第一次災禍討伐戦・上(千導満)
その日、東京摩天楼の入り口――探索者協会のロビーは人でごった返していた。
どこを見渡しても人、人、人。
小さな雲が出来てしまいそうなほどの熱気だ。
そんな人混みの先頭で、千導満はぽつりと呟いた。
「……こういうのを“芋洗い”っていうんでしょうね」
「ああ、よく言うよな。実際に芋洗ってるの見たことねーからぴんとこないけど」
誰にともなく零した言葉を拾ってくれたのは、同じ一攻――東京摩天楼第一攻略班――の仲間である蝉谷だ。今、共に装備を整えて『扉』が開くのを今か今かと待っている。
扉――天使さまのお告げがあった後に出現した、クラシカルな大扉。
その上に掲げられたカウントダウンの表示が、刻一刻とゼロへ近づいていく。
もう残り三分といったところか。
(東京だけでこんなに探索者がいたんだな……)
普段は探索する時間帯も赴く階層もバラバラな探索者たちが、ほぼ一堂に会した光景は壮観だ。彼らもまた一様に、目の前の扉が開くのを待っている。
災禍の萌芽――未知なる敵の出現を。
そして探索者がいるということは、彼らをサポートする人間も必要なわけで。
「実夏子さぁん! 配布用のポーションがなくなっちゃったんですけど!?」
「落ち着いて、宮藤さん。とりあえず私が対応するから、倉庫を見てきてくれる?」
視界の端で、探索者協会の人間が忙しく動き回っている。
「ミツキヨ印の特製肉串、お一ついかがっスか~! 食べると“力”がつきますよ!」
これ幸いと商売に精を出す人間もいるようだが……。
そんな彼らに千導はお疲れ様ですと心の中で呟いて、迫るカウントダウンに体を震わせた。恐怖ではない。武者震いだ。
(……まるで大規模イベントみたいだ)
ゲーム的なたとえ。だがその形容が的外れでない自信が千導にはあった。
何故ならダンジョンは今まで何度も彼の期待に応えてきてくれたからだ。
それゆえ、万全の備えを敷いている。
「おい、始まるぞ」
「……うす」
暗に集中を欠いていると注意され、千導は己の頬を叩いた。
そして誰もが見つめる先、ついに残り時間がゼロとなる。
瞬間、大扉が眩い光を放ち――
「っ……!」
カシャ、と鍵の開く音が響いた。
ざわめきはうねるように大きくなり、やがて喧騒となっていく。
未知の世界への扉。
そこへ先陣を切って踏み込んでいくのは少しばかり勇気がいった。
けれど一度経験していることだ。
「よォし、行くぞお前ら。気合入れろォ!」
隊長の小手瓦に発破をかけられ、千導たちは扉の向こうへ飛び込んでいく。その後を第二班、第三班も追いかけた。
ダンジョンの中に入る時と同じ、薄い膜を突き破る感覚。
景色がぱっと切り替わり、彼らの前に現れたのは、
「なんだァ? なんもねぇぞ……」
だだっ広い荒野だった。
荒涼たる風景を前に小手瓦がぼやく。
その横から千導は腕を出し、空を指し示した。
「いや、見てください。ゆっくりとですが何か落ちてきてます」
金盞花色に染まった天蓋。その彼方から光が舞い落ちてくる。
ゆっくりと、けれど確実に。
千導が目を凝らすと、それは種子のようにも見えた。
「たぶん、あれが地面に落ちたら開戦ってことなんじゃないですか?」
「ハン。洒落てるじゃねェか。つまりまだ時間はあるってこったな」
入ってすぐに強敵と対面する可能性も考えていただけに、弛緩した空気が流れる。
その緩みを許さず、小手瓦は大きく声を張った。
「惚けてる暇はねぇぞ! 特等席に向かえ!」
誰よりも前に立って勇猛果敢に戦うこと。
それが今回「東京摩天楼攻略班」に課せられた使命だ。
光の着地点付近を目指して進軍を開始する。
その後から後から、次々に探索者がやってきては一様に空を仰ぐ。
