第一次災禍討伐戦・下(小浪勇)
禍つ星なる竜アリス・テスラは、もはや誰が見ても虫の息だった。
翼をもがれ、胸郭を損失し、流した血は海のごとく広がっている。
戦端が開かれて一時間以上経過したことから、竜の劫火に焼かれ消失した探索者たちも既に戻ってきた。
けれど、それでも。
その威容は決して弱まらず、むしろ傷つけば傷つくほどに強くなっていく。
残り体力が一割を切った頃、アリス・テスラは火がついたように暴れ出した。もはや狙いをつけていないのではないかと言わんばかりに手足を振るい、地を砕き、数多の探索者を薙ぎ払う。
暴威を恐れ背後に回った者は、皆等しく竜尾の餌食となった。
正に手負いの獣だ。
近づくことが死に直結する。
となれば遠距離攻撃手段を持つ者に任せて、近接部隊は下がるのが得策のように思えるが、そうもいかない事情があった。
前に立ち、盾となる者なくば、アリス・テスラはあっという間に後衛へなだれ込んでくるだろう。そうなったら戦線は崩壊だ。まともにダメージを与えられる人間がいなくなってしまう。
それゆえ一人の探索者は震える体を叱咤して、ドラゴンの前に立ったのだが。
「ひっ……!」
ぎょろり。血濡れの瞳が彼を捉える。
思わず鎧の中で縮こまりながらも、彼は必死に盾を突き出した。そこへ風を切りながら竜の爪が飛来し、いとも簡単に吹き飛ばしてしまう。
「がふっ!?」
仰向けに倒された探索者が次に見たのは、自身を圧し潰そうとする巨大な足だった。
硬い鱗に覆われた竜の足。
まるで、空が落ちてくるような。
「あ――」
嘘のような光景に間抜けな声が出た。
同時に、己はここで死ぬのだろうと分かる。
どれだけ覚悟していようと目尻に涙が光った。
もはや出来るのはただ目を瞑ることだけ。
全てを諦め、その探索者は瞼を閉じることにした。
しかし。
「【埋火】ッ!」
描いた終末が訪れることはなかった。
驚いて目を開ける。そこに一人の青年が立っていた。
火の粉のようなエフェクトを散らし、振るった剣の軌跡が赤い残光を映す。汗で髪がぺったりと張り付き、息は絶え絶え。それでも喉を枯らして叫ぶ。
「立って! 早く!」
「……あ、ああ、すまない!」
倒れていた探索者は腕を引かれ、何とか体を起こす。
そして急いで安全地帯へと逃げ出した。
その様を見送って、青年――〈見習い勇者〉の小浪勇は息を吐く。
これでもう何人救助したか。
数えていないが、勘定したところで意味はあるまい。
(俺は、俺に出来ることを)
どう考えても、今は耐える時だ。勇んでドラゴンへ斬りかかったところで、手痛い反撃を食らのがオチだろう。
だから勇は時に誰かの危機に駆け付けながら、必死に前線で食い下がっていた。
そんな彼を支援するため、仲間の〈祈祷師〉明日原祈も防御力の上昇や体力回復など、生存能力を上げるためのスキルを送ってくれている。その恩恵に与かるのは勇一人に留まらない。
〈祈祷師〉がもたらす支援の効果範囲は絶大で、おそらく今前線にいる全ての探索者にかかっているのではないだろうか。
(やっぱり明日原さんの適性は――)
もっとも、支援する対象が多くなるほど効果は薄れていく。
極論一人のために祈った方がスキルの効果は高くなる。けれどその差は微々たるものだ。勇の見立てだと、〈祈祷師〉という職業はこういう大規模な戦闘でこそ力を発揮する。
「……っ!」
ドラゴンの攻撃が当たるか当たらないか。
ぎりぎりの境目に立って仕掛けを誘発する。
ひらりと躱しながらも、考えるのは相棒のことについて。
――明日原祈にはもっと羽ばたける場所があるんじゃないか。
彼女の能力は集団向きだ。
勇と二人きりの小さなパーティーでは真価を発揮しきれない。
言ってしまえば才ある少女を自分が“独占”しているようなものだ。
配信のコメント欄が見られないのも、それが怖いから。
もし非難されていたら。そう思うとどうしても覗く気になれなかった。
もちろん、配信特有のノリが苦手と言うのもあったが……。
「俺、代わります!」
「ぐ……助かった」
「いえ、それよりも回復を!」
視界の端で、パーティーが一つ崩壊しようとしていた。
勇はそこに滑り込み、立て直しが終わるまでの時間稼ぎを買って出る。
唸りを上げて迫る竜の尾を跳躍して飛び越え、足元を通り過ぎていくそれに刃を振るって、もう一段上へ跳んでいく。
そうやって完全に攻撃を捌ききった。
「【長久の祈り】」
ちょうど勇にかけられた支援の一つが効力を失う頃、狙い澄ましたように〈祈祷師〉のスキルが届く。はじめはスキル回しが覚束なく、しょっちゅう効果を切らしたり、無駄に上書きして精神力を消費したりしていたが、最近の祈にはそんな兆候も見られない。
どころか、日々磨きがかかってきている。
つくづく自分なんかが無駄に消耗していいのか悩むほど、煌びやかな才覚。
部屋の外へ出られるようになって、一端の探索者になって。
それでも勇の本質は変わらない。
臆病で、自分勝手で、偽善者だ。ただそれを取り繕うのが上手くなっただけ。
――人の心は分からない。
