野暮用(園田寛治)
園田寛治はその日、真昼間から近所の公園で竹刀を振るっていた。
「ふっ……ふっ……!」
現代社会において、その行為は不審者として通報されかねないものだ。
しかしダンジョンが発生して以後、こうして自主トレーニングに励む人間は各地で見られるようになった。門下生の確保に苦慮していた街の道場やボクシングジムも、近年はダンジョン効果で一気に人口が回復しているという。
なにせ、ダンジョン省主導の探索者養成学校は未だ建設途中だ。
ただ体を鍛えるだけならフィットネスジムに通えばいいが、こと“戦う”力を養いたいと思ったら、武道場へ行くのが自然の理。
もちろん対人を想定した技術と、モンスター討伐に求められる技術は違う。
それでも一部重なるところはあるし、何より努力したという証は己の自信につながり、いざという時ふんばる力をくれる。
そんなわけで寛治がこうして竹刀を振り回していても、うっかり警察の厄介になる確率は低いのだが、それ以上に――
「989……990……991……!」
閑静な住宅街と、人っ子一人いない公園。
そこに寛治の声だけが響いている。
昼間というのもあるのだろうが、ヒルタ熱の流行によって不要不急の外出が叫ばれるようになって、まだ新しい。近くを通りがかる人間がいないなら、そもそも通報される心配などないのであった。
寛治も本来ならこの時間は講義があったはずで、敬愛する師匠から探索業と学業の両立を約束させられている手前、サボるなど言語道断だ。しかし大学そのものがヒルタ熱で休校となっては通いようもない。
それならダンジョンに行けばと思うも、今の大阪朱雀城はマンドラゴラの収穫祭で賑わっている最中だ。とても修行や攻略という雰囲気ではなかった。
「999……1000!! はぁ……休憩しよ」
何より一番大きな理由は師匠の“長期休暇”だ。
先日、寛治の師匠――いつもダンジョン配信のコメント欄に現れる導き手――が唐突にこんなことを書きこんだ。曰く、しばらく留守にするから自主練を怠らないように、と。師匠とて人間、そんなこともあるだろうと納得半分、驚き半分だった。
何せ寛治がいつ配信をつけてもコメント欄にいるのだ。てっきり日の光を浴びたら死ぬような人間だと思っていた。
いや、留守と言っただけで外出とも限らないのだが。
(師匠、今頃どうしてるかなぁ)
ダンジョンは上も下もマンドラゴラで大忙し。
普段アドバイスをくれる先生も不在。
となれば寛治がやれることは、師匠から言いつけられたトレーニングメニューを、何度も繰り返しこなすことぐらいだった。
「……よしっ。もう一セット!」
あの日、果敢に「禍つ星なる竜アリス・テスラ」へ立ち向かった探索者たちのように、自分も強くなって、誰かの勇気となれるよう。あるいは、嫌なことを嫌だとはっきり伝えられるぐらい、自分に自信をつけるため。
寛治は疲労がたまってきた体に鞭を打ち、再び動かし始めた。
「1……2……!」
ただ漫然と竹刀を振るのでなく、今、自分の肉体がどういう風に“連動”しているかを意識する。師匠から耳にタコが出来るほど諭された無駄のない動きを想定するも、理想からは程遠い。
常に見守られていた反動だろうか。
自分一人のトレーニングは、本当に正しい道を歩めているか不安になる。
それでも寛治に出来るのは愚直に鍛えることだけだ。
ああ、でも、もしこの場に師匠がいたら――
「右に力が入りすぎー、バランス配分考えてねぇ」
――たとえばそう、こんな風に辛口評価を下すはず。
もはや慣れ親しんだ愛の鞭だ。
寛治は待ってましたとばかりに声を出した。
「はい! ……はい?」
それから首を捻る。
おかしい、まるで頭の中の師匠が本当に喋ったみたいだ。
寂しすぎて、つい幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。
「って、誰!?」
落ち着いて考えれば幻聴なわけがない。
寛治は己に話しかけてきた人間の正体を確かめるため、後ろを振り返ろうとした。
しかし。
(なっ、体が……動かない……?)