(さて……鬼が出るか蛇が出るか)
千導たちのように前へ布陣する者もいれば、後ろで固まって様子見している者たちもいる。中には物見遊山か、ほとんど私服のような人間も。まさに玉石混交の様相を見て、千導はあらかじめ用意していた“秘密兵器”を取り出す。
そして含み笑いを浮かべながら小手瓦にそれを手渡した。
「ね、隊長。準備しといてよかったでしょ」
「……チッ。あんまガラじゃねぇんだけどな。あ、あー……テステス」
千導が用意したもの。
それは――電池式の拡声器だった。
『よし、聞こえているか。俺は東京摩天楼第一攻略班・班長の小手瓦剛士陸曹長だ。これから予想される大規模な戦闘を前に、諸君へ通達がある』
もし千導の『仮説』が当たっていれば、この先、烏合の衆だと太刀打ち出来ない相手が出てくるかもしれない。だから最善を尽くすため、最低限の連携が必要だ。
『まず最前線は我々が引き受ける。だから安心して戦ってくれ。そして後方に――そう、あの隊服の一団だ。怪我人の治療をするための衛生部隊を準備した。重傷を負った際は、無理せずあそこまで下がってくれ』
自衛隊の中でも〈癒術師〉など回復能力に優れた職業を持つ者と、薬効を高める〈錬金術師〉たちからなる支援部隊。そんな一団がにこやかに手を振り、一部の探索者が鼻の下を伸ばす。今回は特別に治療費無しのおまけつきだ。
もっとも、隊員たちは普段からダンジョン内で負傷者を見かけたら無償で治療しているのだが。どこを歩いてもカメラが回っているというのは考えもの。
『あの光の中からどんな相手が現れるのかは分からない。……が、たとえ何が相手だろうと、我々は怯まない。もし足が竦むのなら、顔を上げてくれ。そうしたら必ず、そこに我々の背中があるはずだ』
自衛隊の攻略班たちは、雨の日も風の日も、いついかなる時も配信をつけてきた。だから探索者ならば、大なり小なり彼らの活躍を知っている。
黙々と前へ進み続ける超人たちの。
だからこそ、その檄は乾いた地面へ降る雨のように沁み込んでいく。
『ダンジョン先進国の威信にかけて――――勝つぞォ!!』
途端、荒野に鬨の声が上がった。
一人、また一人と拳を掲げていく。
やがて一つのうねりとなって、その熱狂が探索者たちを飲み込んだ。
士気は十分。
後は仕上げを御覧じろ。
「あ゛―……戦う前に余計な体力を使っちまったぜ」
うそぶく小手瓦だったが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
拍手でもしたい気分だが、怒られるだろうか。
そう千導が悩んでいると、先に声をかける者があった。
「ハッハッハッ! 小手瓦クン、いい演説だったじゃないか。僕ぁ感動したよ。まるでそう……悪政に挑まんとする騎士のようだね!」
大仰な言葉に勿体ぶった立ち振る舞い。
その男は一見すると日本人離れした外見をしていた。ブロンドの髪にスカイブルーの瞳。ただしよく見ると作り物であることが分かる。髪はカツラで瞳はカラーコンタクトだ。
こんな気合の入った仮装をしてくる探索者は一人をおいて他にいない。
千導と小手瓦は同時に口を開いた。
「山田さん」
「山田ァ」
彼の名は山田郡平。
中規模クラン「†円卓の騎士†」のリーダーを務める男だ。
「ノン! アーサー! いつも言っているだろう! 僕のことはアーサーと呼んでくれたまえ!」
「いや、山田は山田だろ。何いってんだ、おめぇ」
「ノー……そうではなく」
山田――もといアーサーが困ったように眉根を寄せる。そんな表情を浮かべると、途端に日本人だと分かるから不思議だ。
千導は苦笑して、またいつものが始まったなと一歩下がった。
小手瓦とアーサー。実は、二人は自衛隊の同期だったのである。
