神風来たりて総理は踊る(浦梅進)
その日、浦梅進は執務室で愛妻弁当をつついていた。
魂の抜けた顔で黙々と箸を進める。
傍から見れば、まるで埴輪の口の中にご飯を詰め込んでいるようだった。
「…………」
以前は夫婦仲が冷え切っていたので、弁当なんて持たせられることはなかった。しかしここ半年ですっかり事情が変わり、今では家に帰ることが出来た日は、会食の予定がある場合を除き毎回持たせてくれるようになったのだ。
栄養バランスを考えられたメニューの中に、浦梅が大好きなきゃらぶきも踊る。
さらに孫の応援メッセージが書かれたお菓子も添えられて、賑やかだ。
正に幸せの象徴が目の前にあった。
しかし。
(……どうして……こうなった……?)
浦梅の心に吹いていたのは春風でなく、冬の木枯らしだった。
過去の自分を猛省し、これからは大人しくしていよう。
そう決めた矢先にあちこちで大事件が起きた。あの天使さまが世界各地に出没して、奇跡を振りまいたのだ。しかもそれはダンジョンへ挑み続ければ、いつか人類でも必ず手が届く範囲の奇跡だった。
これにより、今世界ではダンジョンを求める声が急増している。
ダンジョン先進国である日本でさえ、その熱が高まっているのだ。
ポーションをはじめとしたダンジョンから産出される品々を誰でも手に出来るよう、急ピッチで議論が進み始め――ついこの間まで「性急すぎる」と諫めていた議員たちも、世論に押され手の平を返し始めた。
それぐらい天使さまが提示した“奇跡”は魅力的に過ぎたのだ。
必然、「ダンジョン急進派」の筆頭、浦梅の評価も鰻登りに。
未来を見通す力を持った総理だとあちこちで持て囃されている。
それどころか……。
「総理ィーーーーッ!」
どうやら穏やかな昼の時間は終わりらしい。
大音声とともに転がり込んできた都木坂一鉄の顔を見て、浦梅は眉間を押さえた。それから大切な愛妻弁当に唾がかからないよう、蓋をして箸をおく。
「都木坂くん、いつも言っているがもう少し静かに――」
「私はッ、私は自分自身が恥ずかしい……ッ!」
またいつものが始まったな、と遠い眼をする浦梅。
さてはて、今日はどんな頓珍漢な発言が飛び出すやら。
「兵は神速を尊ぶ、巧遅は拙速に如かず。今まで私はその言葉を胸に、全て即断即決でやって参りました。ですが総理ッ! あなたがそれを思い上がりだと打ち砕いて下さった……ッ!」
「……すまないが、もう少し噛み砕いてくれると」
「総理は近頃の浮ついた空気を見抜いておいでだったのですなッ!」
「………………うん?」
都木坂が右の拳を握りしめ力説する。
その様を浦梅はぽかんと見上げることしか出来ない。
「思えばダンジョン急進派は一大勢力になり過ぎた。ともすれば、敵方に足を掬われかねないほど。もし総理が一度冷静になるよう声をかけて下さらなかったら、今頃とんでもない失策を掲げていたやもしれませぬ」
「……う、む」
「以前おっしゃられていた“風を待つ”とはこのことだったのですな……ッ!」
そんなこと言っただろうか。
――いや、言ったかもしれない。言ったな。言った気がする。
確かに都木坂の言う通り、与党を一大勢力とした「ダンジョン急進派」は最近勢いづき過ぎていた。何せ、やること成すこと上手くいくのだ。日本社会を覆う暗雲をダンジョンという劇薬で打ち払う。そのセンセーショナルな思想は広く国民に支持された。
少し前では考えられなかったことだ。
けれど、それゆえ有象無象も寄ってくる羽目になった。
寄らば大樹の陰とはよく言ったもの。地盤固めをする暇もなく勢力が拡大し、このままでは破裂――内紛や獅子身中の虫が生まれるのも時間の問題だった。
