鴛鴦(都木坂一鉄)
ダンジョン大臣、都木坂一鉄の朝は早い。
平日はいわずもがな、たまの休日であっても日の出とともに起き上がる。
妻を起こさないよう、そろりそろりと抜け出して、目指すのは自宅に隣接された道場だ。かつて多くの門下生で賑わった板張りの床を踏みしめ、裂帛の気合いとともに竹刀を振っていく。
「キエエエエエエエッ!」
秋口の涼やかな空気に、一鉄の叫声が木霊する。
長年、かかさず続けてきた朝のルーティーンだ。
それから豪快にシャワーを浴びて汗を流す。以前は季節に関係なく冷水を浴びていたが、妻から「いい加減歳を考えてください」と言われたので、ちょっぴりぬるめだ。一鉄は自他ともに認めるほど嫁に弱かった。
一頻り身だしなみを整え、リビングに向かうと、そんな愛すべき妻――都木坂文香がいつも通り台所に立っている。ふわりと香る味噌の匂いに口元を緩ませながら、一鉄は大きな声を出した。
「おはよう、文香さん! いい朝だなッ!」
「はい、おはようございます。もう少しでできますから、座って待っていてください」
「……ああ!」
一瞬、一鉄の頭に「手伝おうか」という言葉が浮かんだが、素直に頷いて、二人掛けのテーブルへ腰を下ろす。人には人の領分があるのだ。決して、前にお盆をひっくり返して怒られたからとか、そういう理由ではない。
これもまた変わらぬ朝の光景。
「お待たせしました」
「おお、今日も美味そうだッ!」
「もう。あなた、何を出してもそう言うじゃないですか」
「む……。き、気をつける……」
そうは言っても、それが一鉄の偽らざる本心なのだ。
大盛りの分づき米に秋ナスの味噌汁、納豆とメザシも一人二尾ついて食卓を彩る。
「ふふ、別に怒ってませんよ。あなたは大臣なんですから、もっと自分の発言に自信を持ってください。そうでないと、周りが困っちゃうじゃありませんか」
「う……む」
「さ。冷めないうちにいただきましょう」
「ああ、いただきますッ!」
手を合わせ、飼い主から許可が出た大型犬のように喜び勇んでご飯をかきこむ。文香はそんな夫を見ながら、マイペースに食事を進めていく。
平日であればテレビをつけ、議員として方々へアンテナを張り巡らせるが、今日はたまの休日だ。朝の長閑な時間を夫婦でゆったりと楽しむ。
「昨日聞きましたけど、今日は完全にオフなんですって?」
「うむ。何の予定も招待もない。珍しいこともあったものだ……。そうだ、文香さん! どこか行きたいところはないか!? どこへでも連れていくぞッ!」
「いえ、特には」
箸をおき、ぐっと拳を握った一鉄に対し、文香はにべもなかった。
「……そ、そうか」
「私はただ、あなたが家にいて下さるだけで嬉しいですよ。何もせず、ゆっくりする日があってもいいじゃないですか」
「ぬ……」
薄く微笑む妻の目を直視できず、一鉄は顔を赤くして茶碗を傾けた。
お互い57歳を迎え、酸いも甘いも味わってきたが、昔から仲の良さは変わらない。
窓の外でモミジの木が赤く燃えるように色づいている。
今を時めくダンジョン大臣の穏やかな一日は、こうして始まったのであった。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、食休憩がてらしばらく妻と談笑を楽しんだ一鉄は、次に和室へと足を運んだ。そして秋風を感じながら、一人硯に向き合う。
筆を持ち、文鎮で固定した半紙を前に唸り声をあげる。
「さて……何を書いたものか」
せっかくの休日だ。趣味の時間を作ろうと、一鉄は書に挑戦していた。
墨の匂いを嗅ぐと心が落ち着いてくるから不思議だ。
国の未来、政治家としての矜持、ダンジョン大臣という責務の重さや批判の声。そうしたものが遠ざかって、ただ風の音だけが聞こえる。
やがて力強い筆跡が二つの文字を描き出した。
――不惑。
書いてしまってから、思わず自嘲する。
「無いものねだりだな」
本当に迷いのない人間なら、わざわざこんな言葉を導かないだろう。そうありたいと願うから、口にし、書として残すのだ。
世間から「ガンコ一鉄」「出遅れ侍」と呼ばれる男は、丁寧に半紙を折って、次の書へと移っていく。妻の言う通り、何もしない日があってもいいのかもしれない。たまにはこうして、己の心に向き合う時間も必要だと。
