小心者の矜持(浦梅進)
その日、日本国第105代総理大臣・浦梅進は、朝から開かれた臨時の閣僚会議に出席し、黙って腕を組んでいた。
元から確固たる政治信念を持たない彼は、進んで発言するということをしない。
数々の難局を切り抜けてきても、そのスタンスが変わることはなかった。
それに自ら意見できるほどの知識もない。
何故ならば――
「事態は一刻を争います! このままでは先の二の舞、ヒルタ熱の蔓延を食い止めるなら今しかない……遮二無二構わず都市封鎖を実施すべきだ!」
今回の議題は、近頃、巷で猛威を振るう感染症対策にあったからだ。
専門的知識を持たない浦梅からすれば、医者が空気感染するのだと言えばそういうものかと信じるし、あくまで経済を回すべきだと力説されれば、それもそうかと頷いてしまう。だから下手なことは言わず、いつものように黙して聞き役に徹する。
浦梅はただ最終決定を下すだけ。それが分かっているだけに、閣僚たちは喧々諤々と舌戦を繰り広げていた。
「しかし……それでは折角到来した“黄金期”をみすみす逃すことに!」
「もっと段階を踏むべきでは? まず外出自粛令から……」
「いや、パンデミックが起きてからじゃ遅いだろう。そうなったら全部ご破算だ」
「どうせ何をやったって文句は出るんだ。多少バラまくつもりで――」
「おいおい! そんな金がどこにある!?」
新型の感染症ウィルスHCSS-17、通称ヒルタ熱。昨年はまだ海外でぽつぽつと症例が確認されているだけだったが、恐ろしい感染力でもって、その病はあっという間に猖獗を極めた。
何とか発生を抑えていた日本もまた例外ではない。どんなに感染経路を塞いだつもりでも、病は隙間から入り込み、水際対策は失敗に終わった。
外国に遅れ、まもなく爆発的な広がりを見せるだろうと予測されている。
人類がこれまで闘ってきた数多の流行病の記憶。
それがあっても、国政の舵取りは容易でない。むしろ刻まれた失敗の数々が、閣僚たちの心に重たく伸し掛かっているのであった。
ひとつ選択を間違えれば、おびただしい人命を損ねてしまう危険性。あるいは奇跡的に好調へ向かい始めた国の歩みを止めてしまうことへの忌避感。そうしたものに誰も彼もが揺れていた。
「そうだ! ポーションとやらがあるだろう! あれは使えないのか?」
藁にも縋る気持ちで飛び出した言葉。
しかし、列席していたダンジョン大臣の都木坂一鉄は首を振る。
「まっこと残念だがッ! ポーションには等級が存在する! 既に日本医療研究開発機構を通して臨床実験を行ったが、初級ポーションでは症状の緩和にしかならず、快癒に至らないことが分かっているのだ……!」
今日ばかりは“出遅れ侍”も気勢を失い、掘りの深い顔に苦渋の色が浮かんでいた。
「もちろん初級ポーションとて、重病患者にとっては神の祝福だ。死を遠ざけ、活力を与えてくれる。これまでに蓄えてきた分と、日産1,000本の供給量を鑑みれば、大いに時を稼いでくれるだろうッ!」
「も、もっと効力の強いポーションは手に入らないのか!?」
「……あるには、ある。だが中級ポーションは初級ポーションに比べ、産出量がまだかなり少ないのだ。到底、国民全員に行き渡る量ではない」
知らず、誰かの口からため息が漏れる。
議場は重苦しい空気に包まれ、一人、また一人と俯いていった。
「――やはり、ロックダウンを行うしかないのでは」
何度も打ち出された結論に、今回ばかりは抗う者も現れない。
ダンジョンの発生という未曽有の珍事。その風に乗って好景気に向かおうとしていた日本にとって、この選択は喜ばしいものではない。
それでも出席者たちは互いの顔を見回し、弱弱しく頷いていく。
「……また“巣ごもり”か。はは、世論は何と言うだろうな」
「むしろ英断だと言われるかもしれん」
「補助金を組むにしても、スピード給付は難しいぞ」
「しかし、やるしかなかろう」
迷いはあれど、進むべき道が決まった。
必然、閣僚たちは最奥に座る浦梅総理へ視線を向ける。
浦梅進はかつて、お飾りの総理大臣だった。
