大阪朱雀城立て籠もり事件(立瀬幸正)
立瀬幸正は子どもの頃、特撮番組のヒーローに憧れていた。
いつか大人になったら、みんなの生活を脅かす悪い怪人をばったばったと薙ぎ倒すのだ。親にねだって買ってもらった変身ベルトをつければ気分は無敵。どんな相手にだって負ける気がしなかった。
もちろん、それは分別が付かない幼少期の話だ。
学校に通い始めると、すぐ世界はそう単純でないことを知った。
この世には誰もが一目で見て分かる“悪人”などいない。
本当の悪人は身をひそめ、狡猾に牙を研いでいる。
友達が自分の知らないところでイジメにあい、転校していった時、幸正の幼い正義感は粉々に砕かれた。
それでも就職活動の末、最終的に警察の門戸を叩いたのは、まだほんの僅かに当時の気持ちが残っていたからなのかもしれない。
23歳の春、警察学校での訓練を経て、幸正は新米巡査になった。
右も左も分からない中、配属先で先輩の仕事ぶりを学ぶ日々。
凶悪事件なんてものは起こらない方がいい。仮に起きたとしても、ぺーぺーの自分が関われるはずもなく、交番勤務の傍ら落とし物と睨めっこする毎日が続き、たまに出動があっても酔っぱらいの相手ばかり。
自分は何故この職を志したのか。
分からないまま半年が過ぎた頃――新米の幸正さえも巻き込む“大捕り物”が発生した。
「ダンジョンで立て籠もり、ですか?」
その一報がもたらされたのは9月半ばのこと。
幸正の声に、上官である渋垣彰吾警部補は一つ頷いて、詳しい説明を始めた。
「そうや。あの……何て言うたか、平等院鳳凰堂みたいな名前の」
「……大阪朱雀城?」
「それそれ!」
大阪朱雀城。つい三日前、大阪府の大泉緑地に突如として出現したダンジョンだ。東京のダンジョンに続き国内二例目となる珍事に上も下も大騒ぎとなったのは記憶に新しい。何ならまだ収拾がついておらず、府警本部は今も大わらわだと聞いた。
「その朱雀さんの城にな、拳銃持った馬鹿が突撃したらしいねん。そんでもう丸一日出て来へんのやと」
「……普通、入る前に止められませんか?」
東京摩天楼の流れを汲み、大阪朱雀城でも同じ管理体制を敷いているはずだ。ダンジョンから出る時はもちろん、入場時にも検査があるのでは。と幸正が首を傾げる。
対して、渋垣は分かりやすくため息を吐いた。
「あっこにダンジョンが出来てまだ三日やろ。慣れへん隙を狙われたんとちゃうかな。それにチャカ向けられて通すなは酷やで」
「……それもそうですね」
「やろ。ほんで、ホシの名前は水杜虎康、19歳。典型的な半グレの下っ端。補導歴はぎょうさんある割に、逮捕歴は無し。組織でも飯炊きばっかしとったみたいや。そんな男がなんで急にっちゅう疑問は、とりあえず横に置いとくとして……」
幸正を始め、交番に詰める部下たちの顔を見回して渋垣が言う。
「仕事の時間や」
知らず、誰かがごくりと喉を鳴らした。
それは緊張からか、はたまた非日常に対する興奮からか。
「本部からの要請により、ダンジョンのモップがけ――俺らも参加するで」
こうして幸正の普通でない一日が始まった。
◇ ◇ ◇
事件のあらましはこうだ。
昨夜、一般開放が始まったばかりの大阪朱雀城に一人の男が訪れた。水杜虎康(19)。虎康はダンジョン入口で『探索者ライセンス』の提示を求められると、激高し、拳銃を取り出して守衛を脅した。
いいから中に入れさせろ――そう要求してダンジョンへ飛び込んでいき、以降、ほぼ丸一日経った今でも姿を見せていない。
幸い、居合わせた協会職員や探索者に怪我人は出ておらず、ダンジョン内での目撃証言や配信という名の映像記録を確認したところ、彼はただ第一層をぐるぐると迷っているだけだった。
これでは“立て籠もり”というより“不法侵入”ではないか。だとしたら随分スケールの落ちる話だ、と幸正は思う。もちろん立派な犯罪だし、守衛を脅迫しているのもいただけない。何より、このままでは円滑なダンジョン運営に支障が出るだろう。