任期を満了して小手瓦は組織に残り、アーサーは去った。だから千導からしてみれば先輩に当たるのだ。あまり認めたくないが。
元々は、とても真面目な人だったと聞いている。
それが何故かダンジョンが出現してから――――ハジけた。
突然とある漫画の人物に成りきって探索者業を始めたのだ。しかも、どんな世界にも同好の士はいるらしい。仲間を募ってクランまで立ち上げてしまった。
そんな彼のクラン「†円卓の騎士†」の入団条件はただ一つ。
“原作愛”があるか、ないか。ただそれだけだ。
「キミは本当に融通が利かないねぇ」
「……俺の記憶が正しければ、むしろその評はお前にこそ当てはまるはずなんだが?」
「フフッ。人は変わるものなのさ……」
「変わるったって限度があるだろうが、おい」
顔を突き合わせれば言葉の応酬を繰り広げる二人だが、仲は悪くないらしい。
腐っても同期の桜ということか。
「何、僕は天啓を聞いただけさ。ようやく自分らしい生き方が分かったのだよ」
「……まぁ、今度呑みに行こうぜ。この戦いがおわ――」
「小手瓦クン!? その先は口にしないでくれるかな!?」
「もごっ、なにひやがる!?」
アーサーが目を剥き、小手瓦の口を押える。
隊員たちがどうやってこの漫才の収拾をつけるべきか視線で探りあっていると、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
「これ、何してるところなんですか?」
思わず千導が振り返ると、そこに〈見習い勇者〉の青年・小浪勇が立っていた。その背に隠れるように〈祈祷師〉の少女・明日原祈も控えている。
「あ、小浪くん。それに明日原さん。君たちも来てたんだ」
「どうも」
「こん、にちは」
以前、一攻は勇・祈の両名と組んで五層のボスであるゴブリンキングへ挑んだ。以来、ダンジョンや探索者協会で顔を合わせれば会釈するくらいの仲になっていた。
「せっかくだから挨拶を、と思ったんですけど……」
頬をかく勇。目線の先には取っ組み合いの喧嘩、もといじゃれ合いを繰り広げる大人たちの姿があった。身内の恥に千導は顔を覆いたくなるが、逃げるわけにもいかない。
仕方なく大きな声を出した。
「隊長、隊長!」
「あん? ……って、勇者のあんちゃんじゃねーか。嬢ちゃんも久しぶりだな」
ぱっと態度を切り替えて小手瓦が歩み寄ってくる。
その肩からアーサーがにゅっと顔を覗かせた。
「おや、勇クンに祈嬢」
「こんにちは。隊長さん、アーサーさん」
「……なんだお前ら、知り合いだったのか?」
「ええと、知り合いというか――」
探索者は自由業だが横のつながりも大切だ。時に情報が命を救うこともあるし、どうしても倒すことの出来ない相手や、困難な階層を共に探索することで、円滑に前へ進むことが出来る。
だから勇のパーティーと「†円卓の騎士†」が知り合いであること自体は、千導にはそんなに違和感がないことのように思えた。
ただ、普通の顔見知りというわけでもないらしく――
「二人とも、そろそろ僕たちと旅路を綴る気になってくれたかい?」
「……とってもその、勧誘が熱心で」
今一つ、勇の側は引き気味なようだった。
「君たち二人ならいつでも大歓迎さ! 今日からだって素晴らしい英雄譚を築き上げられる! だからさぁ、さぁさぁさぁ!」
「いやぁ……もうそういう歳じゃないので……」
両手を広げて迫るアーサーに、勇は苦笑いを浮かべながら首を振る。
特に驚いた様子もないことから手慣れているのが見て取れた。
「おい山田ァ。どう見ても嫌がってるだろうが」
「むむ。小手瓦クン、人聞きの悪いことを言わないでくれるかい? あと僕の名前はアーサーだよ」
