記憶の扉・下(石村春紀)
【連続投稿 2/2】
夢を見ていた。まだ秋斗が生きていた頃の穏やかな夢。
久しぶりの休みが取れて、寝足りない気持ちを抑えながらも、愛する息子を膝の上に乗せて一緒に本を読む。至福の時間だ。
ハウスキーパーを雇い、暮らしには苦労させていない。それでもこうして二人の時間を作ると、どうしたって考えてしまう。本当はもっと家に帰ってくるべきなんだろうと。たとえ裕福でなくっても。
『……秋斗、ごめんなぁ』
『んー?』
『いっつも一人にさせちゃって。秋斗は平気かもしれないけど、父ちゃんは寂しいよ。おおん、おおん』
嘘の鳴き真似をすると、膝の中で小さい命がきゃらきゃらと笑う。
『パパ、さみしい?』
『うん、そう。すっごく寂しい』
『そうなんだー』
『そうなんだー……って、こいつめ! うりうり! お前はどうなんだ!』
『きゃははっ、パ、パパ! くすぐったいよ!』
春紀が秋斗の脇や膝をくすぐる。ただでさえぽかぽかの体温がかっと熱くなって、くっついている自分まで汗をかきそうになるが、それでも手放す気になれない。
散々笑い転げてから、幼子はいった。
『ぼくはへいきだよ』
はっきりとした口調。
適当に答えているわけではなく、しっかり考えたうえでの発言だと分かった。
『それは、どうして?』
『だってぼくのパパは――』
瞬間、光が差す。
その光は、夢の帳が上げられた合図だった。
休息はほんの一片。
また、絶望と苦しみの人生が幕を開ける。
春紀が目を覚ますと、そこは気を失う前と変わらず濃い緑に埋め尽くされた洞窟だった。寝ている間に怪我が治った、なんて都合の良いこともなく、音が聞こえない世界で頭の痛みだけが現実だと教えてくれる。
「う……」
体調ははっきり言って良くない。
それでも久しぶりにまともな睡眠を取ったからだろうか。
妙に視界がすっきりして、考えもまとまる。
(誰も僕に気がつかなかったのか……?)
春紀が倒れていたのは第一層の入り口から少し歩いたところだ。ダンジョンの中でも特に人通りが多く、普通は踏まれたり、発見されて起こされそうなものだが。
単純に考えると、探索者が新しく入ってこなかったということになる。
もしかしたら周囲の異常と関係があるのかもしれない。
(そういえばあの時、草を抜いて――!?)
ふと右手を見たら、掌中に干からびた人参のようなものが握られていた。どう見ても人型で、うらめしそうな顔をこちらへ向けている。叫んで放り出さなかったのは、偏にそんな元気もなかったからだ。
一体、この摩訶不思議な植物はなんだろう。
「【鑑定】」
春紀に与えられた職業、〈錬金術師〉のスキルで確認したところ、マンドラゴラというモンスターの死骸であることが分かった。万病に効く薬の素になるらしいが、採取方法が悪く、質が大幅に劣化しているとも。
最後の情報はさておき、気になる文言が一つ。
(万病に効く……今更、どうして)
最愛の息子を助けられなかった自分への当てつけだろうか。
そんな都合の良い物がこの世に存在するなら、どうしてもっと早く現れてくれなかったんだ。何度も何度も恨んだ神に、今再び怒りを燃やす。
もっとも、その怒りは長く続かなかった。
(……帰ろう)
今日はなんだか死にに行く気力も湧かない。何か良い夢を見ていたような気もするが、既に曖昧で、輪郭がぼやけていた。
「【保管庫】」
薬の素材になるのなら〈錬金術師〉の収納スキルに入るだろう。その予想に違わず、干からびたマンドラゴラは小さな薬箱に収まって、春紀は出口の方へ足を向けた。
ダンジョンでは、外に出る時に怪我が治るというシステムがある。
古傷は治らないが、少なくとも探索中に負った傷であれば脱出時に自動で治してもらえるのだ。これを過信して全滅するパーティーも珍しくないが、ともかくすぐそこにある扉をくぐれば、この頭痛ともおさらば出来るだろう。
実際、第零層へと逆戻りした瞬間、わっと音の洪水が押し寄せ足が止まった。
「人払いはどのくらい済んだ!?」
「既に九割九分達成してます!」
「閑散期で助かったと言うべきかしらね……」
「被害状況の確認が出来ました。これから検証班へ渡す資料を――」