既に協会職員は全員避難が済み、一般の探索者も帰還次第外へ追い出された。
現在、第零層の安全圏――探索者協会のロビーは臨時の捜索本部となっている。
万一虎康がダンジョン内で死ねば、即座に拘束が出来る状態だ。
府警の威信をかけ、今、大捕り物が始まろうとしていた。
「それにしてもイカつい面してますね、こいつは」
事前に配られた捜査資料。その一つ、虎康の顔写真を見て、幸正は思わず呟いた。
縦に一本傷の入った強面男。これで19歳というのだから老け顔だ。
「しかも身長二メートルオーバーだってんだからな。どこにいても目立つだろうよ。この仕事、案外すぐ終わるかもな」
「どっちかというとホシよりモンスターの方が問題かもしれません。先輩、戦ったことあります?」
「いやぁ、ねぇなぁ……」
ダンジョンを第一層からしらみつぶしに調べていくローラー作戦。
捜査第一課の手足となった幸正は、先輩の巡査部長とともに鍾乳洞のような空間を歩いていく。といっても二人きりということはなく、すぐ近くに他の警察官の姿がちらほらと見えていた。
「ま、大丈夫だろ。出てきてもスライムだけだっていうし、それに俺たちがやんなくても……ほら」
巡査部長が顎をしゃくる。
その先で、警棒を持った同僚たちが一心不乱に半透明の塊を叩いていた。
遠目から見ると大きな水饅頭のように見えるそれ。
餡子の代わりに金平糖の形をした“核”が浮いている。
大阪朱雀城の第一層に登場する敵、スライムだ。
「ああして見ると絵面が酷いですね」
「昔読んだ浦島太郎の絵本がさ、最初あんな感じだった気がするわ。……お、勝った」
内部の核を砕かれ、スライムが消滅していく。
魔石がどうだのという声を聴きながら、幸正が考えるのは別のこと。
「先輩は……」
「あん?」
「今回の事件、何が目的なんだと思います?」
幸正が事前に目を通した限り、犯人――水杜虎康はステレオタイプの“落伍者”だ。不仲な家庭環境に生まれ、高校を中退し、せっかく見つけた働き口もつまらない喧嘩で辞めている。その後、半グレグループに拾われ、日陰者として生きてきたようだ。
とてもこんな大それた出来事を起こす人物に思えない。
果たして彼がどんな“悪人”なのか、そこが幸正にはいまいち見えてこなかった。
「さてねぇ。衝動的な犯行であることは間違いなさそうだが」
「特に動機なんてない、と?」
「人間誰しも理屈で生きてるわけじゃねぇのよ。お前もこの仕事長く続けてれば、だんだん分かってくるようになるかもな」
「はぁ……」
ちょろちょろと水の流れていく音。鍾乳洞型のこのフロアはあちこちに水路が流れ、油断すると足を滑らせそうになる。もっとも落ちたところで深さはなく、急流でもないため、せいぜい濡れるくらいで済むのだが、気をつけるに越したことはない。
皆、慎重に歩を進めるため捜査の進みは遅かった。
(悪いことをするのに理由がない、なんてこと……あるのかな)
世の中、善悪でぱきっと割ることが出来ないことくらい幸正も分かっている。
それでも“悪人”は“悪人”だ。
彼らの魔手から人々を守るために自分がいる――
「……ん」
「どうした、何か見つけたか」
「あ……いえ。たぶん見間違いか何かです」
一瞬、幸正の視界に白い何かがちらついた気がした。だが第一層にはスライムしかいないと聞いている。目をこすると、もう何も映っていない。
「おいおい、頼むぜ。しっかりしてくれよ。いくら人海戦術ったって、俺たちが出くわす可能性もあるんだからな」
「……すいません。気を付けます」
自分でも分かるくらい今の幸正は集中を欠いている。
小さく頭を下げ、とにかく目の前の事件に注力すべく気合を入れ直した。
だが――それからというもの、何度となく視界の端で動くものがあった。
一瞬、白い布きれか何かがひらめくのだ。
あまりに一瞬すぎて気のせいだろうと思うのだが。
(まさか幽霊……なんて……)