一通り書との格闘を終えると、一鉄は文香を誘って散歩に出かけた。
盛夏を過ぎ、まだ暑さは残っているものの、柔らかい日差しの中を夫婦で連れだって歩く。
「金木犀の良い香りがしますね……」
「ああ、今年もあそこの生垣が咲いたのかな」
「そうかもしれません。後で寄っていきませんか?」
遠く、秋の空にいわし雲が泳いでいる。
いつもなら鱗の数を数える間もなく、さっさと移動してしまうだろう。
そんな雲にさえ目を留め、ゆったりと歩んでいく。
穏やかな時間。
そうかと思えば賑やかな声。
「お、一鉄つぁん! デートかい!?」
「一鉄つぁん! 見たぜぃテレビ! 俺ぁ応援してるからな!」
「ちょいちょい都木坂さん、良い秋刀魚が入ってるわよ!」
「ご両人、ちょっと寄ってってくれよ!」
公園、商店街、公民館、果ては個人の住宅まで。一鉄が歩いていると、どこからともなくその顔を見つけ、声をかけてくる人間が大勢いた。彼らは言うなれば「議員・都木坂一鉄」の支援者だ。
一鉄の支持基盤――と言えば聞こえはいいが、その実、ほとんどが近所の知り合いたち。一鉄の主義主張というより、彼の人格に惚れ込んで声援を送ってくれている。
ある意味、こうして地域に顔を見せるのもまた政治家としての仕事と言えた。
ただ、今日はあくまでオフなのだ。
「ありがとうッ! ありがとうッ!」
そう言って、世間話もほどほどに離れていく。
その度、文香はくすくすと笑っていた。
「人気者ですねぇ」
家にいる時の一鉄と、政治家としての一鉄は少し違う。
恥ずかしさを覚え、何度も頭をかくはめになったのは言うまでもなかった。
ちょっとのつもりで散歩に出て、帰ってくればもう昼時だ。
二人で考えた結果、昼食はそうめんと相成った。めんつゆと酢味噌の二種類タレを用意して、大葉も載せ、つるりと済ませる。
それから一鉄は、栞を挟んだままにしていた小説へ手をかけた。
最後に読んだのはいつだったか。ぱっと思い出せないくらいに激務が続いたから、縁側で、ぱらぱら捲りながら展開を思い出していく。結局、ほとんど最初から読み直すことになったのはご愛敬だ。
そうこうしている内に睡魔に襲われ、舟を漕ぐ。
夢うつつの頭は、自然と断続的な記憶を呼び起こした。
都木坂一鉄が初めて文香と出会ったのは、十五歳の夏。
一目ぼれだった。
近所の剣術道場に弟子入りし、そこで師範の娘として甲斐甲斐しく動き回る彼女に出会ったのだ。落雷に撃たれたような衝撃を受け、その場で告白するも、玉砕。だが彼は諦めなかった。
質実剛健。そんな人間を目指して己を磨き上げ、何度も愚直に愛を伝えた。やがてそんな彼に文香も折れ、師範から死に物狂いで一本をもぎ取って、無事家族になることが出来た。
未来は自分の力で切り開ける。
そう信じて疑わないほど、一鉄の人生は活力に満ち溢れていた。
だが――ある時、思いもしなかった障害が立ちはだかる。
一鉄と文香。二人の間には、いつまで経っても子どもが生まれなかったのだ。いくら夫婦の営みを頑張っても梨のつぶて。今でこそ子どもがいない家庭など珍しくないが、当時は周りから随分奇異の目で見られたものだ。
幸い、両親はどちらとも理解のある人間だったから、二人を責めることはしなかったが、本音は「孫の顔が見たい」と思っていたに違いない。
不妊治療に挑戦し、ありとあらゆる神社へ足を運んで神頼みし、夫婦で出来る限りを尽くした。世間の目もあるが、一番は何より愛する我が子をこの手に抱きたいから。
四十五歳の冬。ようやく文香が妊娠した時には滂沱の涙を流したものだ。
――しかし、何もかもが遅すぎた。
高齢出産。そのリスクを十分に分かったつもりでいて、それでも赤子が早期流産したと聞いた時、思わず呆然としてしまった。
誰が悪いわけでもない。
強いて言えば“運が悪かった”、それだけだ。
ようやく掴んだと思った希望が手の中からすり抜けていく感覚。それは肉体から魂が離れていくのに等しいほどの絶望だった。
もし子どもが生まれたら。
輝かしい空想も、徹夜で考えた名前も、親への報告も、全ては塵芥。
『…………すまない』
絶対幸せにすると誓ったのに。
その夜、一鉄は己の不甲斐なさから文香へ頭を下げた。
すると。
――――パチン。
