ブリガンガの奇跡(アリフ)
そのメールを受け取ったのは夜も暮れてのことだった。
仕事用パソコンでなく、私用の携帯に送られてきたそれ。
差出人不明であることから、アリフは最初迷惑メールを受信したのだと思った。だがタイトルが取材依頼――アリフの生業であるフリーライターと関係があったため、怪しいと思いつつ念のため開いてみることにしたのだ。
結果はごく普通の依頼メール。
アリフが住むバングラディシュ人民共和国、その首都ダッカを流れる「ブリガンガ川」について、レポートを書いてくれというのだ。
一通り読み終えて、アリフは思わずため息を吐いた。
(やれやれ、今度はどこの活動家サマだ?)
ブリガンガ川は別名「死んだ川」と呼ばれる大河だ。2000年頃までは魚も取れ、漁業で生活する人間もいたほどだが、縫製業の台頭により大量の染料が流れ込み、また科学工場からの排水もあって瞬く間に汚染されてしまった。
今では底も見えず、年中腐臭が漂っている。魚は一匹もいなくなり、代わりにプラスチックごみが漂流するようになった。
まさに人の業の集大成だ。
それゆえ、この川はしょっちゅう環境問題で引き合いに出される。「死んだ川」から地球の未来を考える――なんてコラムのタイトルを、アリフは何度見たか分からない。
環境保護団体や活動家からみればかっこうの的だろう。
だからアリフは「またか」と思ったのだ。
自分の記事をよく知らない活動家のために使われるなんて、たまったもんじゃない。
素直に断ろうと思って返信ボタンに手をかけたところで、ふと疑問がよぎった。
――そもそも、どうやってこのアドレスを知ったんだ?
アリフはオンとオフを完全に分けている人間だ。
仕事用のパソコンでなく、私用の携帯に送られてきたという事実が気になる。普通に考えれば、どこかから個人情報が漏れたのだろう。だが公開している連絡先があるのに、わざわざ個人のアドレスへ連絡してくる意味が分からない。
(……臭うな)
ライターとしての勘が告げている。
この依頼は普通でない。
「ふん、面白そうじゃないか」
スケジュール帳を開いて予定を確かめる。
幸い依頼主が指定する日時はぽっかりと空いていた。
最も、アリフの予定は大抵隙間だらけだが。
もし依頼主に後ろ暗いところがあるのなら、暴いてやろう。
そう思いながらも、アリフは一見穏やかに見えるよう返信を打ち込み始めた。
◇ ◇ ◇
ブリガンガ川の畔。
住宅街から一段低くなっているその場所で、アリフは待ち人を探していた。
川岸に積み重なったゴミの数々を蹴り飛ばし、きょろきょろと周りを見渡してみるものの、それらしい人影は見当たらない。
――やはり、ただのイタズラだったか?
だとすれば腹の立つことだ。
用事をすっぽかされるのはもちろん、アリフは嫌いなのだ。
この「死んだ川」を見るのが。
行き交う船舶の中に伝統的な木製ボートが混じっている風景。
水の色や腐臭さえ気にしなければ、とても長閑な光景だ――
「こんにちは、人類」
「っ……!」
しゃらり。まるで鈴を転がしたような声がして、アリフは振り返る。
すると彼の視線の先に――『天使』がいた。
一切の汚辱を感じさせない真っ白な翼。この国のどこを探しても見つからないだろう、絹糸のような銀の髪。琥珀の瞳は見ているだけで魂が吸い込まれそうになる。壁画に描かれるような四翼一対の光輪を持つ姿でないにも関わらず、これこそ天使だと思ってしまうのは、ぞっとするほど美しいせいだろうか。
幼い頃、寝物語によく聞かされた話が蘇る。
悪いことをすれば天使さまがそれを記録して、最後の審判の時、神様に手渡すのだという。善人ならば右手に、悪人ならば左手に。どちらに乗せられたかで、天国か地獄に行くかが決まるのだと。
突然の出来事にアリフは口をはくはくと開閉させるしかない。
そんな彼に代わって天使さまが言葉を紡ぐ。
「約束の時間ちょうどですね」
「……あなたが、あのメールを……?」
ちんけなハッカーか、詐欺業者か、はたまた行き過ぎた活動家か。その辺りが釣れれば面白おかしく記事を書いてやろうと思っていただけに、アリフは呆然としてしまう。まさかこんな大物が出てくるなんて。
「私というか、従者というか――いずれにしても、誰が送ったかは重要じゃありません。私が聞きたいのはただ一つ。書くか、書かないかです」
「何故そんな――」
「もう一度聞きましょう。書くか、書かないか。今この場で選んでください」
余計な詮索はするなということか。
瞬間、アリフの心に二つの感情が生まれた。
一つは畏れ。偉大なる神の御使いに逆らってはいけないという思い。
もう一つは猜疑。地球にダンジョンなるものを持ち込んだこの存在が、本当に聖典で謳われる天使なのか。
恐らくここで断れば、天使さまは目の前から消えるだろう。
未だ誰もが暴くことの出来ていない超越者の実態。そこへ迫るチャンスだ。
どう考えても逃すことはできない。
「……あの川を題材に、コラムを一本書けばいいんですね?」
「ええ。より正確には、私がこれから為すことを見届けたうえで筆を執ってください。何なら動画を撮っても構いませんよ」
「…………分かりました。お引き受けいたします」
非日常に対する高揚感。
それに煽られ過ぎないよう、アリフは努めて冷静に頷いた。