そう言って二人はまたいがみ合いを始めてしまった。
千導と勇はどちらからともなく顔を合わせる。
それからお互い小さく頭を下げた。
「……それじゃあ、その、よろしくお願いします」
「うん。君たちがいれば百人力だ」
「はは……善処します。あと、隊長さんに良い口上でしたって伝えておいてください。おかげで“勇気”が湧きましたって」
そう言うなり勇と祈は離れていった。
といっても、割とすぐ近くに布陣するらしい。見渡せばトップクランと呼ばれる探索者たちの一団も、多くが最前線付近で待機している。
一見するとただ口喧嘩をしているだけの小手瓦とアーサーも、時折油断なく空へ目線を走らせている。となれば、周りが緊張し過ぎないように道化を演じているのかもしれない。深読みかもしれないが――千導は一度目を閉じ、乾いた唇を舐めた。
決戦の時は、近い。
◇ ◇ ◇
誰もが武器を構え、固唾を呑んで見守る中。
光る種子はひらひらと空から舞い降りて、ついに荒野へ落ちてきた。
途端――眩いほどの光が零れる。
溢れた粒子は絡み合い、糸を紡ぐようにして一つの命を形成していく。
誰もがまず、その大きさに目を奪われた。
それは初め卵のような形をしていた。
けれど、すぐに丸まっていたのだと分かる。
畳んでいた翼が開かれていき、その内に隠された正体が明らかになった時、居合わせた探索者たちは誰もが言葉を失った。
「……冗談だろ」
数多の例に漏れず、千導もまた口元をひくつかせて強張った笑みを浮かべた。
どうやら人間、危機に瀕すると笑ってしまうらしい。
彼なりにどんな敵が現れるのか、いくつも『仮説』を立ててきた。
その想定でいえば、これはど真ん中もど真ん中だ。
あまりに真っすぐすぎて呆気にとられるほどの。
「おいおい、コイツは俺でも知ってるぞ……」
小手瓦でさえ一目見てピンと来たらしい。
黄色く濁った眼球。黒く縦に長い瞳孔が探索者たちを睥睨する。
体は全身深紅の鱗に覆われ、遠くから見ても小山のように大きい。
ゆるく開けられた口の中は見るも悍ましい牙が並び立ち、長く太い尾がうねる。
やがて完全に翼が広げられた時、それはようやく産声を上げた。
「――ギュオオオオオオオオオオオッ!!」
問われるまでもなく、誰もがその生物の名を知っていた。
幻想種における王の中の王。
「ドラゴン……!」
竜が来たりて、舞台の幕は開かれる。
ただ一声鳴いただけ。けれど、その威容に多くの者が膝をつきそうなほど重圧を受けている。粘つく空気を打ち払うべく、千導は盾を構えながら飛び出した。
「【戦士の咆哮】!」
モンスターの注意を自身へ引き付ける〈戦士〉のスキル。
少し前、千導は〈戦士〉から〈騎士〉へと昇格している。転職でなく昇格ならば、職業が変わっても前職のスキルを使えるのがこのダンジョンの仕様だ。
「からの、【騎士の誓い】!」
合わせて、自身の防御力を上げるスキルも発動した。
千導だけでない。他のパーティーからも盾役の探索者たちが率先して前へ出ていく。
敵の注視を引くスキルを複数人が発現すると、モンスターが取る行動は主に二つ。スキル使用者をランダムに狙うか、その全員を巻き込むような攻撃をするかだ。今回選ばれたのは後者だった。
大樹のような四つ足で地を踏みしめるドラゴンが、不意に左前脚を掲げて、ぞんざいな動作で振り下ろす。
緩慢な動きのため、余裕で防御が間に合うが――
「ぐ、おおおおっ」
千導は盾を構えたままの姿勢で地を滑っていた。
重たい鎧を着こんでいてなお弾き飛ばされそうなほどの衝撃。
荒野に二本の轍が刻まれる。
しかし、その顔に絶望はない。
むしろ獰猛な笑みを浮かべていた。
(耐え……られる! このレベルなら!)