ダンジョンという不思議空間なら、幽霊くらい出るのかもしれない。
ここは笑われてもいいから先輩の巡査部長に相談しよう。
そう決めて幸正が口を開いた時、
「すまん、誰か手を貸してくれ!」
先行していたチームが声を上げた。
見ると五体のスライムが包囲網を築くように、じりじりと詰め寄っている。
「おっ。ありゃ不味いか。今応援行きます!」
スライムは核さえ砕けば誰でも一撃で倒せるのだという。逆に言えば、核を砕けない限りいつまでも戦わなければならない。一体なら楽な相手でも、複数体になると途端に討伐が難しくなるのはモンスターの常だ。
弾かれたように駆けだした仲間の後を追おうと幸正も足を上げる。
その瞬間、また白い何かがちらついた。
「……!」
分岐路の先に消えていく影。幻影でも見間違えでもない。
今度こそ捉えた。
もしかしたら犯人確保の糸口に繋がるのではないか。
しかし独断専行するわけにも――いや、時間がない、どうする、何が正解だ。
「先輩! 俺ちょっとあっち見に行ってきます!」
「は!? おい、立瀬――」
少し曲がり角の先を見てくるだけ。
そんな軽い気持ちで幸正は走り出した。
実際、あまり遠くに行くようならすぐ戻るつもりでいたのだ。
白い影はひらひらと道の向こうへ消えていく。まるで導かれるように三つほど分岐路を進んだところで、さすがに引き返すべきではないかという疑問が頭に浮かんだ。だがそれより先に分かりやすい終着点が訪れる。
「行き止まり……?」
目の前に現れた壁は押したところでびくともしない。
呆然と呟く幸正の声が洞窟内に響いた。
(そんな、確かにこっちへ行ったはず……見間違い? いや……)
もしかしたら本当に幽霊を見たのかもしれない。それで壁の向こうに消えてしまったとか。荒唐無稽すぎるだろうか。あるいはまだ発見されていない新種のモンスターの可能性。だとすればすぐに報告しなければ。
思わず口元に手を当て、考えこむ幸正。
その横をちょろちょろと水路が流れていく。
この水はどこから来て、どこまで行くのだろう。
そんな些事にさえ気を取られ――
「……もしかして、この先か?」
脇を流れる水路に限って言えば、まだ道が途切れていないことに気がついた。
足を浸し、腰をかがめれば、壁の向こうへ進んでいけそうだ。
「…………」
何かに押されるように、幸正は足先を濡らす。
そしてハンドライトの明かりをつけると、小さなトンネルに身を投じた。
水をかき分け少しばかり行けば、すぐに暗闇を抜ける。
天然の隠し通路を抜けた先にあったのは半円型の空間だった。
といってもそんなに大きくない。せいぜい直径10メートルくらいだろうか。
そんな小部屋の中に人影が二つ。
一つは、ぶかぶかの白Tシャツに身を包んだ童女。明らかに手入れのされていないぼさぼさ髪が目立つ。おそらく幸正が見ていた白い影の正体は、この童女に違いない。
そしてもう一人は天井に頭がつきそうなほどの大男。
「おいチビ。お前まぁたどっか行ってたのか。危ねぇから俺の傍を離れるなって言ったろ」
縦に一本傷の入った強面の男――水杜虎康の姿を認めた瞬間、幸正は腰のホルダーから拳銃を抜き放っていた。
ただし、それは虎康もまた同じ。咄嗟に黒い銃口が幸正へ向けられる。
一触即発の空気の中、先に口を開いたのは虎康の方だった。
「……チッ。ほらみろ、サツが来ちまった」
「手を挙げろ! 水杜虎康だな! 君には銃刀法違反とダンジョンへの“不正侵入”で逮捕状が出ている。大人しく罪を認めて投降しろ!」
「ハッ」
幸正の心臓が早鐘を打つ。一方で、彼の頭には大きな困惑があった。
犯人がダンジョンの小部屋に隠れていたこと。これは良い。追手がくることを予期して潜伏していたのだろう。だが、今まさに彼の足を掴んで、背後に隠れながらこちらを見ている幼子は一体何者なのか。
そもそも、何故こんなに小さな女の子がダンジョンに入り込んでいる?