だから議論は常に、彼の頭の上を通り越して行われていた。今でもそれは変わらない。ただ飾りから象徴へ変わっただけだ。以前と違い尊敬は受けているが、かといって積極的に討議することを望まれていない。
それでも最後の最後、誰もが彼の言葉を期待する。
そこには明確に過去との違いがあった。
果たして、浦梅の出す結論は。
「私もロックダウンには賛成だ」
これまで散々、突拍子もない発言に踊らされてきた閣僚たちは、思わずほっと胸を撫で下ろす。彼らは心のどこかで、またあの“浦梅旋風”が巻き起こるのではないかと怯えていたのである。
一方で都木坂だけは口を一文字に引き結んでいた。
これまで各種報道に恨みを募らせてきた浦梅だ。
都市封鎖を選ぶか、選ばないかで、どちらの批判が大きいかを彼は冷静に判断していた。時流という名の空気を読むことにかけて彼のレーダーは天下一品だ。一方で、どちらにしても自分が矢面に立たされることに強い不満を抱く。
どうして自分が総理の時に限って、こんな問題ばかり起きるんだ。
少し前までは、いつものようにそう憤慨していた。
そのうえで。
「――ただし、ダンジョンの封鎖は行わない」
はっきりとした口調で打ち出された指針に、困惑のざわめきが起こった。
東京摩天楼を始め、ダンジョンはそのほとんどが人口密集地に発生している。必然、ヒルタ熱が猛威を振るいつつある首都圏や大都市を封鎖すれば、ダンジョンもまたその範囲内に収まってしまう。
あらゆる学校が休校し、博物館や図書館などの公共施設、どころか飲食業などの個人店までが戸口を閉める中で、ダンジョンだけは平時と変わらず開放すれば、どうなるか。分からない者など一人もいない。
政府が批判されるだけに留まらず、深刻な社会的分断が起きてしまう。
探索者はおろか、ダンジョンに関わる人間全てが“細菌保有者”“感染源”として差別されるようになってもおかしくない。正に愚策中の愚策だ。
たまらず疑念の声が噴出した。
「どういう意味だ……?」
「探索業を保護するということか? この状況で……?」
「それじゃあ何のためのロックダウンなんだ!?」
「経団連に限らず、各界からの不満が爆発するぞ!」
感染症の流行を抑えるための措置であるのに、24時間、様々な人間が入り乱れるダンジョンを開放したままにしては、道理が成り立たない。
水上船の底に穴を開けるようなもの。乗組員全てを巻き込む自殺行為だ。
「総理、あなたは一体何を考えておられるのですかッ……!」
思わず立ち上がった都木坂に浦梅がちらりと目を向ける。
その双眸に宿る光は正常で、少しも濁っていなかった。
「第一に。初級ポーションであっても、この難局を乗り切るための生命線であることには変わらない。探索者たちをダンジョンから追い出してしまえば、その命綱が断たれる。もちろん、それ以上に彼らがキャリアーとなって感染を広げる可能性もあるだろう。だから、君たちの懸念は十二分に理解できる」
浦梅内閣が発足してから、もう一年以上が立つ。
長らく総理と顔を突き合わせてきた閣僚たちは、背筋に緊張が走るのを感じた。今までにも何度か、こんな瞬間があったような――
「ポーション獲得のためだけなら、専門部隊を設立し、一般の探索者は立ち入りを禁止してしまえばいい。恐らくそれが一番スマートで、かつ批判の起きない選択だ。しかし……」
浦梅はそこで一度言葉を切り、出席者たちを見回した。
大の大人が雁首揃えてうろたえている光景。
それを作り出したのが自分だと思うと、浦梅の心にほんの少し可笑しさが募った。
「いつ何時も。我々はダンジョンの“奇跡”に助けられてきただろう?」
奇跡。今この場にいる誰もが、一縷の希望を切実に望んでいる。
だから、はっと息を呑む音が響いた。
「私は思うのだ。もしダンジョンなんてものが、この地球に生まれなければ……きっと私はこの場にいないし、君たちも随分顔ぶれが変わっていたに違いない。もしかしたら、歴代で一番任期の短い総理になったんじゃないかな。本当に――――いい迷惑だよ」
おそらく浦梅以外の人間は皆、最後の言葉を冗談だと思っただろうが、彼にとっては本音も本音だ。迷宮事変が起こる前はもちろん、起きてから、何度辞職したいと考えたか分からない。