常識的に考えれば、今の一撃で千導は盾ごと押しつぶされていてもおかしくなかった。けれどここはダンジョンだ。鍛えたレベルと装備がものを言う異空間。
日々の過酷な訓練に比べれば、このくらい屁でもない。
そう自分に言い聞かせて前を見据える。
「おるァあああッ! 【必殺拳】!!」
「【影斬り】――クソ、頭が高ぇな!」
そして、耐えていれば後は仲間が何とかしてくれる。
だから千導は誰よりも前に立って、敵の攻撃を受けるだけだ。
はじめてダンジョンで命を落としたあの日から、己の生き方はそうと決めている。
「情報共有! 【鑑定】の結果が出た! やっこさんの名前は“禍つ星なる竜アリス・テスラ”!」
千導は眼前のドラゴンから目を離せない。したがって、その報告を背中で聞いた。確かクラン「サンライト」のリーダーがこんな声だったなと。
「そんでもってこいつの体力は他とリンクしてる! 他のダンジョンとだ! つまり全世界で力を合わせて体力を削りきれってこったな!!」
おもむろにドラゴンが身を捩る。相変わらずゆったりとした動作。もしかしたら、体が大きすぎるあまりにそう見えるのかもしれない。
千導は一挙手一投足見流さないよう目を凝らし、次の攻撃を見極めた。
どうやら尾を振るおうとしているらしい。
巨体を回転させ、竜の尾がしなる。
(狩りゲーなら攻撃チャンスなんだけどなぁ……!)
ちら、と千導は背後に目をやって、味方の位置関係を把握した。
それから重たい体を引きずって前に出る。
バゴンッ――衝撃は音ともにやってきた。
「くっ、ふ……!」
斜めにした盾の上を竜尾がなぞる。
分かっていても息が漏れ、込み上げた吐き気を無理やり飲み込む。
まだ、たかだか二回攻撃を受け止めただけだ。
「一射入魂――【篠突く雨】」
「ふぅうう……【大地杭】!」
空から矢の雨が降り注ぎ、地からも針の山が現れてドラゴンを襲う。
その後を追って、色とりどりのスキルが宙を駆けた。
千導にとっては頼もしくもあり、かつ不安を覚える光景だ。
いつもは連携の取れた仲間しかいないが、今日は違う。
頼むからフレンドリーファイアはしないでくれよと願いつつ、竜頭を睨む。
――それからも千導や盾役たちはドラゴンの大振りな攻撃を受け続けた。
時に噛みつきなど避けなければいけない攻撃もあったが、誰かが抜ければすぐに他の探索者がカバーに入って前線を維持し続ける。
たとえ僅かであっても、その一瞬が命をつないだ。
「千導、飲め」
「……うす」
盾越しとはいえ、一発一発の重みがこれまでのモンスターと比較にならない。
そのため千導の腕はすっかり痺れ、上がらなくなってしまった。
異常を察知した蝉谷がすぐに寄ってきて、ポーションを口の中へ流してくれる。
「最初はびびったが、今んとこ怖くなるくらい順調だな」
ドラゴンは巨体だ。それゆえ遠距離職でなくとも、横や後ろに回り込めば十二分に攻撃できる。蝉谷の言う通り、千導たちが持ちこたえている間、戦況は順調に推移していると言えた。しかし――
「……そう、ですね」
「なんだ? 何か気になることでもあるのか?」
「いえ……」
千導は活力を取り戻した手の動きを確かめるよう何度も開閉させながら、小さく頭を振った。確かに順調だ。順調すぎると言っていい。
それゆえ違和感がある。
(あのドラゴン、一発一発の威力は高いけど、それだけだ。今の頻度なら十分に防ぎきれる。そう、今のままなら……)
これまで戦ってきた強敵たちを脳裏に描く。
どれを思い出しても癖のあるモンスターばかりだった。
であれば、このまま簡単に事が運ぶだろうか?