「言っとくが、俺は誰一人傷つけちゃいねぇぞ」
「話があるなら署で聞かせてもらう」
「……どの口が。そう言って、あることないこと全部おっかぶせてくんのがお前らのやり方じゃねぇか」
ダンジョンの中では死に瀕する怪我を負っても、五体満足の状態で蘇生される。だからもしここで幸正が撃たれたとしても、本部へ情報を持ち帰ることが出来るだろう。
その安心感が僅かに冷静さを取り戻させた。
(……素人だな)
警察学校でみっちりと銃の取り扱いを叩きこまれた幸正から見て、虎康の構えは素人のそれだった。おそらく、引き金を引いたことなど一度もないのだろう。よく見れば銃を持つ手が微かに震えている。
たとえ張子の虎だとしても、危険なことに変わりはない。
それでも対話の余地を見出し、幸正はゆっくりと銃を降ろしていった。
「……分かった。ならまず、君の話を聞かせてくれ。その子どもはどうした?」
「言っとくが誘拐じゃねぇぞ。俺がダンジョンに入った時にゃ、このガキはもうここにいたんだ。腹ぁ空かせて、一人でな」
「迷子……? いや、でも」
果たして、いかにも未就学児の子どもを守衛が通すだろうか。
いくら保護者がいたとしても断られるに違いない。
「こいつはな――捨てられたんだ」
「…………」
「俺が初めてこいつを見つけた時、鼻を疑ったぜ。最後に取り換えたのはいつなんだろうな。パンパンのおむつにはクソがつまって、こんもりしてやがった。そのせいで肌もかぶれて……チッ、胸糞悪ぃったらねぇ。しかも極めつけは言葉が話せないときた」
絶句する幸正を他所に虎康は話を続ける。
「大方、いらなかったんだろう。俺みたいなのでも中に潜りこめんだ。こんな小さいガキ、投げ捨てるくらいワケねぇ。俺もこいつも外の世界に居場所なんてないんだよ。だから……俺たちのことは放っといてくれ」
「どう……する気なんだ」
「俺ぁな、〈調理師〉なんだってよ。笑っちまうだろ。俺を切り捨てた、つまんねぇ連中のためにずーっと飯作ってたのが、こんなところで生きるなんてよ。この力があれば食うのには困らねぇ。何せバケモン叩けば飯が出てくんだ。どんなに暴れ回ったって誰にも怒られない。どころか称賛さえされる。こんなに都合の良い世界があるか?」
ダンジョンと人類との付き合い方は日々変化している。
ダンジョン内の気温が一定であることから、いつかは地表が人の住める温度でなくなって、ダンジョンへ移住するのではないかと冗談交じりに語られるほどだ。
あながち、虎康の言い分を妄言と切って捨てることは出来なかった。
「勝手言ってんのは分かってる。それでも俺が捕まっちまえば、このガキはどうなる? 親を探して手元に戻すか? こんなになるまで放っとくようなヤツだぞ? それとも、臭いモンに蓋でもするみたいに、施設へぶち込むか?」
「……警察の威信にかけて、その子の将来は保証する」
「っ、信じられるわけねぇだろ!」
声を荒げる虎康の目には、ありありと不信が浮かんでいた。
今日に至るまで彼に一体何があったのか。
「俺は、誰の言葉も信じない!!」
頑なな人間の心をこじ開けるのは難しい。
ましてや、互いに武器を持っている状況なら猶更だ。
一番手っ取り早いのは、素早く銃を起こして虎康の足を撃ち抜くこと。
無力化してしまえば一発で事件解決だ。少しマスコミに叩かれるかもしれないが、今日日、擁護の声だって上がるだろう。
ただ――本当にそれでいいのか?
彼は本当に成敗されるべき“悪人”なのか?
