開かずの扉
【称号】
二条院優介:泣きつき依頼人
青峰透華:凄腕ピッカー
佐伯蓮:透華と煙友
天ヶ瀬ゆみ:今日からLUXEファン
扉の前で、全員が足を止めた。
そこだけ時間の流れが淀んだように、誰も声を発さない。廊下を吹き抜けたわずかな風が、空気をひやりと撫でていく。
無言のまま、透華が一歩前へ出た。
その手には、銀色に鈍く光る細身のツールが握られている。
「……んじゃ、やるか」
いつもの軽口は、今はない。冗談めかした調子すらも、ほんの少し削がれていた。
金属と金属が触れ合う乾いた音が、やけに大きく響く。
優介は、その背中を見守りながら、自分の鼓動がやけに喉元で響いているのを感じていた。
「静かにしてろよ。集中する」
透華がさらりと呟き、しゃがみ込む。
ピックを差し込み、鍵穴を探る。
その手つきは驚くほど滑らかで、慣れた仕草に無駄がない。
金属の震えるような音とともに、微細な感触を確かめていく。
誰もが息を呑み、音を立てずに立ち尽くす。
カチャ、チリ……と、時折金属が擦れるわずかな音が響く。
工具を動かす手の角度、力の加減、そのすべてが精密だった。
五分、六分と時間が経過する。
透華の額にじんわりと汗が滲み、細い息が吐かれる。
七分を過ぎたあたりで、優介は気づいた。
彼女の指先が、ごくごく微かに震えている――いや、震えているように見えて、震えていない。震えにしか見えない程度の精密さで動かしているのだ。
そして、八分二十二秒後――
“カチ”
確かな感触が鍵穴を通して返ってきた。
透華の口角が、ほんのわずかに上がる。
彼女はツールを仕舞い、すっと立ち上がった。
「……開いたぞ。」
額の汗を拭いながら、優介をじっと見る言う。
「あたしの仕事はここまでだ。次ははアンタの番だ、優介。」
「ああ…。」
扉の前に立った瞬間、優介の背筋を何かが這った。
理由もなく、ただ、嫌な予感があった。
この扉の向こうには、きっと――
それ以上の思考は、自然と遮られる。
胃の奥がきゅっと収縮する。
足裏から冷たいものが這い上がってくるような、いやな感覚。
空気が重い。温度は変わっていないはずなのに、やけに肌が粟立つ。
鍵はもう開いている。あとは、開けるだけ。
たったそれだけの動作が、ひどく遠く思えた。
誰も何も言わない。透華も、佐伯も、小江も、緑も黙ってこちらを見ている。
優介は静かに息を吐いた。
音を立てれば何かが壊れてしまいそうで、慎重に、音を消すように。
ゆっくりと、扉に手をかける。
冷たい金属の感触が、なぜか妙に生々しく指先に伝わってきた。
――開けた瞬間、世界が変わるかもしれない。
そんな考えが一瞬よぎったが、振り払うように優介は手に力を込めた。
扉が、音もなくわずかに軋み、開いていく。
僅かな隙間から、中の空気がゆっくりと流れ出す。熟れた果物が発酵したような、どこか湿った酸味を帯びた匂いが鼻孔をくすぐった。わずかに湿気と熱を含んだその気配に、優介の胸が微かにざわつく。
この匂いを優介は知っていた。
――死体の気配。
実習での経験が、反射的に警鐘を鳴らす。
扉を静かに押し広げる。わずかに軋む音が、やけに大きく響いた。
人間の、胴体だ。
床にうつ伏せに倒れたそれは、どこか人形じみていて、現実感を欠いていた。
太い首の根元から、背中にかけて大きく黒ずんだ染みが広がっている。
数日前に放たれたであろう血液は、すでに乾ききり、床材に不規則な縁取りで固着していた。
赤黒く、鈍い光を放つその染みは、当時の出血量が常軌を逸していたことを物語っていた。
首筋から深く裂けた傷。その周囲にこびりついた血は、時間の経過を物語るように黒く乾き、床材と一体化していた。
