【京山緑】初日の目覚め
――知らない天井だった。
真っ白な塗り壁。見たことのない照明。知らない匂いのする空気。
なんで?
わけがわからなかった。
体が沈むような感覚に囚われたまま、私は視線だけを泳がせる。左右、天井、壁、足元。全部、知らない。知らない、知らない、知らない。
(……夢?)
そう思いたかった。けど、シーツの感触は妙にリアルで、肌寒さも現実そのものだった。
(……っ)
胸の奥がぎゅっと縮こまる。無意識に、膝を抱えていた。
心臓の音がうるさくて、自分の呼吸が上手くできていないことに気づく。
怖い。今何が起きてるの?
ーー落ち着かなきゃ。
大丈夫。私は大丈夫。大丈夫なふりをするのは、得意なんだから。
そっと目を閉じて、ひとつ深呼吸。
それから、まるでスイッチを入れるように、私は“いつもの私”を作り上げた。
ゆっくりとベッドから身を起こす。
意識して穏やかな呼吸を繰り返しながら、あたりを見渡す。
室内は、小ぎれいな洋風の内装だった。
ベッド、テーブル、チェストに椅子。どれも質の良いものに見えるけれど、使い込まれた生活感はない。
(……見せかけだけの、誰かの“用意”)
そんなふうに感じた。けれど、それ以上は考えない。考えても仕方ない。
私はベッドから静かに立ち上がる。
なんでこんなにも体が重いんだろう。心が、動くのを拒否してるのかもしれない。
(昨日寝たのは、自分のベッドだった。薄い掛け布団と、寝慣れた枕の匂い。あの部屋とは、明らかに違う)
なのに、目が覚めたらこの場所。
連れてこられた? でも、誰に? どうやって? なんのために?
(わからないことばかりね)
不安はある。怖くないわけじゃない。けど、私はもう立っている。立って、前を見てる。
(動かなきゃ。情報を集めなきゃ)
手始めに、部屋のドアに目をやる。
プレートが取り付けられていて、そこには「7」という数字が刻まれていた。
(……とにかく、出てみよう)
ドアノブに手をかける前に、もう一度だけ深呼吸をして。
私はそっと、部屋の外の世界へと足を踏み出した。
扉を開けると、廊下はひっそりと静まっていた。やっぱり見たことない。一度でも見たら忘れるわけなんてないんだから、少なくとも初めてきたのは間違いないと思う。
灯りはついているけれど、どこか頼りなくて、足元がぼんやり見える程度。
「……おはようございます?」
誰もいない通路に向かってぽつりと声を出してみる。
でも、返事はなかった。
誰もいない、なんて事があるの?
ゆっくりと歩き出し、大きめな部屋の扉を見つけた時──声が聞こえた。
男の声だった。低めで、落ち着いている。少し間を置いて、もう一つ──柔らかい、女の人の声が重なる。
私を誘拐した人、という雰囲気ではなさそうだった。偏見を持つのは危険だけど、そんな事をする人はもっと粗暴で、荒々しいイメージだ。
(……子供らしくしておいた方が良さそうね。)
扉の隙間から二人の姿が見えた瞬間、胸の奥が小さく、ざわついた。
女の人の雰囲気に、どこか覚えのある“影”を見た気がした。うまく言葉にできない──でも、妙に懐かしい色をまとっていて、まっすぐ目を逸らせなかった。
(……今は、考えない)
こぼれかけた記憶の欠片を、そっと押し込める。
「こんにちはー!」
少しだけ調子を外しながら、明るく声をかける。無邪気さを添えて、ちょっと困ったような笑顔を乗せて。
二人は同時にこちらを振り向く。男の人は、警戒もせず目を細めて。女の人は、少し驚いたように瞬きをしてから──ふわりと、笑った。
「はじめまして、京山緑です!えっと……おじちゃんと、お姉ちゃんは?」
にっこりと笑いながら、目と耳を総動員して観察を始める。表情、しぐさ、言葉の間。全部拾って、頭の中で分類していく。
(まずは情報収集。それから、ポジション取り)
佐伯と名乗った男は、緑を警戒している様子もなく、緑を怯えさせないように優しく、わかりやすく状況を説明してくれた。目覚めた時間、館の構造の一部、そして他にも何人かがいるということ。
(この人、割と面倒見がいいタイプね)
──そして、隣の、天ヶ瀬ゆみと名乗った女性。
彼女の笑顔が、どうにも気にかかった。
何がどう、というわけではない。ただ、見ていると、胸の奥が、じわじわと軋むような──そんな感覚が残った。
(……ああ)
無意識に視線が向いてしまう。声の調子や、立ち振る舞いのひとつひとつが、なぜか気になって仕方がなかった。
理由は、わからない。けれど、それが気に入らないとも、嫌だとも思わなかった。
むしろ。
(……なんでだろう)
少しだけ、一緒にいたくなるような気がした。
(ゆみさん、部屋に戻ってるって言ってたっけ)
館内をブラブラ探索していたときに、ふとゆみさんの顔が脳裏に浮かんだ。