探索者協会は正に蜂の巣をつついたような騒ぎで、職員たちが右へ左へ走り回っている。その中の一人が目ざとく春紀の姿を見つけ、駆け寄ってきた。
「もしかして帰還者の方ですか!?」
まだ年若い、大学生くらいの少女だろうか。
協会の制服をきっちり着こなし、清潔で可愛らしい雰囲気を纏っている。昨今のカスタマーハラスメント対策か、名札をつけていないため名前は分からない。
「え、えぇ……まぁ……」
「すみませんが、ダンジョン内の話を聞かせてください!」
「ちょっと待ってください、何がなにやら」
「……? ダンジョンから出てきた、んですよね? いつもと様子が違いませんでした?」
「ああ、それなら――」
第一層に入ったら普段と景色がまったく違っていたこと。油断して地面の草を引き抜いたら、“罠”が発動して今の今まで気絶していたこと。ひとまず、春紀が知っている情報を伝えていく。
結果、ほとんど既知だったらしく、すぐ解放されることになった。
むしろ春紀が職員から教えてもらったことのほうが多いくらいだった。
(マンドラゴラの異常発生、か……)
通りでいつもと勝手が違ったはずだ。
もしマンドラゴラの絶叫が死をもたらすものであったら、春紀にとってこれ以上ないほど好都合だったが、あくまで気絶止まり。しかも、今はダンジョンに関係者以外立ち入れないときた。
一気に疲れが押し寄せ、肩を落とす。
(……そういえば【保管庫】の中にアレが、いや、いいか)
さりげなくマンドラゴラの遺骸を拾ってきたことを報告し忘れたが、わざわざもう一度声をかける元気がなかった。
それにどうせ【保管庫】はダンジョン内でなければ発動出来ないのだ。
ダンジョンの外へ持ち出す、なんてことも不可能だ。
ゆえに、春紀は結局その日……。
重たい足を引きずりながら自宅へ帰っていくのであった。
◇ ◇ ◇
毎日、何度も何度も精神を削り続けてきたからだろうか。
思い返せば、春紀にはここひと月の記憶がなかった。ダンジョンと、ゴブリンと、飛び散る自身の血潮。それ以外の光景がひどく曖昧で、朧気だ。
そう言えば、最後に妻と子の遺影を拝んだのは――
「…………」
ぼんやりとリビングの天井を見上げる。
テレビから流れてくる情報は、まるで別世界の話を聞いているみたいだった。きっと山籠もりしていた人間が久しぶりに下界を訪れたら、こんな気持ちを味わえるに違いない。あるいは浦島太郎か。
「……何、してたんだっけ。こういう時」
事態の解明が住むまでダンジョンの中に入れない。
そうなるとぽっかり時間が空いてしまった。
寝ても覚めてもダンジョンで死ぬことだけを考えてきた男に、その暇はあまりにも毒で。じくじくと彼の精神を蝕む。
余裕なんて欲しくない。
だって暇さえあれば思い出してしまうから。
家族のことを。
無力さを。
惨めさを。
何も残っていない、空っぽな自分を。
(うわ、メッセージ溜まってる)
ふと、暗い部屋にスマートフォンが光っているのに気がついた。
確認すると、ほぼ毎日、友が自分を心配してメッセージを送ってくれていたらしい。申し訳なく思う気持ちと、放っておいて欲しい気持ちが綯い交ぜになって、何も返さずに電源を落とそうとし――最後の連絡が五日前で途切れていることに眉をひそめた。
それまでは一日と欠かさず連絡が来ていたというのに。
だが、理由はすぐに判明した。
“下の子がヒルタ熱をもらってきちまったらしい。忙しくなるから連絡できない。無事、回復したらまた教える。すまん!”
そのメッセージを最後に、もう120時間が経過している。
ということは、まだ治っていないのだろう。
今も散々テレビがまくしたてているので、新型の感染症については大まかに理解できた。思い浮かぶのは、まだ乳歯も生え変わっていなかった友の子どもだ。あどけない笑顔を浮かべて、自分にもよく懐いてくれた。
そういえば「げんきだして」という手紙も貰っていたような気がする。
「……きっと大丈夫。誰かが……助けてくれる」
うわ言のような言葉は一人の部屋に溶けて消えた。
「だれ、かが……」
そんな都合のいい誰か。
自分の時にはいなかったじゃないか。
どんなに望んだって、奇跡なんか起きなかったじゃないか。
きっと今も苦しんでいる子どもに、どうして無責任な展望をぶつけられる?
