くように語り続けた。
「やがて王妃は子を授かった。王ドラグニール・J・ヴァルムンドの息子、カスティエル・ルナ・ヴァルムンド。……かつてのカスティエル王子。それが、今のカイエンだ」
「まさか……! そんな……」
コトネは息を呑んだ。最強の執行人が、滅びた王国の正当なる後継者であったとは。
「王国にはヴァルガスという宮廷魔術師がおった。優秀な男だったが、奴には底知れぬ野心があった。奴は禁じられた精霊工学を用い、人を操る『魔剣』を造り出したのだ」
「魔剣……」
「持つ者の生気を吸い取り、精神を支配する呪物だ。ヴァルガスはそれを、王子の十四歳の誕生日に贈った。何も知らぬ王子は喜んで剣を手にしたが、即座に魔剣の傀儡と化した。……そして」
リクセンの声が苦渋に満ちる。
「……実の父である、ドラグニール王の首を撥ねたのだ。それが、ドラゴン王国崩壊の真実よ」
部屋が静まり返る。コトネは絶句し、震える手で膝を掴んだ。
「その頃、私は王の護衛として仕えておった。私は直感で、魔剣を握る王子の腕を斬り落とした。……首を撥ねなかったのが、せめてもの救いよ。その後、私はこの手でヴァルガスの身体を切り裂き、葬り去ったはずだった」
「それでは……脅威は御屋形様が食い止めたのですね?」
「いや、違う。食い止めてはおらぬ。……『黒本』だ」
リクセンの言葉に、コトネは耳を疑った。
「あの、世に蔓延る呪いの書ですか?」
「いかにも。あれはヴァルガスが魔剣の技術を応用して遺したものだ。読むだけで誰でも魔法が使える代わり、使うたびに生気を吸い取られる。……そして、その生気は今も、ヴァルガスの『死体』に送られ続けておるのだ」
「死体に、生気を……?」
「そうだ。奴は死してなお、黒本から吸い上げた無数の生気によって、この世に繋ぎ止められておる。支配を広げながらな……」
リクセンは静かに目を閉じた。
「絶望し、自ら命を断とうとしたカスティエル王子を、私は必死に説得した。我が下へ修行に来た時、彼は王子という名を捨てた。彼曰く、カスティエルはあの日死んだのだと。……新しく生まれ変わった彼に私が贈った名、それが『カイエン』だ」
「そんな悲しいことが、あったのですね……」
「コトネ……すまぬな。薬が効いてきたようだ……」
「ああっ、無理はいけません、御屋形様。ゆっくりお休みください」
リクセンが横になり、穏やかな寝息を立てるのを見届けると、コトネは複雑な思いを胸に秘め、静かに部屋を後にした。霞ノ社に漂う霧は、ますます深く、彼らの運命を覆い隠そうとしていた。




