エピローグ
ゼル・メルの日課は、生まれ育った星で一人霊樹を見つめること。
霊子を吸い上げ、黄金色に輝く樹林の中、ひと際大きく育った大木を飽きることなく何百年も観察している。
あまりに長く見過ぎたせいで、枝の数すら覚えてしまったほどだ。
そんな慣れ親しんだ大樹の元へ足を運び、ゼルは幹に手を突いた。
「この間、みんなの夢を見たよ。何十年ぶりかな」
目を閉じ静かに呟くさまは、まるで樹木に話しかけているようだった。
大きな影の中、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「あの子が――レグがね、みんなと同じことを言ったんだ」
高度な発展を遂げ、ついには神の御座さえ手に入れた有翼人種たち。その過程で削ぎ落されていったものは数多あるが、一方で、不思議と受け継がれてきたものもある。たとえばその一つが死生観。
――霊樹に還る。
それはハーヴェンにとって死を意味する言葉だ。
古くから、生命は死すれば霊子になると信じていたハーヴェンたちは、霊子を糧に育つ霊樹に祖の姿を見出していた。この不可思議な樹には先人たちの魂が宿っていると。どんなに時代が進んでも、自然と誰もが信じていた。
ゼルもまたその一人だ。
「どうしてアセト文明は滅んだのか、みんなと朝まで議論したよね。懐かしいなぁ」
かつてゼル・メルには三人の仲間がいた。
本来、ハーヴェン族は徹底した個人主義だ。他人に関心を持つよりも、自己の探求に忙しい。だから群れることはしない。
それは天恵の儀――学習カプセルにより好奇心を失うがゆえの副作用だ。
しかしゼルたちは天恵に抗った。
偶然、志を同じくする幼子たちが徒党を組み、そのまま大きくなってしまった。どんなに周囲と違っても、一人じゃない。仲間がいればいくらでも孤独に耐えることができた。
そんな“変わり種”たちが外の世界へ目を向けるのは必然で。
数多の銀河を辺り歩き、幾つもの秘境や遺跡を踏破した。
「それから一番初めに消えたのがロフ。その次にリリ」
ただ、楽しかったのは最初の200年だけ。
人間どんなに体が元気でも、長く生きていると飽くらしい。
母星に帰ってきて落ち着いた暮らしを始めると、ゼルの仲間たちは一人、また一人と霊樹に還っていった。誰に強制されたわけでもない。人生に満足し、他の同族と同じように自ら霊子に分解されることを選んだのだ。
「……そして最後がアトラ」
ゼルはどんな生命にも終わりがあって然るべきだと思っている。
だから仕方のないことだと理解していても。
「僕はすっかり置いてかれちゃった」
目を閉じたまま薄く自嘲する。
何故、自分が最後に残されたのか。
ただの偶然で片付ければいいのに、四人の中で一番“頭でっかち”だったゼルは、どうしても考えてしまったのだ。
何かそこに意味があるんじゃないかと。
それはある種、とてもハーヴェンらしい問いで。
そのせいで安易に後を追えなくなってしまった。
「でも、ようやく分かったんだ」
節くれだった幹をひと撫でして顔を上げる。
ゼルの蒼い目に、同じく青々とした樹冠が映った。
「僕は――――レグを導くために残されたんだ」
まるで長く、暗く、重苦しいトンネルを抜けたような感覚。
永劫の生。そこに意味を見出そうとし、苦しんだ老天使の見つけた答え。
ゆえに。
「……そしてその役目ももう終わり。我ながら立派に務めを果たせたんじゃないかな。ね、みんなもそう思うでしょ?」
どんな者にも終わりは訪れる。
それがようやく自分の元へもやって来た。
親しい友人を迎え入れるように、ゼルは微笑んで両手を広げる。
「随分遠回りしたけど、これでようやくみんなのところに……」
己を霊子に分解する最期の操霊術を発動するため、ゼルはゆったりと瞼を閉じた。五感が一つ封じられ、背の翼に強い風を感じる。
霊樹の葉がひと際強くざわめいた。
瞬間、舞い落ちた葉がゼルの額に当たる。
ほんの僅か、それに気を取られ――