手の中にあるのは、錆び付いた医師としての矜持だ。
そして〈錬金術師〉という超常の力と、ダンジョンの“意思”を信じるのなら、あらゆる病を治すという薬の素材が転がっている。
時間の針は巻き戻せない。
だから過去に戻って秋斗を助ける、なんてことは出来ない。
もはや春紀の本懐を遂げることは出来ない。
それでも。
「――行かなきゃ」
へし折れ、粉々になったはずの心は、勝手に前へ向かって走り出していた。
取る物も取りあえず、春紀は東京摩天楼へと舞い戻る。
相変わらず第一層や転移陣への扉は封鎖されていた。だが、彼の目的はそこにない。第零層の中でも「工房区画」と呼ばれる場所へ駆けつけ、最奥にある生産職専用の加工スペースへ転がり込む。
春紀が思うに〈錬金術師〉の力とは“短縮”だ。
本来いくつもの機械を使い、時間をかけてこなす工程を一足飛びに蹴っ飛ばす。
第一層のゴブリンが春紀に痛痒も与えられなくなったことで、困った彼は〈錬金術師〉のスキルに頼って毒薬を作ることにした。それで先の階層へ進み、再び死を繰り返してきたのだ。
だから〈錬金術師〉が持つ力については、ある程度理解している。
たとえば有名な初級ポーションは、まず魔石と水を用意し、両者をスキルによって【合成】させることで触媒を生み出す。そこにダンジョンで取れる素材から回復成分を【抽出】し、触媒と合わせて【錬金】することで完成する。
ただ魔石を砕いて水に混ぜても同じ結果にならないので、スキルという超常の力によって、何か、まだ人類が見つけていない反応が起きているのは事実だ。しかし結局のところ、やっているのは化学と変わらない。
――ならば、万能薬とて同じこと。
マンドラゴラという素材を軸に、どうすれば薬になっていくのかをイメージするのだ。たとえば古来より漢方にも使用されてきた高麗人参は、歴史上、どう使われてきたか。
手持ちのスキル、【乾燥】【分解】も何かに使えるか。
あるいは他の技ならどうだ。
少しでも息子のためになればと駆けずり回って集めた知識が、今――新たな扉を開く鍵となる。
「【初級錬金】……!」
レベル1にして覚える基本のスキル。
それゆえに奥義でもある代名詞が、この実験に終止符を打つ。
幾多の加工を経て並べられた素材たちが黄金色の輝きを放ち、その果てに一服の粉薬へと変わった。たったの一回分しか出来なかったのは、元のマンドラゴラが萎びていたからだろうか。分からないが、春紀は息を呑みながら包み紙を持ち上げた。
「【鑑定】」
果たして、その出来栄えは。
眼前に表示された鑑定結果を食い入るように見つめる。
“【パナケイア(劣化)】――ありとあらゆる病を治し、健康を取り戻す万病薬の劣化品。その効力は正真に遠く及ばないながらも、千の病魔を退ける。かつて一人の錬金術師は、この薬を生み出してしまったがために、国中の薬師を敵に回したという。始まりは、純然たる願いだった。”
無我夢中だった。
ただひたすら、突き動かされる衝動のままに挑んだ。
たとえば何か一つボタンが掛け違えば、きっと結果は違っていたろう。
だが確かにこの時、春紀が伸ばした指は掴んだのだ。
「……でき、た?」
ダンジョンがもたらす可能性。
誰もが待ち望んでいた“奇跡”を――
◇ ◇ ◇
光の下、元気に笑っている妻の写真と、滑り台の上で自慢げな顔を見せる息子の写真。
二つの遺影を前に、春紀は黙って座り込んでいた。
一人きりのアパートは何の音もせず静かだ。
思い出すのは昨晩のこと。
ダンジョンは――少なくとも日本に限っては、中と外で物の持ち出しが厳しく制限されている。それでも春紀が作った薬は、彼の病的なまでに痩せ細った見た目と相まって、持病の薬だろうと判断されてスルーされた。
そうして一路、友の元へ。
まずは家を訪ねたところ、当たりだった。
都内の病床が埋まり、自宅療養を余儀なくされていたのだという。友は突然の来訪に驚いた後、片付けもままならず散らかり放題のキッチンを横目に、患者――子どもが病臥する寝室に案内してくれた。
一向に熱が下がらず、今朝からついに体温が40度を超したという子どもは、苦しさに喘いで玉のような汗をかいていた。
出来ることは何でもやったのだろう。保冷剤、替えのタオル、開けられていないフルーツ缶、市販の解熱剤。いろんなものが散らばって、まだら模様を形成していた。その中心地で息も絶え絶えに苦しむ小さな命に、春紀は「パナケイア(劣化)」を取り出す。
祈るような気持ちで処方した薬はあっという間に効力を発揮し、
『はぁ……はぁ…………あれ?』
きょとん、とした顔で患者を起き上がらせるのだった。
あまりにも即効性があり過ぎて、本人もびっくりしてしまったらしい。