迷いは幸正の脳裏に、一つの記憶を思い出させた。
とあるパトロールでのこと。
その日、幸正は助手席に渋垣警部補を乗せ、パトカーを運転していた。
いつも通りの平和な街並みに目をくれながら、年嵩の上官が切り出す。
『幸正、ジブン何で刑事になったんや』
『……志望動機の話ですか?』
『せや。今の子はなんぼでも進路があるやろ。こんなキツイ仕事、わざわざ選ばんでもええがな』
『それは、まぁ……』
赤信号でブレーキを踏みつつ、幸正が頬をかく。
さんざん親や友人にも聞かれた質問だ。
『……笑いませんか?』
『内容によるなぁ』
『どうせ成るなら、誰かの役に立つ仕事がしたかったんです。もちろん、他の職業がそうじゃないと言いたいわけじゃなくて、なんというか、分かりやすいじゃないですか。悪いヤツを捕まえるぞーって感じで』
我ながら幼稚な動機だと自嘲する。
実際成ってみれば、そんな理想とは程遠い職業だとすぐに分かった。
『……さよか』
幸正の予想に反して、渋垣は笑わなかった。
代わりに頬杖をやめて体勢を起こし、真っすぐ視線を向けてくる。
『これからもこの仕事続けたいんやったら、一つ覚えとき。世の中、どうしょうもない“悪人”は確かにおるよ。腹の底までグズグズに腐ったカスみたい人間は。せやけど、ほとんどの人間は“悪人”でも“善人”でもあれへん』
ノンキャリア組。叩き上げの警部補は真剣な口調で言葉を紡ぐ。
『みんな饅頭みたいに、ええ心を悪い心で包み隠して生きとんねん』
『……普通、逆では?』
『いいや、まちごてへんわ。正直者が馬鹿を見る、とよぉいうやろ。みんな悪いことした方が得って分かっとんねや。ほんでも、いざ悪いことすると、ええ心がじくじく痛みだして、やかましいんや。そこで止まられへんヤツが道を踏み外す』
信号が青になった。話に聞き入っていた幸正は慌てて――もちろんふんわりと――アクセルを踏む。景色がだんだん流れ出す。遠く、街の喧騒が聞こえる。
そんな中にあって、渋垣の声はよく届いた。
『ええか、幸正。俺らの一番の仕事は“悪人”を捕まえることやない。“悪人”を生み出さへんようにすることなんや』
その言葉は、幸正の心にずっしりと響いた。
同じような話を研修で聞いたはずなのに、人徳か、あるいは口調のなせる技か。不思議とすんなり耳に入ってきて、納得したのである。
『――ま、せやからこのパトロールも腐らず頑張ろかぁ』
そう言ってにやりと笑う渋垣の姿は、妙に貫録を感じさせるのだった。
こちらへ銃を向け、虚勢を張る男。
果たして彼はどうしようもない“悪人”だろうか。
それとも間違った方へ進み続け、今なお間違い続けようとしている普通の人間だろうか。
分からないから、少しでも歩み寄るために。
幸正は恐る恐ると口を開いた。
「なんで君は、その子のことをそんなに気にかけるんだ」
「あぁ……?」
「誰も信じられないなら一人で生きればいい。見ず知らずの子どもなんて知ったこっちゃない。違うか?」
こうしている最中も虎康の膝にしがみついている幼子。
振り払いもせず、させるがままにしているのは何故なのか。
対話の道を選んだ幸正は、ただ黙したまま答えを待つ。
一方の虎康は、虚を突かれたように目を開いて俯く。
それから返事が返ってくるまでにかなりの間があった。
「――て――から――――だ」
「……?」
絞り出された声は途切れ途切れで聞き取りにくい。
耳を澄ませ、じっと見つめていると、
「はじめて、人から信用されたんだ」
ぽつぽつ、噛みしめるような言葉が聞こえてきた。
「今まで、悪いことは何でもかんでも俺のせいだった。やってないって言っても、誰も信じてくれなかった。しまいには何も言ってないのに逃げ出す始末。だけどこいつは……俺を見ても怖がらなかった。それどころか、無邪気に後をついてきやがる」
水滴の音。
頭に当たった雫の感触を不思議がって、幼子が上を見る。