あの手この手を駆使し、結果ドツボに陥ってばかりだった日々。
そんな浦梅の心は今も昔も変わらない。
いかに穏当に、あるいは有終の美を飾って総理を辞めるか。
これという政治信念を持たない彼にとっての行動原理。
とすれば。
ロックダウンは行う。けれどダンジョンは封鎖しない。そのチグハグさが浦梅を窮地に追いやるのならば、むしろ願ったり叶ったりだ。ようやく肩の荷が下りるというもの。
(あの子は……旭よりも小さかったな)
しかし、この時。
浦梅の胸にあったのは辞職とは別の覚悟だった。
「こうしている間にも、この国では老いも若きも、富めるも貧しきも、多くの人間が苦しんでいる。かれらには今、救いが必要なんだ。……奇跡が、必要なんだ」
先だって、浦梅はヒルタ熱に苦しむ患者を受け入れている病院へ視察に訪れた。
はっきり言ってパフォーマンスだ。国民に、家族にええかっこしいしたいがため動いたに過ぎない。実際、それもまた首相として大切な仕事である。
国難に立ち向かう医師たちを激励し、患者の中でも特に重篤な人間を、集中治療室の窓ごしに覗き込んだ。内心、戦々恐々としながら。
頼むからうつさないでくれよ――そんな考えは一瞬にして吹き飛んだ。
何故ならば、そこで。
――孫と同じか、下手をすればそれよりも幼い子どもが苦しんでいた。
小さな手はぴくりとも動かず、人工呼吸器に繋がれた姿があまりにも痛々しい。そんな悲劇は珍しくないとでも言うように、同じ症状に苦しむ人々を見て、子を持ち、孫にも恵まれた一人の人間として、浦梅の心臓が強く拍動した。
かれらは何か罪を犯したわけじゃない。
ただ運が悪かっただけだ。
どうしようもない運命に翻弄される命を前に、浦梅が出来ることはない。急に病気を治す魔法の薬は出せないし、勇気づける言葉も届かない。
ただ、彼の手には旗が握られていた。
だいぶ前から無理やり握らされ、捨てようとしていた旗だ。
逃げて、逃げて、逃げ続けて。
ちっとも上手くいかなくて。
何なら未だに「どうして自分が」と思っている。
ダンジョンなんて超常現象だけでも手一杯なのに、そのうえ新しい感染症まで流行るとは。任期の時に限って呪われているとしか言いようがない。
こんな荷物はさっさと放り投げて家に引きこもるのが正解だ。
初志貫徹、一意専心、ずっとそのために悪戦苦闘してきたのだから――
「特効薬が出来るのに後どれくらいかかる? それまでに何人の人間が犠牲になる? 分の悪い賭けかもしれない。それでも私は思ってしまうんだ。ダンジョンなら、と」
浦梅進は自己中心的な人間で。
国の未来なんぞ、クソくらえだと思っていて。
いっそ滅茶苦茶になってしまえとダンジョンを開放したら、歯車がかみ合うように、何故だか万事上手くいってしまっただけの男だ。少なくとも、本人はそう思っている。
けれど。
「私は、私の“悪運”に賭ける」
この瞬間だけは、どうしたって逃げ出すわけにはいかなかったのだ。
もし全てを投げ出し責任を放棄してしまえば、おそらく老い先短い人生、残り全てを、一生後悔し続けることになる。
業腹だが。許しがたいが。憤懣やる方ないが。
己が旗を振るしかないのだ。
「なぁに。どうせダンジョンが無ければ今頃瓦解していた内閣なんだ。それならこの暗雲を斬り払う奇跡が見つかる、僅かな可能性を信じて、ダンジョンと心中しようじゃないか」
もし失敗すれば、浦梅は喜び勇んで責任を取るだろう。
考えてみればローリスクハイリターンな策だ。それに気づいてしまえば心が軽い。
気を良くした彼は指を一本立て、ニヤリと笑った。
「それに……私は大凶以外、引いたことのない男なんだ」
一般的に、おみくじの中で大凶は最も出る確率の低い運勢だとされている。よほど不運を売りにしたクジでない限り、大凶を引くのが一番難しい。浦梅は68年の人生で、そんな大凶しか引いたことのない、とても稀有な人間だった。
いっそ、一周回って運が良いとすら言える。
つまりは豪運の持ち主だと説明したかったのだが。
「「「……?」」」
胸を張る浦梅に対し、閣僚たちは大いに首を傾げ。
ただ都木坂だけが目をきらめかせるのであった――