天使さま、一息つけない
気がつけば一月も既に半ばを過ぎていた。
つい先日まであった、あの新年を寿ぐ空気はどこへ行ったのやら。すっかり日常を取り戻した人々の様子を、俺もまたいつも通りに宇宙から見下ろす。
先日、ついに探索者たちによって第二十層の踏破を果たされた東京摩天楼をはじめ、世界各国のダンジョンの様子を、ロゼリア号の食堂で投影していて思う。
――万事、順調だ。
もちろん問題が一つも無いわけじゃない。
たとえばダンジョンの攻略深度は相変わらず国ごとでまちまちだ。それに職業格差なんて言葉も出てきている。あの職業は“アタリ”で、この職業は“ハズレ”だという風にレッテルを貼って、マウント合戦を繰り広げる輩がいるのだ。
なんとも人間らしいというか……。
ただ、そうした問題は地球人自身が、時間をかけて自分たちで解決すべきものだ。
少なくとも、この星にはもうダンジョンという文化が根付いたのだから、俺がすべき調整は細々したものを残すくらいだと思っている。たとえば不死系・蟲系モンスターがメインなせいで不人気なダンジョンのテコ入れをしたりとか、な。
それだって探索者が世界を飛び回るようになれば、それぞれの得意・不得意に合わせてダンジョンへ挑戦できるようになるので、すぐ解決する問題な気もする。
ともかく昨年からこっち、ずっと忙しかった管理者ライフも一旦は落ち着きを見せた。心配しないでも、後は岩が坂を転がっていくように、自然とダンジョンを軸にして世界が回っていくだろう。
もし気がかりがあるとすれば――
『レグ様、お茶がはいりました』
「……ん。ありがとうございます」
考え事に没頭していたら、いつの間にか目の前のテーブルに湯飲みが置かれていた。湯気が立っているものの、触っても熱すぎるということはない。
程よく飲みやすい温度に調節されたそれを手に取って、俺はお礼を言った。
相手は言うまでもなく、妖精種のフクレだ。
先日俺がプレゼントした中折れ帽子をちゃんと被って、お盆を抱え、今日もふよふよと浮いている。
「この香りは……ブルニンですか?」
「ハイ。飲む前からお分かりになるなんて、さすがデスね」
「まぁ特徴的ですから」
ブルニン茶は以前、ゼル爺と訪れた極寒の星で買った品だ。優れた霊子工学のお陰で、都市部は快適な生活を送っていても、一歩外に出れば銀世界。そんな星に住む住民たちが昔から愛飲してきたお茶は、覚醒効果と体温の上昇を促す。
きっとフクレは、俺がぼーっとしていることに気付いたんだろう。
つくづく良く出来た相棒である。
「ずずず……」
そういえば、昔は風邪を引いた時に母さんが生姜湯を作ってくれたっけなぁ。
少しだけ辛いお茶を飲みながら、そんなことを思い出す。
「ふぅ。お陰で、ちょっとしゃっきりしました」
『それは重畳デス。ところで、何をご覧になっていたんデスか?』
「あー……」
実は先ほどから、俺はダンジョンの監視映像を投影する傍ら、手の中で携帯端末をこねくり回していた。言っとくが、遊んでたわけじゃないぞ。
フクレが聞いているのはそのことだろう。
長椅子の座面をとんとんと叩く。
すると勝手知ったる様子でフクレが俺の横に腰かけ――というか乗った。
いつもの定位置、いつもの距離感。
後はフクレにも見えるよう、端末をホログラムモードに切り替えて……と。
「少しばかり、調べたいことがありまして」
幾つも展開されたタブに、ブラウザの検索結果やニュース記事、動画が映る。
ほとんど英語だが、中には日本語のものも少し。
『これは……地球のアーカイブ?』
「ええ。キーワードは“ヒルタ熱”です」
『ヒルタ熱』
俺にしては珍しく、ダンジョンともゲームとも関係のないブラウジングだ。
「昨年末から、地球ではこのヒルタ熱と呼ばれる感染症が蔓延し始めました。感染力が強く、罹患者は高熱を引き起こし、場合によって死に至るそうです。もっとも致死率は1%以下。過去、この星で猛威を振るった流行病に比べれば幾分かマシと言えるでしょう。ただ、発見されるのが遅すぎた」
『初期対応に失敗してしまった、というわけデスね』
フクレの触腕が右肩上がりのグラフを指す。それは感染報告者数をまとめたもので、今日に至るまで急激に増え続けていた。
『デスが、レグ様が罹患する心配は万に一つもないのでは?』
「そうですね。そこは何の心配もしていません。仮にかかったとしても自力で治せる自信がありますし」
