第五章:束の間の安らぎ、スープの味
どこをどう歩いてきたのか、エルム自身にもわからなかった。
ただ、身の丈に見合わない豪奢な剣を必死に抱え、たどたどしい足取りで、人目を避けるように山道を下り続けた。
エルムは途中の川に降り、血に汚れた体を洗った。冷たい水に触れるたび、川の流れが赤く染まっては消えていく。自分が何をしたのか、断片的な記憶が脳裏をかすめ、エルムは激しく頭を振った。
ふと見ると、川岸に一隻のはしけ船が停泊していた。エルムは身を隠すようにその中へ潜り込み、泥のように深い眠りに落ちた。
どのくらい時間が経っただろうか。
船の中で目を覚ましたエルムの視界に、あの忌まわしい剣が入ってきた。鈍く光る鞘が、まるで自分を監視しているかのように見えた。
「……もう、嫌だ。こんなもの……ここに置いていこう」
エルムは固く決心し、剣を船の隅に残したまま、一目散に岸へと駆け出した。
振り返らずに走り続け、エルムはとある街へと辿り着いた。
ローズタウンからも、あの惨劇の城からも遠く離れた見知らぬ街。何も食べていない体は限界に近く、エルムは幽霊のように力なく街を彷徨った。
道の傍らで、大きな鍋をかき混ぜている婦人がいた。漂ってくる芳醇なスープの香りに誘われ、エルムはふらふらと近寄っていく。
「あら、どうしたの坊や。お腹が空いたのかい?」
おばさんは顔を上げると、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おばさんの特製スープ、飲ませてあげようか?」
思いがけない優しい言葉に、エルムの視界がじわりと滲んだ。
「まあまあ、待っててね。今あげるから」
差し出されたお椀を、エルムは震える手で受け取った。温かなスープを一口啜ると、止まっていた涙が溢れ出した。一心不乱に食べ続けるエルムに、おばさんは笑いかける。
「あはは、慌てなくていいよ。まだたくさんあるからね」
「おいしい……おいしいよ、おばさん」
「そうかい、そりゃあ嬉しいねえ。ところで坊や、どこから来たんだい?」
「……ローゼンバーグだよ」
「お名前は?」
「エルム、です」
「そう、エルムっていうのかい」
そこでおばさんは、エルムのボロボロの服に血が付着しているのに気づいた。
「まあいけない! どこか怪我をしているのかい?」
「ううん……僕は何ともないんだけど……」
「ダメよ。今日はもう店じまい。うちにいらっしゃい」
エルムはおばさんの家に連れて行かれ、汚れを拭ってもらい、着替えを与えられた。
「ちょうど甥っ子の服があったのよ。子供の成長は早いからね……うん、ぴったり。似合うわ、良かったわね」
鏡に映る自分は、まるで普通の少年だった。このまま、ここで普通の暮らしができるかもしれない。そんな淡い希望がエルムの胸に宿った、その時だった。
――ガッシャーン!
表で凄まじい破壊音が響いた。おばさんは驚いて様子を見に外へ飛び出し、エルムもその後を追った。
「きゃあ!」
「ぎゃああああ!」
悲鳴が連鎖し、平穏な街が瞬時にパニックに包まれる。
道の向こうから、血だらけの男がふらふらと近づいてきた。その手には――あの船に捨ててきたはずの、「本物」の魔剣が握られていた。
「ここに来ちゃダメ! 逃げて!」
おばさんが叫ぶが、エルムは逃げなかった。いや、逃げられなかった。
エルムはおばさんの前に駆け寄り、小さな両手を広げて立ちはだかった。
「何やってるの! ダメよ、逃げなさい早く!」
「この人には……この人には手を出さないで!」
エルムが叫ぶ。だが、血まみれの男はニタリと不気味な笑みを浮かべ、剣を高く振りかぶった。
しかし、その刃が向かったのはエルムではなかった。
男は凄まじい力で、自らの腹に魔剣を突き刺した。
「……ッ、がはっ!」
男は口から血反吐を垂れ流しながら、無理やり剣を引き抜く。傷口から血がとめどなく溢れ出し、男は恍惚とした表情のまま、エルムの足元に魔剣を置いた。
男はそのまま後ずさりするように倒れ、息絶えた。あまりの光景に、おばさんは気を失ってその場に倒れ込んだ。
しんと静まり返った街に、エルムの脳を揺さぶる声が響く。
『逃げられないぞ……』
エルムは諤々と震える手で、再びその鞘を拾い上げ、抱きしめた。
自分はこの剣に選ばれたのではない。呪われたのだ。
エルムは倒れているおばさんに、消え入りそうな声で告げた。
「……ごめんなさい」
振り返ることなく、少年は街の外へと走り出した。
背後には、彼が求めた束の間の安らぎが、血の海の中に沈んでいくのが見えた。