まるで金縛りにでもあったかのように体の自由が効かなくなる。
今までにない経験は寛治の脳みそに混乱をもたらした。
急激に膨れ上がる不安。心は千々に乱れ、上手く考え事が出来ない。
そんな真っ白になった頭――思考の空白地帯に、落ち着いた、ともすれば眠くなりそうな声が降ってくる。
「集中。よそ見してる暇なんて無いでしょー」
「あ、の……?」
「大事な友だちへ会いに行った帰り。ふと気になって、ちゃんとやってるかなぁと見にきてみれば……。なぁに、その体たらくは」
「へ。もしかして師匠……だったりします?」
「気付くのが遅い、60点」
声の正体が分かったところで寛治の混乱は収まらない。むしろ余計にこんがらがって目を白黒させる羽目になった。
まずもって、師匠が何故こんなところにいるのかというのが一つ。
それから彼にとって師匠は薄いホログラムの向こう――コメント欄だけに生息する存在だ。姿どころか声すらも聞いたことがない。実際にコメントを通じて会話してきた以上、その実在は疑いようもないが、突然目の前に現れるとさすがに困惑が勝つ。
何より、少し甘やかなこの声音は。
(嘘だろ、女の子……!? 師匠が?!)
いや、まだだ。
まだ、顔を見てみないことには分からない。
特に声なんてものは、案外それだけ聴くと年齢不詳に感じるものだ。寛治だって昔、友だちの家に電話して本人だと思いながら喋っていたら、実は友だちのお父さんだったという経験をしたことがある。
あの時は恥ずかしくて死ぬかと思った。
携帯電話が主流の昨今、島ではまだ固定電話が我が世の春を謳歌していた。
「え、と。師匠?」
「なにかなー」
「なんか体が動かないんですけど、これ、師匠が……?」
「うん」
「いや、うんって……」
そんな事も無げに体の自由を奪わないで欲しい。何よりどうやってそれを為しているのかが分からない。実は師匠は一子相伝の技を受け継ぐ暗殺者で、自分は人体を麻痺させるツボでも刺されたんじゃないか――と益体もない妄想が寛治の脳裏をよぎった。
何せこの世は今、大ファンタジー時代だ。ダンジョンなんてものが存在する以上、荒唐無稽な妄想も多少は成立するような気がした。
「寛治がサボろうとするからだよー。ちゃんと再開するなら解いてあげるけどー?」
「します! しますから早く何とかしてください!」
「えー」
「師匠~……!」
「なら一つ、約束して」
不意に寛治の背に伝わる感触。
ひんやりとして冷たいそれはきっと師匠の指先で、意識を取られるのも束の間、ぽつと言の葉が躍る。
「――絶対に振り向いたりしないこと」
寛治に許されているのは口を動かすか、頭を働かせることだけ。
だから師匠が何を伝えようとしているのか、懸命に考える。
「わたしと君は師弟関係を結んでいる。だから君が求める限り、私は出来る限りの知恵を授けるつもりでいるよ。けれど、それ以上は望んでいないんだ。この関係が壊れるのを恐れている、と言っても良い」
「俺は……。師匠が何者だとしても、態度を変えたりなんてしませんよ」
「もちろん、寛治はそう言うと思っていたよー。ただ、何て言えばいいのかなぁ……意識の問題なんだぁ。たとえ考えないようにしても、一度知ってしまったら最後、言葉越しにわたしの顔が思い浮かぶようになるでしょー? それは邪魔だし、嫌なの」
今までだって寛治は、師匠がどんな姿をしているか想像したことはあった。
矍鑠とした老人、あるいは暇を持て余した武術の達人。はたまた大量の書物に埋もれた線の細い賢人。
だがどれもしっくり来ず、浮かんでは消してきた。
その答えが目の前にあるなら知りたいと思うのが当然だ。
ただ、嫌がる相手を問い詰めてまで知らなくてはいけないことなのだろうか。