一鉄は頬を叩かれていた。
鍛えた彼にとって何てことのない平手。
だが妻から初めて手をあげられた衝撃に目を見開くと。
『謝らないでください』
文香は両の目に涙を溜め、それでも毅然と一鉄を見つめていた。
『謝らないでください。私は、私たちは、可哀そうな人間ですか。誰からも憐れまれるべき、か弱い存在ですか。そんなにも、不幸せそうに見えますか?』
『……!』
『私はあなたと一緒に成れて幸せでした。その幸せを、他ならない、あなたが否定しないでください。どうか……それだけは』
謝るということは、間違いを認めるということだ。
それまでの努力を全て否定し、大きなバツ印をつけてしまうことだ。
確かに一鉄たちの努力は実を結ばなかったかもしれない。けれどその日々が間違っていただなんて、どうして言えるだろう。
まだ見ぬ我が子のことを考える一瞬一瞬は、紛れもなく幸せだった。
限界を超え、流れ落ちようとする雫を、一鉄が指で掬う。
『……私は本当に大馬鹿者で。そして、果報者だな』
華奢な肩を抱く手が震える。
『きっとこれからも同行者は増えない。二人旅が続くだろう。それでも、もう文香さんを泣かせたりはしないから。だからどうか、こんな馬鹿な私を見捨てず、一緒に歩み続けてくれないだろうか』
『はい……!』
人生は下り坂に入れば、手に入るものより失っていくものの方が多くなる。
だからつい幸せの数より不幸の数を数えてしまいたくなるけれど。
一鉄の義父――文香の父が死に、剣術道場を畳んだ時も。
毎年楽しみにしていた桜の木が寿命で枯れてしまった年も。
日々、筋力が衰えていくのを感じる瞬間でさえ。
義父が託してくれた剣術は無くならないし、薄い桜の花びらは今もこの目に焼き付き、力押しが出来なくなったことで工夫する楽しさが増えた毎日を、一鉄は妻と二人、前向きに歩んでいった。
きっと世の中には、自分たちのように普通の幸せからこぼれてしまった人が大勢いるのだろう。彼らは皆、目の前の不幸に捉われて明日も見えない。
――だから都木坂一鉄は政治家を志した。
かれらが少しでも生きやすい世の中を作るため。
勤めていた商社を早期退職し、政界へ思い切り飛び込んでいったのだ。
長い夢を見ていたような気がする。
一鉄が目を覚ました時、空は茜色に染まっていた。
ヒグラシが遠くカナカナと鳴いて、時折、風鈴の音。
寝すぎたか――そう思って体を起こそうとした時。
「よく眠れましたか?」
頭上から声が降ってきた。
上下逆さまの世界に文香の顔が映る。
「……ああ、お陰様で」
どうやらいつの間にか、一鉄は文香に膝枕されていたようだ。昔から枕の下に本を入れると、見たい夢が見られると言うが、その理論に則ってみれば、妻との想い出を夢に見たのも納得かもしれない。
一体いつから膝を貸していたのか。
文香が微笑んで、白髪混じりな一鉄の髪を撫でる。
「懐かしい夢を見たよ。まだ私も文香さんも若かった」
「あら。それは残念ですね」
「……?」
「だって目が覚めたら、目の前にこんなおばさんがいるんですもの」
そう言って文香は口元に手をあて、クスクスと笑った。
確かに先ほどまで夢に見ていた姿と比べれば時の流れを感じさせるが、一鉄にとってそんなのは些細な変化だ。
初めて出会ったあの時から――
「文香さんは、いつまでも綺麗なままだよ」
思わず手を伸ばし、妻の頬に触れる。
記憶よりもかさついた肌は、彼女の魅力を損なわせるものでなく、指先に年月の歩みを感じる度、むしろ一鉄の胸に愛おしさがこみ上げてきた。
「……もう。またそんなこといって」
「すまないが、本心なのでな。何度でも言えるぞ! 文香さんは、綺麗だッ!!」
「ふふふ。はい、はい。そうですねー」
この先、二人の船に同乗者は増えない。
いつか死が二人を別つときまで、ゆったり鈍行で進んでいく。
人とは少し違っても、それが二人で見つけた幸せの形。
ダンジョン大臣、都木坂一鉄。
時に「ガンコ一鉄」「出遅れ侍」――そう呼ばれる彼の休日は、そんなあだ名と結びつかないぐらいに穏やかで。気力を充填した彼は、また翌日から政界の異端児として暴れ回り、総理の胃に穴を開けそうになるのだった。
ちなみに余談だが。
この日の夕食には、一鉄の大好きな南瓜の煮つけが出たらしい。