あの女の人──柔らかくて、少しだけ懐かしい気配のする人。
(ダメよ……気を抜かないで。まだ何もわかってないんだから。でも…。)
……これも情報収集よね。
ゆみさんの部屋まで歩いて、扉の前で、小さく咳払い。
「……ゆみお姉ちゃーん?」
わざとらしく明るい声で呼びかけて、ちいさくノックする。軽やかな調子で。
中から布が擦れる音がして──少し遅れて返事が返ってきた。
「っ……はい。どうぞ」
声は笑ってる。でも、無理してるのがわかる。
わたしは何も気づかない子供のふりをして、ドアを開けた。
「おじゃましまーす!」
手を掲げて、ひょこりと部屋に入る。
ゆみお姉ちゃんは、いつも通り優しい笑顔を向けてくれた。けれど、その目は──ほんのり赤い。
(直前まで泣いてた。顔色も少し悪い。動きにも硬さがある……)
視線の端で情報を拾い、即座に整理する。
だがそれは表に出さず、あどけない表情を意識して首を傾げる。
「ゆみお姉ちゃん、だいじょぶ? ……なんか、ちょっと元気なさそう」
声には一切の疑念も探りも混ぜない。あくまで、無邪気に。
ゆみお姉ちゃんは、一瞬だけ視線を逸らして、また笑った。
「ううん、大丈夫。……ごめんね、ありがとう。ちょっと、心細くて」
(まあ、この状況なら無理もないわよね…。)
「じゃあね、わたしが一緒にいてあげる」
そっと言って、隣にちょこんと腰を下ろす。
(ゆみさんからも情報収集しなきゃ。確認するべきことなんていくらでもあるんだけど…)
でも今は、それよりも──
(しばらく、こうしていてもいいかな)
部屋に戻ってきた。
(……って言っても、別に帰ってきたって感じはしないけど)
扉を閉めて、少しだけ息を吐く。誰にも見られていないのを確認したあと、口元の笑みを解き、素の表情へ戻る。
(佐伯さんの話、わりと参考になったかも)
食堂で聞いた話を思い出しながら足を進める。
次にやることは決まってる。
部屋の片隅にあった、重そうな金庫。
さっきは気になったけど、手をつけていなかった。話によるとここで使う為のお金のようなものが入ってるらしい。
鍵をひねると、カチリという音と共に扉が開いた。中には、見たことのない金色や銀色、銅色の硬貨がびっしりと入っていた。
(へぇ……こんなにたくさん。これが、ここの通貨?)
用途はさっき聞いた。
それだけでも、この館がどういう場所か、ちょっとだけわかった気がした。
金色の中から、枚数を数えることなく、ぴたりと三枚──入っている枚数全てを指先で拾い上げる。
……使ったこと、後悔することになるかもしれないけど。
ま、それはその時ね。使っとけば良かった、なんて言う後悔よりはよっぽどマシよ。
宝箱の前に立つ。1枚箱、2枚箱、そして──3枚箱。
(どれを開けても同じなら、一番高いのを開けようかしら)
深呼吸して、金貨三枚を投入する。カチャ、と機械的な音。
蓋が、静かに開いた。
「……えっ」
覗き込んだ瞬間、息が止まった。
桃色の毛並み。くたっとした四肢。片耳が潰れかけ、ほどけたリボンが首に絡んでいる。
それは、ずっと抱いてきた――あのぬいぐるみだった。
指先が動くより先に、心が反応する。
ただの既視感でも幻覚でもなく、本当に、そこにいる。
(どうして、ここに……)
手を伸ばし、そっと引き上げる。
その重み、手触り、鼻先にふわりと届く懐かしい匂い。
どれも間違いようがなかった。
「……ふふっ」
意識せず笑みがこぼれる。
胸元に抱き寄せ、何度も確かめるように、毛並みに指を滑らせる。
(やっぱり、これがないと、落ち着かない)
抱えたぬいぐるみの背を、ぽんぽん、と軽く叩いてみる。中に詰めたものの感触が、腕越しにわずかに伝わる。
――生き延びるための道具。
でも、それだけじゃない。
この子は、お守りみたいなものだ。怖かったとき、寂しかったとき、何も言わずに一緒にいてくれた。代わりはいない。
誰かがこれを私の部屋から勝手に持ってきたんだと思うと、胸の奥が、少しだけ冷える。
(まあ……私自身が勝手に連れて来られてるんだし、今さらかな)
今はこの子が戻ってきたことのほうが、ずっと大事だ。
そろそろ立ち上がろうとしたとき、
コン、コン。
ドアがノックされる音がした。
「はーい!」
誰だろう?と思いながら大きな声で返事をして、扉に近づいた。
ノブを握ったその瞬間──ドンッ!と外から力が加わる。
「……っ!?」
反射的に一歩後ろへ引いた直後、扉が開き、巨体が押し込まれてきた。
(──なに、どういうこと)
部屋に入ってきたのは、中年男。太っていて、髪が薄くて、肌が脂っぽい。不潔な体臭が鼻を刺す。
男は、入るなり無言で部屋の内側から鍵をかけた。
カチリ。
(……え?)