「わたしはね、寛治の友だちになりたいわけでも、馴れ合いがしたいわけでもない。君の“師匠”でいたいんだ」
どうして顔を見せないことが師弟関係を保つことに繋がるのか、寛治には分からない。分からないが、そこに師匠が大切にする“一線”があることは分かった。誰しもが持つ、越えられたくない最後の一線。
たとえば寛治なら郷里の人々。
自分はどんなに馬鹿にされても平気だが、家族や島の人間を侮辱されたら心の底から腹が立つ。寛治が大学で一人浮くことになった原因であるそれは、矜持と言い換えても良いだろう。
(誰だろうと、師匠は師匠)
裏を返せば――
(顔かたち、ましてや声なんか些末なことだ。そんなものに気を取られるな、俺)
師匠が嫌だと言っているのだから、それでいいじゃないか。
寛治は一度しっかり目をつむり、力強く頷いた。
「分かりました。絶対、師匠の方を向いたりしません」
「よろしい。それじゃあ、素振りはじめー」
「はい!」
気がつけば寛治の体は自由を取り戻していた。
天高く竹刀を掲げ、裂帛の気合いと共に振り下ろす。
「いーち!」
「ダメダメ、力みすぎ。そうじゃないでしょー?」
「にーい!」
「君の腰は飾り? 何のためについてると思ってるの?」
「さーん!」
「…………はぁ」
コメント越しではない、リアルタイムのコーチングだからだろうか。
今日はいつにも増して師匠が辛口だ。
特大のため息に、次は何を言われるのかと寛治は身を硬くする。恐れからでなく、緊張からだ。
すると。
「いい? こうするんだよー」
「っ……」
汗ばんだ寛治の手の甲を、後ろから真っ白い手が包み込んでいた。
冷たくて、それ以上に驚きで声が出てしまいそうになる。
寛治の師匠が突然、彼の手を取ってきたのだ。
そのまま上へ持ち上げて、一閃。勢いよく振り下ろす。
「寛治? ……聞いてる?」
不甲斐ない弟子のため、剣の振り方を体で教えてくれようというのだろう。コメント越しでは不可能な今だからこそ出来る教授法だ。
きっとこのために師匠は足を運んでくれたに違いない。口は悪いが、いつだってその裏に優しさが見え隠れしている人だから。
ゆえに、嬉しい。
嬉しいのだが――
(ち、ちかっ……てかなんかめっちゃ良い匂いする……!?)
――つい最近成人したばかりの純朴な青年には、少々刺激が強すぎた。
白衣の袖から覗く、白く柔らかい手。
うなじをくすぐる髪の毛に、甘やかで安らぐ声。
そして記憶にない花のような香り。
寛治は師匠の姿を見ることが叶わないから、その性別も推測するしかない。十中八九、女性だと思っているが、決めつけは良くない。もしかしたら男性かもしれないのだ。もしそうだったら寛治の頭はいよいよ爆発してしまう。
うっかり、開けてはいけない禁断の扉が開くだろう。
一方で、師匠の目は鋭かった。
「わたしの見込み違いだったかなぁ。寛治、君の覚悟はその程度?」
ぞくり、と寛治の肌が粟立つ。
浮ついた心が一気に引き締まる思いがした。
――何故強くなろうとしているのか。
自分を見失って、流されるまま生きるのが嫌だったからだ。
だったら、惚けている暇などないだろう。
父を想う。母を想う。
弟と妹と、郷里に残してきた友だちや――涙を堪えて見送ってくれた幼馴染を思いだす。次に会う時は自信を持って彼女に再会できるよう。
寛治は竹刀を自分へ立てかけるよう置いて、空いた両の手でぴしゃりと頬を叩いた。それから出来得る限りの声を張る。
「っ、すいません! もう一回お願いします!!」
「二度はないよ」
「はい!」
師匠は言う。人間の可動域は歯車のようなものだと。