『ゼル爺!』
ふと、声が聞こえたような気がした。
己を呼ぶ無邪気な声が。
それは幻聴。人生の最期に思い浮かべる走馬灯のようなもの。
きっと何度も呼ぶから耳にこびりついてしまったのだ。
何と可笑しくて、厄介な。
「………………」
レグ・ナ。今まで見てきた同族の中でも一番の変わり者。
泣き虫ですぐ落ち込むゼルの弟子は、自分がいなくても問題ないくらい成長した。
それに何より、もう一人ぼっちじゃない。
以前は糸が切れた凧のように、どこへ落ちるか分かったものじゃなかったが、今なら風に乗ってどこまでも飛んで行けるだろう。
だから未練なんて無いはずなのに――どうして後ろ髪を引かれてしまうのか。
「あの子は、泣くだろうな」
自惚れかもしれない。
それでもゼルには、瞳に涙を溜めて唇を噛むレグの姿が容易に想像できた。
「……教えてない術、いっぱいあるな」
神族は強い。軽く鍛えただけで、大体の相手に勝つことが出来る。
どんなに中身がへっぽこでも大丈夫だ。
なのに、ドジを踏む様がありありと浮かぶのは何故だろう。
「話してないことも、たくさん」
考えれば考えるほど不安が湧いてきた。
気持ちは牧羊犬だ。気づけば群れからはぐれてしまう羊を見守っているような。
もこもこの毛に包まれたレグを思い浮かべ、知らず、ゼルは吹き出していた。
「…………うん。やっぱりまだ僕がいないと、駄目みたい」
ぱっちりと目を開ける。
眼前には、相変わらず風に揺れる大霊樹。
「本当に手のかかる子だなぁ」
やれやれとゼル・メルが息を吐く。その様は誰が見ても楽しげだった。
お手本のような苦笑を浮かべて、彼はもう一度霊樹を見上げる。
「……ごめん、みんな。もう少しだけ待っててくれる?」
ゼルは思う。
生きることは未練の連続だ。
どこかで断ち切らなければ永遠と続いていく。その“どこか”が“いつか”なんてのは、誰に聞いても分からない。だから有限の命を持つ者は後悔のないよう日々を足掻く。そんな命の営みを母星の外で何度となく見てきた。
翻って、自分はどうだろう?
最良の結果を残せたと言えるだろうか。
分からないが、少なくとも――
「せめてあの子が一人前になる、その日まで。……なんて、何時になるか知れないけど」
終わりを受け入れるには、まだ少し早そうだ。
ゼルは踵を返し、来た時よりも軽い足取りで霊樹の元を去っていく。
樹木が喋るわけもなく、彼の言葉に答えるものはいない。
ただ風に樹冠が揺れるだけ。
――その音はほんの僅か、いつもよりも賑やかに聞こえた。
◇ ◇ ◇
無限に広がる霊子の海。
人類が霊界と呼ぶ場所で、今日もそれは漂っていた。
長く黒い尾がうねる。
創世神。あるいは黒龍とも呼ばれる“それ”。
人は有史以前から、己の領分を越えた存在に神と名前をつけてきた。時代が進んで神の総数が減ったとしても、決してゼロになることはない。どこかの隙間で神は息づき、人ともに歩み続ける。
――その神は夢を見た。
広大な宇宙とそこに暮らす生命の夢。
微睡の最中、時折その光景が目に浮かぶ。
睦み合い手を携えることもあれば、凄惨に奪い合い。
加速度的に増えたかと思えば、そのせいで種として滅びかけ。
たかだか数千年の歴史に胸を張る。
夢の輪郭はいつも朧気で、“それ”は細かいところまで見ることが出来ない。
ただ、姿形は違えど、どの生命にも栄枯盛衰があった。
夢の泡が弾けるように、ある時ぱちんと消えてしまうのだ。
そうしてある時、老天使の夢を見た。
深く、悲しい色に包まれた夢。
孤独に苛まれる魂に、“それ”が思うことはない。
夢とはいつだってそういうものだ。
ただ、戯れに一つ、その傍に迷える魂を遣わせた。
その結果、どうなったか。
山吹色に彩られた魂を見て、“それ”は夢幻の中で独り言つ。
――善し。
そしてまた、再び微睡へ戻っていく。
数多の世界の夢を見るため。
だから今日も銀河は天下泰平。
世は押しなべて、事もなし。




