記憶の扉・上(石村春紀)
【連続投稿 1/2】
あれはまだ暑い――夏も盛りの頃だった。
その日、石村春紀は“全て”を失った。
治療室に響き渡る心停止の音。
施術も空しく、手の中からすり抜けていく命。
一人息子の秋斗が天へと旅立った瞬間だった。
産後の肥立ちが悪く、早世してしまった妻の代わりに守ると誓ったのに。息子もまた先天性の心疾患を乗り越えることが出来ず、儚く散った。
春紀は医師だ。地元の小さな病院で昼夜となく働いてきた。
家で寂しい思いをさせてしまう秋斗のために、せめて何か出来ないかと考え、やがて来る外科手術のため、少しでも負担がかからない手術器具の開発に力を入れてみた。だが所詮、一人の力など限られている。
奮戦空しく、結果は実らなかった。
――どうせ助けることが出来ないなら。
無駄なことに時間を使わず、もっと息子と遊んでやれば良かったのに。
自分が救うんだとエゴを全開にして、何になったというのか。
ただただ、後悔しかなかった。
生きる目的を失った春紀はやがて仕事を辞め。
日がな一日、遺影の前でぼんやりと時を過ごすようになった。寝食も忘れ、ガリガリに痩せ細っていく春紀を心配した友が、彼を外に連れ出すまで、いつまでもマンションの一室に閉じこもっていたのである。
――人生観が変わるらしいぜ。あそこならきっとお前も……。
そう言って友が案内してくれたのは、東京摩天楼と呼ばれるダンジョンだった。ちゃっかり春紀の分まで探索者ライセンスを申請し、取得手続きに付き合ってから、かれらは連れ立って「ゴブリン窟」へと入っていった。
といっても、半ば春紀を引きずるような形でだが。
当然、戦う意思を持たない人間がモンスターに敵うはずもない。
ゴブリンは東京摩天楼最弱と言えど、武器を操る人型の敵だ。
逃げることも、立ち向かうこともしない、曖昧な覚悟のまま頭部へ致命的な一撃を貰い、春紀は為す術なく死に戻りした。
刹那、生まれる空白。
その瞬間、春紀は確かに――
「秋斗……!?」
――亡き息子の影を見た。
何か言いたげに己を見る小さな影。
それに向かって手を伸ばそうとした瞬間、目が覚めた。
霊魂か、はたまた妄執が見せた幻か。
だが確かに、そこに息子の気配を感じたのだ。
きっと蘇りの奇跡によって、一時的にあの世とこの世の境へ近づいたに違いない。
興奮を隠せず春紀はそう判断した。
もし天使さまが聞いていれば、リスポーンシステムは死者蘇生でなく、ただの安全機構だと強く否定しただろう。只人から見れば生き返っているように見える御業も、仕掛け人からすれば、状態を戻して外へ排出しているだけだ。
しかし春紀は見てしまった。
涙を堪え、何事か口にしようとしている息子の姿を。
刺激的なアトラクションだったな、と空元気で笑い飛ばす友に対し、春紀は上の空で返事をしていた。その時、彼の頭の中にあったのはただ一つ。
――もう一度秋斗に会いたい。
どうすれば会えるのか? そんなの決まっている。
ダンジョンの中で死を繰り返せばいい。
そうすればきっと……。
異様な気配を察した友の言葉をのらりくらりと躱し、次の日から、春紀は東京摩天楼へ足繫く通うようになった。
その様を見て、友も活力を取り戻してくれたと思ったらしい。
一安心だと離れていった――春紀にとって、好都合なことに。
彼の目的はもちろん、ダンジョンの奥地を目指すことでも。
探索者として身を立てることでも。
未知の事象を解き明かすことでもなかった。
石村春紀は死ぬためにダンジョンへ潜っていったのだ。
誰ともパーティーを組まず、ゴブリンへ無茶な突撃を繰り返して、日に何度も何度もリスポーンした。終にはあまりにも頻度が高いので、心配した協会職員に声をかけられるほどだった。
死んで、死んで、死んで、死にまくって。
まるでそれが救いであるかのように無抵抗で殴られ続け。
しかし――息子の影が、再び彼の元に現れることはなかった。
もしかしたら怒っているのかもしれない。何せ自分は父親失格だったから。もっともっと罰が必要なんだ。だから殺してくれ。頼むから――魂がすり減り、消えてしまうくらい蘇らせてくれ。
そうしたらきっと、会えるはずなんだ。
落ちくぼんだ眼窩から鋭い眼光を飛ばし、骨と皮だけの体型にまで痩せ、幽鬼となった春紀は他の探索者を大いに震え上がらせた。中にはモンスターと勘違いし、攻撃を仕掛けた者もいるくらいだった。
もちろん春紀は責めなかったし、むしろ歓迎するように受け入れた。
そうして数か月。
もう一度だけあの子に会うまでは。その願いによって、最低限の生命維持を行っていた春紀は、ボロボロの状態になりながらも、まだかろうじて生きていた。
もはや一層のゴブリンでは彼の体に傷一つ付けられない。困ったことに殴られ過ぎて、春紀の肉体はその見た目に反し、頑強な耐性を獲得していた。
今日もまずは第一層の番人であるゴブリンウォーリアーを毒殺し、さっさと上の階へ向かわねばならない。そう思いダンジョンへ足を踏み入れた彼の目の前に、鬱蒼とした緑の海が広がっていた。
「なんだ……これは……?」
いつもの苔生した洞窟じゃない。
自分は間違いなく第一層への扉を潜ったはずだが――と焦ったのも束の間。すぐにどうでもいいことかと居直った。何故ならば、自分はここへ自殺に来ているのだ。異常、超常、大歓迎。むしろ死にやすくていいかもしれない。
それはそれとして、一体何の植物が生えているのか気になった。心疾患のせいで思うように運動出来なかった息子が、よく植物図鑑を見せてくれたから。
あの子が生きていたら正体を教えてくれただろうか。
何気なく、引き抜いてみる。
「――ギェエエエエエエエエエッ!!!!」
「!!??」
ずるりと引き抜かれた根は、四肢を持つ人間のような形をしていて。
しわがれた顔の部分が、身の毛もよだつ金切り声を放った。
「あ……が……」
至近距離でその叫びを聞いてしまった春紀は、まず鼓膜が破れた。
耳からの出血に加え、鼻血も吹き出す。
果てはぐるんと目が動き、白目を向いて気絶してしまう。
草葉の陰に倒れ伏した犠牲者の姿に、気がつく者はいない――