各部が密接に繋がり、連動して事を為す。たった一本指を動かすだけで、そこには幾重もの力が働いている。だからその一つ一つに対して、極限まで無駄を減らせと。やがて思考するまでもなく、“振る”のではなく“振るっていた”ら完成だ。
果たして、ただの人間がそんな境地に至れるだろうか。
寛治の胸に怯む心が無いといえば嘘になる。けれどそれ以上に師匠を信じている彼は、教えられるまま竹刀を振るう。
「違う。今度は肩が上がりすぎ。さっきと比べて0.2ミリ。分かる?」
「分かりません!」
「なら分かるまでやる」
「はいッ!!」
そうして高かった日がすっかり傾くまで、時折水分も補給しながら五時間。
寛治は真面目に修練をこなし続けた。
いい加減、腕が上がらなくなってきたのもさることながら、何より頭が重い。いかに普段から自分が無意識で体を動かしていたのかが分かる。まさか、考えて肉体を操作するのがこんなにも知恵熱を生むとは思わなかった。
疲労困憊の中、それでも繰り出した一刀。
「――あ」
瞬間、寛治の脳内に稲妻が走った。
ダンジョンの中で〈剣士〉スキル【袈裟斬り】を発動した時と同じだ。するりと、何の抵抗もなく刃が落ちる感覚。
理屈でなく、これだと知覚した。
「うっ……!」
どうやらアドレナリンが切れたらしい。
手の平の豆を潰した痛みが今さら襲ってきて、寛治は竹刀を取りこぼした。その背に拍手が贈られる。
「お疲れ様、寛治。最後のは100点だったよ。その感触を忘れないでねー?」
「……ぜっ……はっ……は、ぃ……」
正直、もう一度同じことをやれと言われたら再現出来る自信が寛治にはない。だが、正解を知っているのといないのとでは大きな違いだ。
べしゃりと地面に倒れ込みながらも、彼は達成感に満たされていた。
「それじゃあ、わたしはそろそろ行こうかなー」
「あり、が……」
「感謝の気持ちがあるならダンジョンで示してねぇ」
「……あ……い……」
土を蹴り、踵を返す音。
期限付きのトレーニングは終わりを迎え、一時の別れを寛治にもたらす。
――顔が見えなくたって、師匠は師匠。
どうせまたすぐ配信で会える。
そう思っても一抹の寂しさがよぎるのは、もしかしたら、こんな風に師匠と会うことは二度とないかもしれないからだ。あくまで、深く干渉してくるなと。
寛治は息を整え、眠たげに瞑目した。
「――もし、どうしても」
穏やかな声は上から降ってきた。
今、寛治が目を開けたら、そこに師匠の姿が映っているのだろうか。
「どうしても君が、わたしに会いたいというのなら」
鼻の先に何かが当たった。
ちょん、と一瞬触れてすぐに離れたそれは、きっと師匠の指で。
「昇っておいで、ダンジョンの最奥まで。どれだけ時間をかけてでも。その先にわたしはいると思うから。…………たぶんねー」
空気が揺らぐ。
そして静寂が訪れた。
寛治はゆっくりと目を開ける。予想通り、そこには何もない。
あるのは空。星が瞬き始めた空だけだ。
大きな月が煌々と輝いている。
「…………」
今の今まで自分は寝ていて、夢でも見ていたんじゃないか。
そんな考えは、汗が乾きべっとりした肌と、じくじく痛む手の平が否定してきた。ならば師匠は――謎めいたあの人は、どこから来て、どこへ行ったのだろう。実は月から来たんですと言われても、寛治は妙に信じられるような気がした。
「……いや、何者なんですか、師匠。さすがに気になりますよ」
思わず苦笑して、零した呟きに答える者はいない。
もっとも、誰に聞いたとしても正解は出てこなかっただろうが――
とにもかくにも、この日、園田寛治は師匠の導きによって極意の一端を学んだ。
遥か険しい山脈の裾野に一歩、足をかけたのだ。
それは小さいけれど大きな一歩で。
その代償として、彼がしばらく誰にも言えない悩みを悶々と抱えるハメになったのは言うまでもない。