こびりつくような腐臭がわずかに漂い、皮膚の一部は紫黒く変色し始めている
男の体は肥満しており、腹回りはだらしなく膨らんでいる。
薄くなった頭髪が頭皮に張り付き、背中のシャツは寝汗で張り付き、部分的に変色していた。
腕と足は不自然な角度で曲がり、倒れた拍子に打ちつけたのか、側頭部には小さな裂傷があった。
誰も声を発しない。
優介も、透華も、小江も、佐伯も、芹香も、緑も。
ただ、その部屋の中に確かに存在していた“死”に向き合っていた。
沈黙が流れる。
時間が止まったような錯覚の中で、空気の密度だけがじわじわと増していく。
佐伯が、前に出た。
口を開くでもなく、ただ一歩、死体へと近づく。その表情は硬い。が、目の奥には怯えも嫌悪もなかった。ただ、事実と向き合おうとする意志が、そこにある。
続くように、優介も歩を進める。
踏み出した足が、血痕の縁を掠める。ぺたりとした感触が靴裏に伝わった。血はすでに完全に乾ききっており、粘性もなければぬめりもない。ただ、そこに“あった”という証だけが、質量を持って存在していた。
しゃがみこみ、優介は視線を下ろす。
首筋に刻まれた深い傷口は、明らかに外的な力によって引き裂かれたものだった。鈍器ではない。切創。しかも、躊躇いのない一閃。
呼吸を整えながら、視線を胴体へと移す。
左腕、皮膚の露出したあたりに、円形に近い火傷の痕が二つ、対になって残っていた。
(……焼痕?)
優介は眉をひそめた。
「優介くん。」
背後から佐伯の声。
「わかる範囲で、いい。何があったのか、見てくれないか。」
誰かがこの状況に向き合わなければならないという、静かな覚悟が込められていた。
優介は目を伏せ、僅かに息をついた。
「……法医学は、まだ途中なんだがな」
つぶやくように応える。
資格もなければ、経験も浅い。現場の死体を前にしての判断に、自信などあろうはずもない。
「はっきりとしたことは言えない。間違えるかもしれないし、あまり期待はしないでくれ」
「ああ、それでも良い。」
優介は小さく頷き、再び死体へと向き直る。
「……死因は、おそらく失血。頸部の切創が致命傷だ。かなり深い。傷の形からして、鋭利な刃物……ナイフ、あるいはそれに準ずる道具を使われてると思う」
呼吸を整えながら、続ける。
「死後、二日は経ってる。腐敗は始まってるけど、室内の換気がある分、進行は抑えられてる。臭気も軽度だ。湿度が高ければ、もっと酷かったはずだから……室温も関係してるかもしれない、わかるのは…それぐらいだ。」
言葉が終わった瞬間。
小さな、軽い足音が近づいてきた。
「……みんな、何してるの?」
その声に、優介ははっと顔を上げた。
天ヶ瀬ゆみが、扉の前に立っていた。
「ちょ、ちょっと……? え、なに……誰か……?」
そこまで言って、彼女の足が止まる。
視線が、床に落ちている異形の存在へと吸い寄せられる。
瞬間――
「……――っきゃあああああああああっ!!」
悲鳴。裂けるような音。
ゆみはその場に崩れ落ち、口を押さえて喉を震わせた。
「ひ、人……死んでる……っ、なんで……っ、なんで……っ!」
膝を抱えるようにして、震えながら嗚咽を漏らす。
誰も動けなかった。ただ、全員が硬直したまま、その場に立ち尽くしていた。
佐伯が、ようやく動いた。
ゆみのそばに駆け寄り、その肩に手を置く。
「大丈夫だ……落ち着いてくれ。もう見なくていい、外に出よう」
ゆみは何度も首を振りながら、それでも佐伯に支えられるまま、よろよろと立ち上がった。
【獲得称号】
天ヶ瀬ゆみ:静寂を破る者 ←NEW