無言のまま、振り返る。
その顔を見た瞬間、背筋に氷を流し込まれたような感覚が走った。
明らかに目が違う。
今のその目は、何かを見つけて、興奮に火をつけられた獣のそれだった。
何も言葉はいらなかった。
何が起きるのか、本能だけが正しく告げていた。
(逃げ──)
思考が口に出るより早く、男の手が伸びてきた。
ドンッ!!
胸に衝撃。ベッドに叩きつけられる。
「……っ!」
呻き声が漏れる。
巨体がのしかかってくる。
腕が、肩を押さえつけ、太ももが脚を割ってくる。
重い。重すぎる。動けない。
汗臭い息が、顔のすぐ近くにあった。
(やだ……やだ、やだっ!!)
力任せに手を突っぱねる。
爪を立てて、肌をひっかく。
でも、相手はびくともしない。
スカートの裾が持ち上がる気配。
下着のゴムが、指にかかった感触。
──まずい。まずい。
「やめて! やだっ、やめてっ!!」
叫ぼうとした瞬間、口を塞がれた。
男のもう片方の手が、喉にかかる。
「──っっ!!」
呼吸が潰される。視界が暗くなる。
暴れようにも、体は男の巨体で固定されている。
意識が遠のくその寸前──
ぬいぐるみ。
(……そうだ)
抱いていた猫のぬいぐるみの中。
あの人がくれた護身用のスタンガンと、ナイフ。
(手、動け……)
指先が、毛の奥へ潜る。
黒いプラスチックの感触。大丈夫、使い方はわかってる。
スイッチに触れると同時に、左手で男の腕を掴み、力任せにスタンガンを押し当てた。
バチッ!
高い音と共に、小さな火花が走る。
電流が走った瞬間、痛みで男は反射的に首にかけていた手を離した。
その刹那のタイミングを見逃さず、首を捻って空気を吸い込む。
浅い。足りない。けれど、まだ意識がある。
喉の奥でざらつく空気を吐き出しながら、震える手でスイッチを強に切り替えた。
(どいて、どいて、どいて──!)
服の上から、力の限り押し当てる。
──バチバチバチッ!!
乾いた閃光と共に、男の身体が跳ね上がった。
「ぐ……おぉぉおおッ!!」
男の巨体が、床にどさっと転がった。
痙攣している。唸っている。まだ意識はある。
緑は体を起こして、ベッドの上で四つん這いになり、喘ぐように空気を吸い込んだ。
(……まだ終わってない)
圧迫されていた肺に、ようやく空気が戻ってくる。
視界は滲み、耳鳴りのような静寂が鼓膜を打っている。
けれど、頭は冴えていた。
ぬいぐるみに隠してあった、もうひとつの“中身”に指を伸ばす。
柔らかな布地の裏、縫い目の奥。そこに収められた冷たい金属の感触。
それを掴み、引き抜く。
折りたたまれていた刃を、震える指先で開く。
鋭い銀色の刃が、ぼやけた視界の中でかすかに光った。
──ナイフ。
床に転がってうつ伏せに倒れている男は、痙攣していた。
口元から泡を吹き、目は見開かれたまま、焦点を結んでいない。
その背に、静かにまたがる。
ぐにゃりと沈む脂肪の感触に、吐き気が込み上げた。
薄くなった頭髪を、無造作に掴む。
そのまま、首をぐいと引き上げる。
露わになった白い首筋に、手にした刃を当てる。
(……二度も、こんな事しなきゃいけないなんて)
刃先を、白く浮き出た首筋に当てる。
そして──容赦なく、力を込めて引いた。
肉が裂ける感触と同時に、熱い血が音を立てて飛び散る。噴き出した血液は床に叩きつけられ、壁をも濡らした。
原山の体が痙攣するたび、血の海が波立つ。
緑はナイフを握る手にまだ力が入っているのを感じた。刃を手放すように、そっと手を離す。指先が震えている。
ゆっくりと後ろに下がりながら、床へ腰を下ろす。何かがこみ上げてきて、気づけば、頬を伝う雫があった。
(なんで……)
(なんで、私がこんなことをしなきゃいけないの…)
喉の奥が熱くなり、視界がにじんだ。
ぽとり、と頬を伝うものがある。
血ではない。涙だった。
許されることではない。わかってる。
でも、これは──あまりにも、あんまりだ。
痛くて、苦しくて、悔しくて。
どうして、こんな理不尽なことが、また繰り返されるのか。
私は、ただ、普通に──
うまく言葉にならなかった。
胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
けれど、泣いている場合じゃない。
目を伏せ、手の甲で涙を拭う。まだ息は荒く、頭も回らない。でも、今やらなければならないことが、まだある。
立ち上がり、乱れた髪を手櫛で整える。
そして、部屋を見渡した。
(……このままじゃ、ダメだ)
部屋を──変えなきゃ。
そう思ったときには、もう心は決まっていた。