そこに来て、浦梅総理が突然の方針転換。
新しい策を打ち出していくのでなく、現状維持を目指し始めた。当然、党内からは急に弱腰になった総理を糾弾する声がささやかれ始めた頃――風が吹いたのだ。
大樹にたかる蠅を吹き飛ばすような突風が。
あるいはそれは、“天使さま”という名の台風だったのかもしれない。
「時には後ろを振り返ることも必要。そして、勝機と見るや逃さずに前に出るッ! いやはや、もはやこの風に乗った船は沈みませぬぞッ!!」
「あ、ああ……ソウダナ」
浦梅はただ大人しくしているよう言っただけ。
別に神風を待っていたわけでもないし。
派閥を補強する時間が欲しかったわけでもない。
徹頭徹尾、ひたすらに穏やかな任期満了ロードを整えようとしただけなのだが、持ち前の空気読みスキルを発揮して、つい頷いてしまった。
「この一鉄、たとえ一時であっても総理を疑ってしまいました。何たる醜態ッ! もはや生きておれませぬ……ッ! つきましては腹を切って――」
「部屋が汚れるから止めてくれ」
第一、それでは自分が介錯することになるじゃないか。
そんなの御免だと浦梅が再び眉間を揉んだ、瞬間。
――世界が静止した。
音が止み、指一本動かせない。
突然の異常事態に混乱する。けれど、既視感があった。自分は一度この状態を経験しているような気がすると。あれは確か――地球にダンジョンが生まれた日。
「人類の皆さん、こんにちは」
声が聞こえた。
鈴を転がすような、涼やかな声。
(この声……は……)
体が動かなくとも視界は閉じられていない。だから浦梅は声の主を探して視線を巡らせる。そしてあらゆる面――ガラスや鏡や弁当箱の蓋にさえ――に浮かび上がった像が、すぐさま目に飛び込んできた。
「変革は時に痛みを伴う。私が授けた試練と祝福が、あなた方にとって、幸いではなかったのかもしれないけれど」
ほうき星を束ねて編み上げたような銀の髪。
こちらを射貫く瞳は琥珀色。
ゆったりとした法衣のような服をたなびかせ、頭上に小さな冠が煌めく。
「間もなく、災禍の片鱗が訪れます」
神話の再現。神の御使い。奇跡の体現者。
あらゆる呼び名を持つ“天使さま”がそこにいた。
本物ではなく、映像だけれども。
「たとえ萌芽なれど、試練にて芽吹くそれを、あなた方の手で打ち払ってください」
諸手を組み、瞳を閉じて、天使さまが祈る。
果たしてその祈りは誰に捧げたものなのだろう。
「さすれば、更なる祝福が訪れるでしょう」
託宣は続く。誰が望もうと、望むまいと。
「私は一人でも多くの勇士が災禍へと挑むことを――――切に、願っています」
そして一呼吸おき、世界に音が戻ってくる。
まるで夢でも見ていたかのように全て元通りだ。
だが、今のが夢でなかったことくらい浦梅には分かっていた。
「総理、今のは……ッ!」
「……ああ、半年ぶりだな」
あの日のことは忘れもしない。
それまで安全運転だった浦梅の人生が、急に暴走して彼方へすっ飛んで行ってしまったのだから。
天使さまによるお告げ。
以前はダンジョンをこの世界に作るという宣言のようなものだったが、果たして今回は何が目的なのか。余人なら気になるところだ。
しかし浦梅は違った。そんなちんけな考えに囚われない。
今、彼の心の中にあったのは、
(頼むからもうトラブルを持ち込まないでくれぇええええ!?)
という、誰にも聞かせられない悲鳴だった。
恐らくこれから彼は緊急会見を開くことになるだろう。
その前に事態の解明を進め、トップとして指針を示さなくてはならない。
つまるところ……。
浦梅進、67歳。
本日、首相官邸にて缶詰決定――