特に手ひどい裏切りにあった経験のある勇は、なおさらそうだ。
時折周りの目線が酷く気になる時がある。そんなはずがないのに、誰もが自分を指さし嗤っているような。クスクスと幻聴まで聞こえてくるのだ。被害妄想だと分かっていても、勇の脳みそはその光景を作り出す。
祈も、本心では自分のことをどう思っているのか。
分からない。分からないことは、怖い。
もしかしたら、嫌々自分に付き合ってるんじゃないか。
もしかしたら、もっと大きなパーティーに行きたいんじゃないか。
もしかしたら、呆れられてるんじゃないか。
思えば思うほど、思考の迷路に惑い、抜け出せなくなる。
いっそ「パーティーを解散しよう」と何度言おうとしたことか。
そうすれば何一つ悩まずに済む。
けれど――
「勇、さん……!」
いつだって、振り返ればそこには自分を信じる瞳があった。
泣き出しそうで、それでも涙を堪える眦。
今も杖を握りしめ、後方で勇の無事を祈り続ける少女を見るたび、彼は心の暗雲が取り払われ、勇気がこんこんと湧いてくるのだ。
その勇気は混じりけが無く、ひとたび掬って口元に運ぶと、どんなに体が疲れていても前へ進む活力を与えてくれる。
だから、周りからたとえ何を言われたとしても。
勇は許される限り、明日原祈の“勇者”でありたいと願う。
「……俺は大丈夫だよ、明日原さん」
きっと、ここからだと声は届かない。
だから相棒を安心させるように剣を振るう。
どんなに敵が強大だろうと、勇のやることは変わらない。
一の言葉より、十の行動で。
降り注ぐ信頼に応え続けるだけだ。
「グゥオオオオ……」
然しものドラゴンも、無尽蔵に暴れ回れるわけではないらしい。
探索者たちの死力を賭した抵抗が実を結び、とうとう動きを止める。
首をもたげ、呼気を荒げるアリス・テスラ。
誰もが好機と見て足に力を溜めた。
勇もまたその一人として剣を腰だめに構え――
「……違う。なにか、目が」
血だまりに沈みゆく竜が、垂れた鎌首を重たげに持ち上げる。
もはや手足も動かせないのか、それが精いっぱいの抵抗に見えた。
しかし勇は息を呑む。
竜が宿す二つの瞳は未だ戦意に満ちている。
瞳孔の開ききった眼が、挑戦者たちを許すまじと睨んでいる。
竜玉に浮かぶ確かな殺意を肌で感じて、勇は咄嗟に踵を返していた。
後のことなど考えず、全力で後方へ走っていく。
「明日原さん!」
「え――」
直観に突き動かされ、目指したのは祈の元。
一歩が重い。背に感じる重圧が刻一刻と強くなっていく。
どころか、向かい風まで吹き始めた。
禍つ星なる竜アリス・テスラが大気を吸い込んでいるのだ。荒野に転がる小さな石が浮き上がって、勇の横を通過していった。
それでも何とか祈のところまで辿り着き、乱暴に抱き締めて地面に倒れ込んだ瞬間――
極耀が世界を分かつた。
アリス・テスラの顎門から生み出された光の帯が直進し、その軌道上にあるもの全てを消滅させていく。たとえ直撃しなくとも、莫大なエネルギーは有象無象を吹き飛ばす。風も、声も、何もかも、極耀は喰らいつくして止まらない。
キイイイン……――という耳鳴りのような音が収まった時。
竜の眼前には何一つ残っていなかった。
ただただ、一条の破壊痕が道となって続いている。
「オォオ……ギュオオオオオオオオオオッ!!」
覇を唱え、アリス・テスラが吠えた。
己が存在を誇示する、原始的で純粋な咆哮。
『あ、あぁ……』
それは誰の嘆きか。
絶望的な光景と相まって、一人、また一人と膝を折っていく。
地に伏せた者も立ち上がることが出来ず、王者の威光に目を奪われた。
最初の息吹とは訳が違う。
前衛、後衛などという浅ましい概念は、極耀の前に何の意味もなさなかった。
これまでと比べ物にならない犠牲者が出たことに、戦場の空気が凍り付く。
――そもそも、存在の格が違うのだ。
何故そんな相手に勝てると思ってしまったのか?
僅かとはいえ、諦めにも似た感情が探索者たちの間に広がる。
俯き、呆然とするかれら。
「【先駆けの祈り】……!」
だからこそ、少女の声はよく響いた。
重圧に負けそうになりながら、それでも少女が祈りの言葉を紡いだのは――信じているからだ。自分が知っている英雄なら、この程度で絶対に折れたりしないと。真っ先に立ち上がって、突き進むはずだと。
誰もがはっと顔を上げる。
視線の先、
「全力、全開――」
〈見習い勇者〉は疾り出していた。
放たれた火矢のように、赤い閃光が竜へ向かって飛んでいく。
少女の祈りを――灯してくれた勇気を力に変えて。
両手に持った剣が焔を宿す。
その焔は二人分。籠められた想いがごうごうと燃え盛る。
アリス・テスラの瞳にも真っ赤な輝きが映っていた。
極耀に勝るとも劣らない、鮮烈な生命の輝きが。
そして。
「――【心火光耀】アアアアア!!」
飛翔する。
焔を携えた勇者が、竜の威圧を打ち破るように高く、高く。
一人と一匹。
刹那、互いの目線が交錯した。
焔が尾を引き、その果てに。
描いた炎孤は、何者にも遮られることなく、竜の額へ吸い込まれ――