「おかしいだろ?」
気がつけば、虎康はぼろぼろと泣いていた。
そんな大男の膝を幼子が懸命に撫でる。
まるで、痛いところでもあるのか聞くように。
「このガキは俺のことを信じてるんだ。こんな、俺なんかのことを。まったく馬鹿がやることだぜ。どう考えてもまともじゃない。でもよぉ…………嬉しかったんだ。人に信用されるっていうのは、こんなにも……あったけぇことなのかって……」
人から裏切られ続けてきた男と、親に捨てられた子ども。
その二つが引かれ合い、共鳴するのは、ある意味当然のことかもしれない。
どちらも情に飢えた存在だから。
「頼む。誰にも迷惑はかけねぇ。ダンジョンの隅っこにさえ居させてくれりゃあ、後はもう何だっていい。どうか俺たちを見逃しちゃくれないか……?」
世の中にはどうしようもない“悪人”がいて。
けれどほとんどの人間が、良心を悪心で隠して生きている。
今になってようやく、その言葉の意味を理解できた気がした。
だからこそ。
「――駄目だ」
幸正ははっきりと首を振る。
「なんで……!」
「理解して、納得したからこそ許可できない」
もしこのまま見逃せば、彼らは一時、安住の地を手に入れるかもしれない。ただ、それはまやかしだ。外の世界で法を犯している以上、虎康は一生お尋ね者だし、そこから逃げ続けるにはダンジョンの奥地へ潜っていくしかない。
待っているのは破滅だけだ。
何よりも、水杜虎康を“悪人”にしてしまわないために。
「君はその子を犯罪者の子どもにしたいのか?」
「っ……!」
確かに今この瞬間、二人はどこにも行き場がないのかもしれない。
そんな人間を救うために俺たちがいるのだ――と渋垣なら言うだろう。
「約束する。その子が最善の未来を選び取るため、力を尽くす。これは警察がどうだという話じゃない。俺個人が今、決めたことだ」
「……そんなの、信じられるかよ」
「その“信じる”を、君より何倍も小さい子が出来ているのに?」
「…………」
「信じろ。きちんと罪を償ってこい。その間のことは全部、俺に任せろ」
正直に言えば、孤児の扱いなど幸正には一切分からない。
それでも大見得切って胸を叩く。
「君が俺を信じ続ける限り、俺は絶対に君を裏切ったりなんかしない!」
真っすぐに相手のを目を見て、思いが伝わるように叫ぶ。
ここが正念場だ。戻ってこいと祈りながら。
虎康は今、境界線上に立っている。白黒どちらにも転びうる。誰かが手を引かなければ暗闇へ真っ逆さまに落ちていくだろう。だからまず、小さい手がそれを留めた。その次に幸正が追いついた。
「……ハッ。今日は随分、初めてづくしだな」
拳銃を突きつけていた手が力なく下げられる。
涙の跡をつけたまま虎康は顔を上げた。
「あんたのこと、信じていいんだな? 刑事さん」
その問いかけに対し、幸正が力強く頷いたのは言うまでもない。
不思議そうに己を見上げる幼子を、虎康は一度だけ強く抱くと、幸正へ向かって諸手を差し出した。
ここに、世間を一日騒がせた「大阪朱雀城立て籠もり事件」は解決したのである。
――その後の供述で、虎康は半グレ組織のメンバーから“身代わり”を強要されていたことが分かった。リーダーの代わりに銃を持って警察に出頭してこい、と命じられたという。それで自棄になってダンジョンに突撃したようだった。
元々居場所がないから拾われただけで、虎康自体に犯罪歴がないことと、司法取引の結果、多少減刑もされそうだということで、幸正は胸を撫で下ろした。
むしろ問題は彼自身の独断専行であり、幸正は渋垣警部補に身元不明の少女を何とか面倒見てやれないか頼む傍ら、壊れた蝶番のように、方々で頭を下げ続けることになるのであった。
なお、後年。
ある寡黙な〈斥候〉の少女と、強面の〈調理師〉からなるパーティーが、大阪朱雀城で活躍するようになるのだが、それはきっと余談だろう。