あれだけポーションだ何だと景気よくバラまいた俺が病気一つ治せないんじゃ、恰好つかない。第一この体になってから、体調を崩したことなんて一度もなかった。寝不足くらいなら何度もあったが、その程度だ。
俺は頭を振って、フクレを膝の上に載せる。
「私が気にしているのはパンデミックです」
感染者が爆発的に増え、都市機能さえ停止してしまうこと。その未来は俺の生活に直接的な影響を及ぼさないが、俺の“仕事”には密接に関わってくる。
「感染症による社会の混乱は私たちのダンジョン運営にも暗雲をもたらすでしょう。ダンジョンの換気機能はバッチリですが、それを知る地球人はいません。閉鎖空間を忌避する流れになれば、探索業も場合によって、一時停止とする国だって出てくるでしょう。そも、外出禁止令や都市閉鎖が発動されれば同じことです」
『フムム……』
「ここまで首尾よく進めてこられましたが、少し足踏みの時かもしれませんね。まぁ元より長い目で見ていますから、構わないのですが」
何とはなしにフクレの触腕を揉んで、軽く伸ばしたりして遊ぶ。
どうにも先ほどから落ち着かない自分がいた。
「それに――――いえ、何でもありません」
『……?』
言いかけた言葉を喉の奥に押し込む。
幸い、故郷たる日本では今のところヒルタ熱の流行を抑えられている。だが、ゼロではない。もし何かの弾みで爆発的に感染が広まれば、親父や母さん、龍二の家にも魔手が届くかもしれない。
そうなった時、きっと俺はみんなの病気を治すだろう。
ただ――それ以外の人たちは?
たとえば日本にパンデミックが起きたとして、俺はそれを傍観するのか。
たぶん、俺なら何とか解決出来てしまう。でもそれって、既にヒルタ熱に苦しめられている国からしたら、どうなんだろう。もし俺だったら……ズルいと思う。なんで自分たちの時には助けてくれなかったんだって。
一人でも助けてしまったなら、その瞬間から業が生まれる。
十人、百人、千人、万人と救ったところで、終わりはない。
確かに俺はこの地球の開拓者だ。
でも、神様じゃない。
地球の人間、一人一人の命に責任を持ち始めたら、あっという間に潰れてしまう。
それが分かっているのに悩んでしまうのは、きっと前世のせいで。
もし俺が地球と何の関わりもない、ただの異星人だったなら、きっと冷酷に切り捨てることが出来たに違いない。
まるで視界が塞がれたように、真っ暗で何も見えない。
これが視野狭窄ってやつなのだろうか。
……いや。そんなわけなくない?
「だーれだ」
気がつけば、俺の目は何者かの手で覆われていた。
隠そうともしない声で、すぐに犯人の検討がつく。第一このロゼリア号に来られる部外者なんて一人しかいないんだから、消去法ですら一択だ。
「……何やってるんですか、ゼル爺」
「うん、大正解」
細く、たおやかな手をむんずと掴んで引き離す。それから露骨に顔をしかめて後ろを振り返ると、案の定、そこには齢500を超えてなお若々しい天使が立っていた。長い金の髪が今にも床へ付きそうになっている。
「もう、来るなら事前に連絡くださいっていつも言ってるじゃないですか」
「あはは」
「あはは、じゃないんですけど!?」
もはや俺をからかうことに生き甲斐を見出しているとしか思えない。
ゼル爺は、レイドイベントの後からちょくちょく顔を出してくれるようになった。どんな心境の変化があったのかしらないが……。たまにやってきては、お茶を飲んで世間話をして帰っていく。
『ワタクシ、お茶をいれてきますね』
きっとまた暇つぶしに来たんだろう。フクレもそれが分かっていて、俺の膝からするりと抜け出す。
だがそこに、ゼル爺が待ったをかけた。
「いや、お構いなく。今日は用件だけ伝えたらすぐに帰るつもりなんだ」
「はぁ」
「レグ。前に話したこと、覚えてる? 君の開拓事業に興味を持った子たちがいるって話」
「…………まさか」
知らず、顔がひくつくのを感じる。
そんな俺とは対照的に、ゼル爺の表情はとてもにこやかだった。
「今から一週間後、その子たちをここに連れてくるから、歓待の準備をよろしくね」
菩薩の笑みとは、きっとこういう顔を言うんだろう。
後光さえ見えるほどの完璧なアルカイックスマイルだ。
「何でも君が創ったダンジョンに挑んでみたいんだってさ」
もっとも、俺からすれば、それは悪魔の笑みにしか見えなかった――