(何が目的かは知らないが、あんたの正体、俺が明らかにしてやるよ。こりゃ特ダネだ。今月の支払いもこれで何とか――)
ぱちん。不意に天使さまが指を鳴らす。
まるで柏手のように邪念が打ち払われ、アリフは目線をはっと上げた。
「これは仮に……“苔玉”と名付けましょうか」
気がつけば、天使さまの手に緑色の球体が握られていた。その表面を苔のようなものがびっしりと覆っている。
一体何が始まったのか。
分からないが、とりあえずアリフは携帯のカメラを回す。
「試練――あなた方のいうダンジョンで手に入れることが出来る品です。どうぞ、持ってみてください」
「……しっとりしていますね」
「さて、次はそれをあの川へ投げ込んでください。どこでも構いませんよ」
「は、はぁ……」
ひとまず写真を撮ってから、アリフは言われるがまま“苔玉”をブリガンガ川へ投げ込む。すると黒ずんだ水面が一瞬だけ透明に変わり、底のゴミがよく見えた。本当に一瞬で、すぐに周りから流れ込んできた黒色に潰される。
雨季ならば降り続く雨でほんの少し色が変わることはあれど、今日はカンカン照りだ。
「今、のは……?」
「人は水無くば生きていけません。あれは本来、試練に挑む人類が、いついかなる時でも清新な水を確保するためものです」
だから一瞬とはいえ綺麗な水面が見えたのか。
アリフは納得し、同時に唇を噛んだ。
あっという間に周囲と同化し、黒ずんだ水へと戻っていく様を見せられて。
「……それは、すごいですね」
世界を見れば飲み水に苦労している国はいくつもある。この国だって、汚染された地下水を汲み上げるしかない集落が存在していた。
彼らからしてみれば安心安全な水を作り出す道具は、文字通り喉から手が出るほど欲しいと思うだろう。
ただ、何故アリフにそんなものを見せるのか。
ブリガンガ――「死んだ川」の水さえ飲み水に変えられる。そのパフォーマンスだろうか。だったら趣味が悪すぎる。所詮、超常の存在には人間の心など分からないのだ。そう結論付けた時。
「けれど、用途はそれだけと限らない。一つ一つは大した力を持たなくとも、束ね、重ねて集めれば……奇跡さえも起こしうる」
ぱちん。再び天使さまが指を鳴らす。
すると――暗雲が立ち込めた。
否、そう思ってしまうくらい、急に辺りが暗くなった。
慌ててアリフは空を仰ぎ見、口をぽかんと開く。
まるで雲霞のごとく、上空に大量の“苔玉”が浮いていたのだ。
「な……あ……」
数えるのも馬鹿らしくなるほどの“苔玉”の群れ。
突如起きた異常気象に至るところから驚きの声が聞こえてくる。
そんな中でアリフが反射的にカメラを構えたのは、ひとえにライターとしての経験が為せる技だった。
「甦れ――大河の恵みよ」
天使さまが呟く。
瞬間、雹のようにブリガンガ川へ“苔玉”が降り注いだ。船舶や人を避け、水面へ次々と緑色の球体が飛び込んでいく。とぼんとぼんという音。永遠に続くかと思われたそれも、やがて終わりが訪れ――
ひときわ眩い黄金色の輝きが大河を染め上げた。
「あ、ああ……」
雄大なるブリガンガ。
忘れもしない己が故郷。
アリフの手からスマートフォンが滑り落ちる。それにも気付かないで、彼は呆然と水辺へ歩いていく。そして震える手で水を掬った。
黒く濁った、腐臭のする水でなく。
透明で、顔が映るほどの清水を。
――アリフは多くの同胞と同じく、このブリガンガ流域で生まれた。
幼い頃、友と沐浴をし、水をかけ合い、時に父が釣った魚を食べる。
なんてことのない日常。その傍にはいつだってブリガンガの恵みがあった。
それがだんだん黒ずんで「死んだ川」へ変わっていったのは、いつの頃だったか。
「うぁあ……あ……」
大人は嫌いだ。
川を汚すような大人は。
責任を取らないような大人は。
綺麗ごとだけ吐いて、何もしないような大人は。
気がつけば、そんな大人に自分もなってしまっていた。
はじめは、たとえ微力だとしても自分の力で世界に訴えかけようとライターになった。それが日銭を稼ぐために、ゴシップや不祥事ばかり追いかけるようになったのはいつからか。まるで過去から目を背けるように、川を見ないようになったのは。
自分はこんな清新な世界を――
かつての故郷を取り戻すため、ライターになったんじゃなかったか?
アリフは知らず膝をついていた。
流れる涙は全て雄大な大河へ吸い込まれていく。
その隣に天使さまがやってきて、足を川の中へと浸す。
「この景色を一時の幻としてしまうのか。それとも守り、保っていけるのか。全てはあなた方人類の手にかかっています」
そう言ってアリフの肩を叩いた天使さまは、微笑んでこう続けた。
「あなたがこの先、一体どんな言葉を描くのか。私は蒼天の彼方から、楽しみにしていますよ」
透明な水面に立って薄く笑う天使さま。
たとえカメラがなくたって。
アリフはその姿を生涯忘れることはないだろう。
網膜という名のレンズに、しかと焼き付けたのだから――
後に「ブリガンガの奇跡」と呼ばれるこの一幕は、ダンジョン発生以後、世界で始まった環境改善運動の鏑矢となった。だが、その顛末を伝えた記事が無名のフリーライターによるものであることは、あまり知られていない。
しかし、彼の綴った一文はスローガンとなって星を駆け巡った。
“取り戻そう、故郷を”と。