答えは――否だ。
「っ、なんだ……!?」
風が吹いた。一陣の風が。
茫漠たる荒野に、突如突風が吹き荒れる。
その風は自然現象によって起きたものではない。
「ギュルルルル……ッ!」
四つ足から二本足へ。
体勢を変えたドラゴンが翼を大きくはためかせる。
そのエネルギーによって暴風が発生したのだ。
強烈な向かい風と砂埃に目を開けているのも辛い。
それでも千導たちが腕をかざし、顔を隠しながら耐えていると――
「……飛んだ」
金盞花色の空。果てしない天蓋へ向かって深紅の竜が昇っていく。
大翼を翻し、天衣無縫に宙を泳ぐ。
矮小なる探索者たちは、ただそれを見上げるしかない。
「はァ!? そんなんありかよ、拳が届かないじゃねぇか!」
拳に限らず、どんな武器であっても届かないだろう。
小手瓦の嘆きは正しい。
しかし、裏を返せばそれは相手も同じこと。ドラゴンもまた、いくら腕や尾を振るったところで誰にも当たらない。
ならば何故飛び上がったのか。
千導が訝し気に睨む先、ドラゴンが飛翔を止める。
そして、その場で留まるように滞空し始めた。
バサバサという翼の音だけが嫌に大きく聞こえる――
「ッ! 全員、いえ、集まれる人だけでも俺の後ろに!!」
気がつけば、ドラゴンの胸部が真っ赤に赤熱していた。
元から深紅の鱗に覆われているため、すぐに見抜けなかったのだ。
明らかな異常。
その異常を見て取った者も、そうでない者も、千導の叫びを聞いて弾かれたように動き出す。さすがにトップクランと呼ばれる探索者たちは機敏だった。
本音を言えばもう少し待ちたいところだが――
竜の顎門、その隙間から炎が漏れ出す。まるで舌のように赤い炎がちろりと覗いた瞬間、千導は躊躇わずスキルを発動していた。
「【我は城塞】ッ!」
そのスキルは範囲内の味方が受けるダメージを全て肩代わりするというもの。加えて、自身が受けるダメージも減少させる。〈騎士〉の切り札の一つ。
薄い城郭の幻影が立ち昇り、千導を中心にして探索者たちを囲い込む。
「かかって来いやぁああああああッ!」
裂帛の気合いは空に向かって立ち昇っていき。
それを押しつぶすように、ドラゴンの口から炎が吐き出された。
伝承に謡われる竜の息吹だ。
押し寄せた火の海で視界があっという間に赤く染まる。
悲鳴さえも炎熱が焼き焦がし、燎原の火のごとくに広がっていく。
その中にあって、〈騎士〉が作り上げた城塞はかろうじて原形を保っていた。
――がりがりと千導の命を削りながら。
一秒が一分にも思えるような苦痛の中、ただ雄叫びを上げて耐え続ける。
彼に許されたのはそれだけだ。
「こな、くそぉおおおおお!!」
地獄のような我慢比べ。
その果て、ついに降り注ぐ炎が止んだ。
ボロボロの城塞は崩れ落ち、同期するように千導も膝を突く。
恐ろしい竜の息吹から仲間たちを守り抜いたのだ。
けれど代償は大きかった。
「たい、ちょ……あと、たの……ます……」
「千導ォ!」
小手瓦が手を伸ばす先、千導はポリゴンエフェクトを発生させて消失した。
彼が受けきれるダメージはとうに許容量を超えていた。それでもなお立っていたのは、偏に意思の力だ。限界を超えて役目を果たした。
ゆえに、託されたバトンを次の者たちが繋いでいかなくてはならない。
大炎を吐き終えたドラゴンが力なく地上へ降りてくる。
「……お前の死、無駄にはしねェぞ」
そういえば前にもこんなことがあったな。
そう思いながら小手瓦は拳を握り、力強く地を蹴った――