目を閉じれば、涙を流してお礼を言う友と、満面の笑みを浮かべる子どもの姿が鮮やかに浮かぶ。あの瞬間はただ助けられてよかったという想いしかなかった。しかし、時間を置いたことで他の気持ちも湧き上がってきた。
朝日に縁どられた遺影を前にして、呟く。
「……父さん、“ありがとう”って言われちゃったよ。そんな言葉聞いたの、いつぶりかなぁ。もう思い出せないや」
仕事を辞める前は医師という職業柄、聞き飽きるほどに浴びた謝辞。
いつしか当たり前だと聞き流していたけれど、久しぶりに受け取ったその言葉は、乾いた大地に水が沁み込むように春紀の心を潤した。
「母さんもお前も助けられなかった僕に、受け取る資格なんて無いのにね」
何度も何度も吐き出してきた後悔。
自分を責めなければ気が狂いそうだったから。
思い返す。ダンジョンに初めて入った時、微かに見た秋斗の幻影は泣いていた。あれはきっと情けない父を糾弾する、恨みの涙だったに違いない。
そうでなければいけないんだ。
「分かってるさ。たった一人救えただけ。それも僕の力じゃない。ダンジョンの力だ。僕は……何一つ凄くない。だからそんな目で見ないでくれ……!」
頭を抱えてうずくまったところで、脳裏に焼き付いた幻が消えてくれない。
いっそ発狂してしまえば楽なのに。
――――ゴトッ。
と、その時。
春紀の背後で音がした。
何かと思って振り返れば、なんてことはない、ただ本棚から本が落ちてきただけ。
それにしたって少し不思議だが、それだけだ。
しかしその本の表紙を見た時、春紀は思わず腰を浮かしていた。
(……あの図鑑は)
忘れもしない。よく秋斗が読んでいた植物図鑑だ。
家に帰ってくると何が楽しいのか、よく自分に内容を聞かせてくれた。
たまの休日など、秋斗を膝の上に乗せて一緒に読んだものだ。
そういえば、あの時も――
『ぼくはへいきだよ。だってぼくのパパは……』
――確か、その続きは。
想い出に導かれ、記憶の頁が手繰られる。
自責と妄執により忘れていた、大切な言の葉が蘇る。
この腕の中、愛しいあの子は教えてくれたはずだ。
『たっくさんの人をたすけるお医者さんなんだもん!』
だから、ちっとも寂しくないよ。
そう笑っていた、いつかの日常。
「あ、あぁ……!」
絶対に忘れてはいけなかったのに。
思い出すと辛いから、動けなくなるから、厳重に封をしてしまい込んでいた。
輝かしい沢山のエピソードとともに。
「……う、ぁああ」
溢れ出す。堰を切ったように、止め処なく想い出が溢れ出す。
今分かった。秋斗が泣いていたのは苦しいからじゃない。恨めしいからじゃない。憧れた格好良いはずのパパが、悲しみに囚われて道を踏み外していたからだ。違うよ、そっちじゃないよと、懸命に伝えようとしてくれていたのに。
「…………ごめん」
自分は今の今まで、一体何をやっていた?
「ごめん、ごめん秋斗っ……! 助けられなくて、ごめん……守ってやれなくて、ごめん……いっぱい遊んでやれなくて、ごめん……寂しい思いばかりさせて、ごめん……それから、それからっ……!」
気がつけば春紀の目から涙が零れていた。
遺影は何も答えない。ただ在りし日の笑顔が見つめ返してくれるだけ。
だからこれは全て自己満足だ。
「――ヒーロー失格でごめんなぁ……!」
本当に息子のためを思うなら、へこたれている暇なんてなかった。
ダンジョンで無為に命を散らして、幻影を追いかけている時間なんてなかった。
「お父さん、もう一度だけ頑張るから……秋斗が自慢できるようなパパになるから!」
挫折を経験した人間は強い。もうちょっとやそっとの衝撃で倒れなくなる。生まれた瞬間から完全無欠な英雄なんて存在しない。出会い、別れ、成功、失敗、幾多もの経験を経て誰しも強くなっていく。
だから、たとえヒーローと呼ばれるような存在であっても。
「――今だけは、いっぱい泣いてもいいかなぁ……?」
羽休めが必要な時だってある。
そうして、また空高く飛び立つのだ。
泣き崩れる春紀の体を、冬の柔らかい日差しは暖かく撫でつけ、地に落ちた植物図鑑の装飾が、その明かりできらりと光っていた――
以来、石村春紀が亡き息子の幻影に悩まされることはなくなった。
正確にはそんな暇もなくなってしまったというべきか。
彼が協会に提出した「パナケイア(劣化)」のレシピは改良が加えられ、劣化の文字が取れることこそなかったが、最終的に一匹のマンドラゴラから二十服の薬を生み出すまでに進化していく。
その薬がヒルタ熱への処方薬を開発する時を稼ぎ、大きく世界へ貢献することになるのだが……。
人から尋ねられるたび、春紀はその功績を誇ることもなく、いつでも「息子のお陰なんです」と、はにかんで答えたという。